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 <ついに息絶えた「舞鶴の松」>

 さようなら。さようなら。

 日本を関東を代表する赤松の木

 樹齢450年とも
 500年とも

 最後に生まれた

 松ぼっくり数個

 青い松葉

 それも枯れて

 死にました。

 かわいそうに

 残念だね

 よくがんばったね

 よくたえたね

 ご苦労さん

 自分の子供

 慈しむように

 舞鶴の松に

 言葉をかける人々

 葉も真っ赤になってしまったけど

 木の中も腐っているけど

 舞鶴の松は

 多くのひとの心を秘めて

 これから

 第二の人生に旅発ちます。


 

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 あなたは知らない間に

 そのいのちを閉じました

 あなたの大きさや太さは

 山梨県では一番でした。

 そう、武川町の「舞鶴の松」

 より逞しく、空につきさすように

 節くれた枝が伸びていた

 その松が

 今は、誰も通らない道の片隅で

 静かに眠っている

 そう、お休み、おやすみ

 おやすみなさい。

<写真記事は、 『小淵沢町誌』>

 

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 <今話題の山本勘助と北杜市>

 テレビドラマでお馴染みになった。「北杜山本勘助」
 つい最近まで、なにもなかった地域に、
 忽然と勘助君は現れました。

 テレビドラマで宣伝され
 武田三代の館が一夜にして出現
 勘助の墓まで現れ
 ゆかりを作り変えた寺まで出現
 瞬く間に、
 北杜市の代表的な
 観光になりました。

 行政が
 歴史家が
 報道が
 山梨県が
 
 一緒になって
 歴史を創り上げた

 歴史は創るものではない
 何人も歴史を創作してなりません。

 と、私は思います。

 さて勘助君は資料では
 まったく北杜市とは関係ありません。

 以下は資料で
 疑問があったら図書館で「北杜市高根町誌」を
 ご一読ください。

 地域の資料を大切に

 そうそう
 勘助君は、来年から
 また、深い眠りに戻ります。
 
 そして北杜市の歴史からも消えていきます。

 それは一瞬の泡沫的歴史でした。
 


○ 信玄帷幕の謀将は誰か(P255)
   山本勘助、真田幸隆

 武田家に於ける帷幕の謀将は誰々であったと云ふと、先ず第一に誰でも、軍師として山本勘助晴幸を考へるのであろう。そして又これに続いては真田弾正幸隆を挙げるであろうと思われる。
 武田信玄と云えば川中島合戦を聯想し、川中島合戦と云えば山本勘助を聯想する。 事程左様に山本勘助晴幸入道道鬼斎の名前は有名であり、…真田三代記等と云ふ様な俗書によって真田弾正幸隆の名も人々に親しまれている。
 乍然事実は人々が考えている、山本勘助や真田幸隆は武田家に取って然程重要な役割を演じた者ではなかったらしい。
 (略)
 山本勘助晴幸は天文十二年(1543)より永禄四年(1561)の川中島合戦迄の此の間大功を立てたのは天文十五年(1546)の戸石合戦の時であった。若い頃諸国を遍歴したと云ふだけで諸国の事情に通じ、天文、兵法、槍術等に亘り、当時天下に幾人と数えられる程の人傑であった事は間違ひなかったであろうと思われるが、 前期武田家譜代の諸将に比しては、身分が低く始め知行二百貫を賜り、後八百貫迄に立身した事は甲陽軍艦にも見えるが、百騎二百騎を預かる所謂侍大将ではなく、足軽大将であったのである。
 (略)
 真田三代記や俗書に見る川中島合戦などでは、一世の謀将として扱われ、殊に川中島合戦の時は、所謂山本勘助の啄木の戦法に反対しが、用ひられなかった。若し信玄が真田の戦法を採用して居れば、甲軍の大勝利に帰したのである。とか何とか色々云はれているが、事実はそんなものではなかったらしい。
 (略)
 山本勘助にしても戸石合戦に於ける甲軍の敗勢を救って勝利に導いた事は抜群であったが、川中島合戦に於いては、越後の名将、上杉謙信の為に見事裏をかゝれて作戦失敗の責を負ひ遂に討ち死にしてしまった程で、勘助一代の不覚と自らも称しているが、兎に角失敗であったのである。川中島合戦の失敗は相手が名将謙信であったえ恕す可き点もあるが、勘助晴幸には更に此の外に失敗がある。
 (略)
 「諏訪頼茂息女年十四歳になり給ふ。晨朝かくれなき美女にてまします。これを晴信公妾にとある義なり」 について老臣が反対したが、山本勘助が老臣を説得し納得させた。(内容、既に記述)
 (略)
 これは非常に功利的な考え方であって、また人道にも反した事であり、山本勘助ともあろう程の考へる可き、事ではなく又信玄すべき事でなかった。これは川中島合戦に於ける作戦の失敗以上の大失敗であると言へると思ふ。
 川中島合戦では謙信のために裏をかかれとは云へ、これは部門の恥ではなく堂々たる作戦の失敗であって、何等恥べき事でなはい。云々
 (略)
 馬場美濃守が築城の術を山本勘助に習った事は、甲陽軍艦「軍法の巻」に左の如く見えることによって事実であろう。
 「……略……侍大将のつけ城、是は少別なり、一つにしても不苦、右三河牢人に山本勘助と申武士信玄公、御譜代のごとくにめしつかはるゝ者也。当家の城取はこの勘助流のなり、勘助に馬場美濃守能く相伝す」……略……
 とあって、駿河の江尻城、田中城、信州眞木島城の縄張りと伝へられている。
 川中島合戦はで有名な海津の城は、山本勘助の縄張りであるとも言われ、又一説に馬場信房の縄張りでもあると言われているが、これは山本勘助生存中の事であり、山本勘助の縄張りであると言ふ説の方が正しいと思われる。
 信州小諸城の城門も勘助晴幸の築いたものあるとされている。要するに当時山本勘助について馬場民部信房が、小諸、海津等の普請には実際指導を受けてものであろうと考えられる。
 尚山本勘助に就いて言へば、今尚残る名刹甲斐の善光寺、(甲府市里垣町)も其の普請に当たって山本勘助が、監督の任にあったと言われている。
 (略) 幸田露伴博士は「武田信玄」の中で
「永禄四年九月十日、川中島の大戦に其不自由な身の六十九歳の老体を馳驅奔突させた挙句、大小八十六カ所の創を負ふて、悪戦苦闘し、川中島八幡原の草の中に魂魄をたたきつけて戦死したころは實に痛快壮快の好男子である」と云っていられる。(略)

 

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