馬場美濃守信房

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 <馬場美濃守の墓>

 北杜市歴史講座 馬場美濃守信房公

  馬場美濃守信房の墓(長篠)

 馬場美濃守は、寒狭川右岸で戦死したが、その墓は、長篠城址の西方五百米程の位
置、寒狭川の左岸にある。現在墓場には、「馬場信房殿戦忠死の碑」と刻んだ碑と自然石の碑との二碑がある。殿戦忠死の碑は、明治二十四年十一月二十二日の建立だが、自然石のそれは以前のもので、文字は風化してしまって現在は読めない。建碑工事の折。前からあった墓石の下から、数片の骨片と素焼きの皿二枚が出た。皿の一枚は越後の馬場氏に賜り、他の一枚は林重三郎が保存している。林家では、その骨片を馬場美濃守信房の遺骨と信じ他の長篠合戦関係資料と共に、希望者には参観を許していた。ところが、昭和のはじめ、第八高等学校の学生が林家を訪ねた折「名将の遺骨を見世物にするとは何事か」とひどく憤慨した。当時の林勲平氏は感動して、昭和三年五月二十一日、遺骨を瓶に納め、蓋表に、明治二十四年九月馬場公ノ墳墓ヲ改修して遺骨数片を得、爾来郭林ニ保管セシカ当主勲平所感アリ仍テ之ヲ還納ス 昭和三年五月二十一日 医王寺廿七世良仙識


 と記して、良仙師を始め三人の僧侶が、読経して埋骨した。…『長篠古戦場見聞録』

 馬場美濃守信房の墓 (三河國二葉松末)
 長篠村、武田臣馬場美濃守信房の墓あり、出沢の沢尻ニテ討死、頸ハ長篠橋場近所
に埋ム、此所元禄年間ニ畑トナリ石塔ノミ今に有り  『甲陽軍艦』

 
  馬場美濃守信房  戦陣五つの信条 
 一 
 敵より味方のほうが勇ましく見える日は先を争って働くべし。味方が臆して見える日は独走して犬死にするか、敵の術中にはまるか、抜けがけの科を負うことになる。
 一
 場数を踏んだ味方の士を頼りにする。その人と親しみその人を手本としてその人に劣らない働きをする。
 一
 敵の冑が吹き返しがうつ向き、旗指しもの動かなければ豪勇と知るべし。逆に吹き返し仰向き、旗指しもの動く時は弱敵と思うべし。弱敵は躊躇わず突くべ
   し。 
 一
敵の穂先が上がっている時は弱敵と知るべし。穂先が下がっている時は豪敵。長柄の槍そろう時は劣兵、長短不揃いの時は士卒合体、功名を遂げるなら不揃いの隊列をねらうべし。
 一
 敵愾心盛んな時は、ためらうことなく一拍子に突きかかるべし。   
 信房、十八歳にて初陣し、一生の武功数知れず、中にも我備に勝れしこと二十一度、
諸軍に勝れしこと九度、兵を小幡虎盛、及び山本晴幸(勘助)に学び、軍旅の奥儀を究め、晴信を佐け、意に威を海内に震へり。
  
  
 馬場美濃守信房公の戦旗 【二筋山道】

 自元寺由緒書末尾『馬場美濃守信房公の子孫』史跡保存館発行

 自元寺開基馬場美濃守信房始メ号教来石民部少輔到信玄公美濃守信房改被下信虎・
 信玄・勝頼三代武田家爪之
 老臣云享禄四年十八歳ノ初陣ヨリ数十余度ノ戦ニ高名ヲ露シ一生終ニ疵ヲ不蒙然而
 天正三年乙亥年五月二十一日於三州長篠合戦引受け家康・信長等大敵其日兼而遺言
 シテ思定メ討死にスト云長篠ノ橋場ヨリ只一騎取テ返シ深沢谷ノ小高キ処ニ駆ケ揚
 リ馬場美濃行年六十二歳首取リテ武門ノ眉目ニセヨト呼ハリケレバ敵兵聞テ四五騎
 四方ヨリ鑓ヲ付信房太刀ニ手ヲ掛ケズ仁王立ニ成テ討セシハ前代未聞ノ最期也  
 首ハ河合三十郎ト云者討取ル 兼テ遺言ヲ承リシ家臣原四郎遺物遺骨を持来於甲州
 自元寺法事等相勤 法名乾叟自元居士 墓所白須有也
 享保十二年丙牛年江戸大塚住旗本大番馬場喜八郎殿ヨリ被来享保十二ノ冬御位牌
 修補成リ越方金一歩書状等御差 添向陽院古同ト申僧ノ状相添被越候 此方ヨリ返
 事礼状 仕候喜八郎殿知行四百石余 自元寺住職恵光代
 
 一、馬場美濃守信房 号 
   乾叟自元居士、馬場民部少輔信忠 又云フ初ニ信春於信州深志城討死

 一、号 信翁乾忠 此ノ二代御位牌立成過去帳記載有之候

 一、馬場民部少輔信義 初号 勘五郎 此代家康ヘ御奉公相勤候

  自元寺 馬場美濃守の位牌

   正面  開基馬場美濃守源公法号乾叟自元居士
   右 柳営幕下小臣武州豊島郡大塚公五世胤   
馬場喜八郎義長旧名義教拜白左  
公七世外孫出家得法同牛込竜山松源禅寺
   向陽院惟庸字古同敬書
   裏面  信州槙嶋城主甲国武田舊臣新羅后胤馬場美濃守源公諱信房
   始稱敬禮師民部少輔諱正光天正三年乙亥五月廿一日六十三
   歳或作四役于参州於長篠西北之間滝川橋場自殺従者齏遺骨
   少帰州臺原墓石采地 或云武河之白須村於自元寺以佛古又
   祭法号如前面矣聞自元寺之神儀弊壊新之贈寺旦欲迎其壊於
   家而仰鎮護也 自元寺馬場三代

一、信房法名自元乾叟自元居士
  天正三年乙亥年五月二十一日於三州長篠討死生年六十三歳   
  家臣原四郎承遺言 遺物遺骨等来於白須村自元寺法事相勤御墓名塔立来

一、馬場二代民部少輔信忠 法名信翁乾忠居士 信房嫡子 信忠或ハ信春と
  云  天正拾年三月信州深志之城討死  

  自元寺過去牒ニ記墓所有之

一、馬場三代民部少輔信義是ハ信忠の嫡子此の人始めて家康公に仕へ法名
  等相見不申    右之通相違無御座候以上

   

   慶応四年戊辰七月  巨摩郡片颪清泰寺末

 筆註    
 …三代馬場民部信義は『寛政重修諸家譜』によれば馬場美濃守の子供で長男が二代信忠で次男が信義(民部勘五郎)で「東照宮(家康)に召されて御麾下に列し、甲斐
国白淵(洲)、教来石、台原等のうちにをいて旧地をたまひ、天正十七年采地を加へ
られ、御勘気をかうぶる」とある。
 又『寛政重修諸家譜』の馬場信久の項に、「信保(武田信虎に仕へ、甲斐国武川谷
大賀原 台ケ原 根小家の城に住す」−長男馬場美濃守信房−次男善五兵衛信頼、
(兄信房の家嫡となる)−その子供が信久−その子供が信成で根小家に住し、武川の
諸氏と共に徳川家康に仕え本領の地を給う(右衛門尉・民部)とあり、信義と信久は
同一人物の可能性も有る。「根小屋」の地は現在も白州台ケ原の尾白川の対岸高台に
あり、縄文・中性の遺跡も発屈されている。馬場一族として後世包含されているが、
馬場美濃守と馬場信保の家系の繋がりは不詳。 

  自元寺に現存する古文書(寺領)

 一、三十七間  廿二間  屋敷弐反八畝拾壱歩  自元寺
是は自元寺屋敷の儀千六百八拾五坪御免坪にて四奉行衆御黒印取揃先年は白須村の内坊田と申所に寺御座候所先御給人馬場民部殿御知行所の時分六十九年以前辰年民部殿御指図を以高外芝間の処を寺地に仕立て御黒印の屋敷共に御年貢不納地に而御座候間前々の通御除地に被仰付 下度候

一、廿間  八間  下田五畝拾歩  同 寺  領
是は自元寺屋敷黒印地林の内十五年以前戊年開発仕御年 貢不納地に而御座候間前々
の通り御除地に被仰付下度候

一、廿壱間  拾五間 下田壱反拾五歩  同 寺 領 右  同 所
一、五拾間  三拾間 同 寺 領
是は白須村先御給人馬場民部殿御知行の節七拾年以前民 部殿より白須村御高の内中田弐畝拾八歩下畑弐畝弐歩田畑合四反八畝八歩の所御年貢なしに自元寺に被下置申候民部殿御替り八代越中守殿御知行所の時分も前々の通り御年貢なしに被下置候然所に御蔵入に罷成平岡七兵衛殿御代官所の節右四反八畝八歩の田畑御高内の由にて御年貢被仰付候に付自元寺退転ニおよひ申躰に御座候故村中相談を以つて白須村高外向川原にて新田開発仕自元寺へ付申度由七兵衛殿に御訴訟仕候処願の通り仕候様にと被仰付右川原間三拾九年以前戊年開発仕自元寺へ付置申候其以後平岡勘三郎殿御代官の節超間御改の時右のわけ申 候間前々の通り御除地に被仰付下度候


<関連サイト>
 ■http://search.yahoo.co.jp/search?fr=slv1-tbtop&p=%c7%cf%be%ec%c8%fe%c7%bb%bc%e9%a4%ce%ca%e8

  小兵にて信長の大軍に向う

 天正元年(1573)三月、晴信服を中原に建てんと欲し、先づ岩村城を攻む。織田信長、一万二千余人を引率し、大斥候(おおものみ)の如くに打世たり。信房は手勢相備、真木島に多く残し置きければ、歩騎僅八百余にて出けるが、只今打出でしは、当時天下の武将、織田信長とこそ覚ゆれ。天下泰平の物始に、信房が手並を見せんと言ふ儘に、一万余の大敵に、八百余人を魚鱗に立て、少しも猶予の気色なく、真一文字に突掛れば、信長、信房、追撃騎馬三騎歩卒三十七人打取り、軍勢を引湯げ、備を堅めたる形勢、天晴絶倫の挙動哉と、敵も味方も、大に感称せり。
七月、徳川の兵長篠を攻ること急なり。信房等後援す。信房、軍を隘路に屯して、武備厳重なり。容易に攻ること能はず。依て誘引出して伐つべしと兵を伏せ、所々に松葉を積み、烈風に乗じ火を放ち、陣営を焼払ひ、兵を退るの状を為す。小山田兵衛尉信茂・穴山伊豆守信良入道梅雪梅雪等の手より、焔の起るを見て、追撃んと、五騎三騎づつ馳出づ。信房、兵士を止めて曰く、我此烟を見るに、其色白し。決して陣を退るの烟にあらず。収敢へず、是必ず奇計ならんと言て動せず。果たして小山田・穴山の土卒、伏に逢へり。
九月、勝額遠江を侵す。帰陣の時、徳川家康、掛川の城代石川日向守に命じ、勝頼を鳥銃を以て入坂の切通にて狙撃させける。信房之を見出し、狙ふ者三人の内、味岡と云ふ者擒(とりこ)にせり。
信房、我今年まで三十一年の間、甲・信・飛・越・上・武・遠・三等の切所々々危き所に、心掛け候ひしが、其分別当り、若き勝額公を空く成し申さず候と言ひしとぞ。
信房、駿州田中に在城の時、栖楼に登り、其栖楼より見ゆる処の村々へ人を遣はして、自然敵出たる時は、何の村は何に火を何にと立よ。火事杯の時は何せよ兼々定めさせ、栖楼に登りて我座を定めて、そこそこの柱に割(きざ)みをして置き、夜中にも何事と言へば、彼栖楼に登りて、数の割みを見て、知らぬ顔にて居たり。敵は大方出間敷、何村の火事たるべし、人を遣はして聞けば案の如く火事なり。諸人不思議の思を為せりとぞ。 

  五つの目付

 信房に、若き侍五七人して、何ぞ後学に成るべき事を語られよと言ければ、信房、剛勇と臆病とにて、功名不覚はあることながら、一ツは心掛にて候。某若き比より、五ツの目付を致し候が、夫よりしては、余り不覚を板たることはなく候。其五ツはと言へば、信房、
一ツには、敵より味方勇みて見ゆる日は、先を争ひ働くべし。
 味方臆して見ゆる日は、独進て犬死して、敵に機を付るか、
 去らずば抜掛の科を負べし。
二ツには、物数ある味方の士に便り頼み、其人を手本と為し、其人に劣
 らじと働べし。
三ッには、敵の冑の吹返俯き指物動かずば、剛敵と知るべし。
四ツには、槍の穂先上りたるは弱敵なり。穂先下りたるは剛敵なり。
 穂先揃へたるは長柄数槍なり。長短不同なるは、士槍なり。
 士槍に掛るべし。
五ツには、敵気盛なる時は、受て怺へ、衰を見ては一拍子に突掛るべし。
 是五ッの目付なりと言ければ、人皆感じあへり。
信房日く、
 戦場は千変万化にて兼ねて定めたる事の違ふことあるものなれば、違ふ所に任せて、能く働くを以て肝要とす。定めたる違へば、夫に当惑して狼狽するにより、大なる負にもなり、穢なき首尾にもなるものなりと。
 又日く、主人の好き好むことを勧め、聊の諌めをも申さゞる人をば、心を付けて見るべきことなりと。

信房、常に戦場常在と日ふ四字を、壁間に掛け置き、平生の誠(いましめ)とせり。

信房、或城を攻めし時、銃丸適度に来りし故、鹿角の胃を着たりしが、冑を振て下を見れば、鳥銃上りて、一ッも味方の士卒に中らざりしとぞ。 

 武士を誉める作法

 穴山信良、信房に向ひ、徳川家康は、人に勝れて利根なる人にて候やと言ふ。信房、憚ながら左様の御詞を他国の人々承はり候はゞ笑ひ候ひなん。抑々武士が武士を誉むるに、作法定まりあり。
 第一に謡舞、或は物を読むに悟りの敏なる人を利根なると曰ふ。父性作とも才智とも曰   ふ。柄又は品の善き人を器川なると日ふ。叉性発とも才智とも日ふ。
 第二に坐配能く、大身小身に打合、取成しもあぐまず、軽薄にもなく、質にもなく、如   何にも見事に仕合するを、利発人、公界者と日ふ。
 第三に芸つきも無器用に、坐配も仕得ずして、武辺の方に賢きをば、利口者と白ふ。此   人を心掛け者強ね者、仕さう成る者と名付て呼び候。大身小身共に其の如くなり。
   箇様に分けて、夫々に名付て言はねば、国特大名杯(など)、合点ならず候。信玄   公若き御時より、御穿鑿あり。曾根内匠・真田喜兵衛・三枝勘解由左衛門三人に仰   付けられて、浪人の参る毎に、右三人先づ其侍を見届け、大々に披露致し候と言は   れけり。

  放討

 信房日く、放討の時、切結びし節に、別人脇より討て之を殺さぱ、定めて殺したる人、之を討しと言はん。去れども是は非がことなり。其故は人の寄り兼ぬるを、抜出て掛る心は勝れたり。其上、人の切合ふ所へ、横或は後より掛りては、掛りよからん。夫れば切合ふ者の手柄は一にて、殺せし者は二なり。又先へ掛りたればとて、科人(とがにん)に手を負はせずして立退くか、又一二ケ所切付けても、続き出る人に渡して、引込みたらんには、後より出る者一なりと。
 小山田信茂、信房に何ひ、町人は力の強き者計り手柄をすると思ふと見えて、将隼義教を弑(しい)せし赤松左京大夫満祐を、贔屓の町人誉めて書きたる書に、三百人力と書きたりと言て笑へり。信房聞て、去れば侍が商売の事を談ずるに、左様の不案内なる事多からん。嘸ぞ町人共笑く思ひ候ひなん。其道々に寄りて、家の事になきは、取沙汰笑きものなりと言はれけり。

  長篠の役

長篠の役、信房及び、山県昌景・内藤昌豊三人、勝頬を諌めて日く、敵蛍十三方余と相見え候。其上に隣前に三切所を横へ、三重の柵を振て、只籠城の体に異ならず。是れ則ち十七万の敵と戦ふに等し。然るに味方一方余人を以て戦を挑まんこと、存も寄らず。大敵襲ひ来るに及びては、隠遊の術を以て、一と先づ甲州へ御馬を入れ絵へ。信長・家康、後を慕ひなば、信濃の内まで入れ立て、然くして戦を結ばんには、敵大軍なりとも、必ず御勝利ならんと。長坂頼弘日く、新羅三郎義光朝臣より先君まで、数十代の間、敵を見て引龍り給ふことなきに、当屋形の御代に及びて、引籠り給はんこと如何なりと。勝願、頬弘の言を然りとす。
 信房又日く、去らば長篠城を我攻に遊ばさるべし。味方手負・死人とも千人に過ぎ申間敷候。子細は此長篠の城に、鳥銃多くして五百挺もあらん。然らば初度の鳥銃にて五百討死、二度日は狼狽して打なるべし。是は手負五百、倍こそ手負・死人ともに千には過ぎ申間敷、其中又手負死人少しは寡きことも候べし。夫を際に御馬を入られ然るべくと。頬弘曰く、味方一騎打るれば、敵千騎の強みと承はるに、今此大敵を引受けながら、味方一千の手負打死は如何と。勝頼又然りとす。
 信房又日く、去らば城を攻落し、城の掃除して屋形を入置き奉りて、逍遥軒信連を始め奉り、御親戚の人を悉く後に陣取らせ、総人数は御旗本の先備にして、山県と内藤と某と三頭川を越し、時々迫合して、長陣を張らんには、味方は近き信濃より運漕し、敵は河内・和泉の者あれば、長陣成らずして、終に引き申べしと。頼弘又日く、夫は悪き分別なり。信長程の大将が、徒らに引申べきや。押掛りて戦ふ時は如何と。
 信房日く、彼より押掛り来らんには、戦はずして成らずと。頼弘日く、彼に押掛られて戦はんも、此より進みて戦はんも、一つ道理にてこそ候へと。勝頼又然りとし、御旗無楯(みはたたてなし)を誓はれければ、此上はとて、一戦にそ究まりける。

  清田の水酒宴

 信房等、勝頼が諫に従はざるを悲歎し、武田の家運傾覆の時至れり。生ながら国家の滅亡を見るに忍びざれば、潔く戦死して、国に報ぜん。先づ戦地を一覧して、不覚の名を残すまじと、翌二十日、老臣の人々同道して、共に清田村に至り、地利を考へ、後ろの池に立寄り、馬より下り、床机に腰打掛け休息す。
 信房日く、明日の戦は志を必死に決す。卿等を始め、我とても先君の世より、世に忠義を励み、交を厚くせしが、参会も今日のみなり。酒宴を為して、其情を尽さんと思へども、今更に為すべき様なし。幸に此清水を汲み、酒に擬し、生前の別を憎むべしと言ひ、即ち従臣に命じ柄杓を以て清水を汲ましめ、勝間の水呑杓にて一杯を尽し順々に酌替はし、情を尽して帰る。時人是を清田の水酒宴と白ふ。
二十一日信房七百余人を以て閑防の麓を押出し、大宮の前、佐久間右衛門尉信盛が五千余人柵外に張出し、小塚の上に備居たるを見て信房七百余人を二ツに分ち、三百五十人を以て真一文字に突掛り、信盛を敗て、首四十三級を得たり。信房台に馬を乗りあげ、労れたる三百五十人を、塚の後に休ませ、荒手三百五十人を以て、台の上に備たり。信盛は一戦に打敗られて、柵より外に出ざるにより、直に進で一の柵を引破り、又敵を突崩す所に、森川庄造長可(ながよし)・明智十兵衛光秀・不破河内守・徳山五兵術則秀等、信盛を授けて一万余人にて押掛るを信房六百余人を左右にし、真先に進みて突掛り、二の柵に於て敵に当ること既に十三度なれば、皆鳥鉄に中り討死し、朧二百余人に成にげる。去れども少しもひるまず、二の柵に馬を乗入れ二百余人を下知して、悉く柵を取払ふに、敵敢て出合はず、只鳥銃を以て打すくめけるに、二の棚にて打たるゝ者、又百余人なれども、少しも虎口を緩めず。
 此時真田源太左衛門信綱・土屋右衛門尉昌次等、是非に引取れと、追々に軍吏を立るにより、信房八十余人の朱に成りしを前後に立て、引退き、又軍勢を休め、三の柵際に至り、前田左衛門利家・野々村三十郎幸勝等が鳥銃の備を迫散す。此時都合九度の駆合に、味方悉く討死す。然れども信房は未だ手疵をも蒙らず、同心被官に向て日く、今朝卯の刻に、打川し時は七百余人なりしかども、今午の刻に及びて、三時の迫合に、僅八十人に討成さるゝまで、汝等信房を見届ること神妙なり。山県・内藤・真田・土屋を始め、各討死したる由、汝等は早く引退くべし。我は御旗本を守護し引退んと言へども、一人も引退かず。
然る所に一条右衛門大夫信竜、信房に向ひ、諸手大将残らず討死と見えて、備乱れ候。此上は怺へても詮なきことなり。御旅本を引退く方然るべく候はんかと言ふ。
 信房日く、多分勝頼公も御討死成さるべきかと存ずるにより、我等未だ存命候。御討死なくば、御旅本の退くを見て退き候はんと。此時信竜の同心和田刑部、信房に何て、御肌本の合戦厳しく見え候。散卒を集められ、勝頼君を退け奉られ候へかしと申す。
信房、其時斯る後れ口には、下知も用ひぬものなれば、只忠義には一人なりとも、命を継て重ねての御用に立べし。汝も早く引取れと言ふ所に、徳川の脇備本多忠勝・榊原康政・本多重次以下突掛る。
勝頼少しも騒がず、馬を進むるを、土屋総蔵昌惟、馬の轡を引返し、勝頼を退くる。信房は勝頼に二町計り引下り、残兵八十人を率ゐて、勝頼の旗影の見ゆる程は、敵を会釈し引けるが、猿ケ橋の此方より引返し、浜沢谷の丘陵に踏止まり、

吾は馬場美波す信房と曰ふ者なり。討て高名にせよと、如何にも尋常に呼はりければ、敵十騎計り、四方より鎗付るに、終に刀に手をも掛けず、泰然として首を授けり。昨二十日の夜、跡部・長坂に向て、合戦を勧め奉る各は、自然遁れ給ふこともあるべく候。留め中す馬場美濃は、大方討死すべしと言ひしが、果して然り。是より武田氏の鋒大に衰ふ。
信房、十八歳にて初陣し、一生の武功数知れず、中にも我備に勝れしこと二十一度、諸軍に勝れしこと九度、兵を小幡虎盛、及び山本晴幸(勘助)に学び、軍旅の奥儀を究め、晴信を佐け、意に威を海内に震へり。

 <名将言行録>


    北杜市 歴史講座 馬場美濃守信房公

馬場美濃守の記載のある書の紹介
『名将言行録巻之九』   印…筆者註  
   馬場信房

 初め教来石民部少輔景政(きょうらいいしみんぶしょうゆかげまさ)と称し、後馬場氏を冒し、美濃守信房と改む。真木島城に往し、二万五丁石を領す。武田家四臣の一人なり天正三年(1575)五月二十一日戦死、年六十二。
  生まれの記録は無いが単純に逝去年から年齢を引くと永正十一年 (1514)の生まれとなり武田信玄より七歳の年長となる

  諏訪を平らぐ 信房 ?歳 
 信房末だ教来石に居たりし時、信州の諏訪明神に日詣をしけり。後には大祝もに知る人になりて、懇(ねんごろ)に言替はしつゝ、何事の願ありて、斯く計り厚く信心を凝し給ふにやと問ふ。信房、某は甲州の小給人にて候が、年々軍の供えの当るが迷惑にて、陣用意の当らんと覚ゆる時は、此明神へ参詣して候へば、不在なれば力なく陣の供を外れ候と答ふ。祝の心には、臆病至極の男哉と思へども、甲州の風聞を探り知らんには、此男能き方人と、猶も労(いた)はりければ、武田家に事実を少しづゝ語る程に、祝(ほうり)弥々芳心を加へ、様々の引出物して酒を進め杯(など)しつに信房快よげに、酒を飲み、遂に沈酔して前後も知らず臥したりけり。祝、之を見て、密かに信房が刀脇差を抜き見るに、赤く錆て、実に見苦敷物なれば、速に鞘に納め、燧袋(ひうちふくろ)臂袋(ひじふくろ)之を開き見るに怪むべき程の物なく、但是在住の足軽に疑なし。是に於て祝日く、御辺は軍に出ること嫌ひ給はゞ、此明神の氏人と成りて、此神郡へ移られなば、永く兵仗の難を免かれ給はんと勧むれば、信房大に喜びて、忽ちに甲州の産を収めて、諏訪へ移る。祝則ち神郡の内にて、山深き所に住ましむ。信房、諏訪に存ること凡そ三年、諏訪郡の内の案内悉く熟知せり。依て時々甲州に至て、内外の消息を求めて、祝等に告げ知らす。祝等も信房の愚直を隣み、神郡の大小事、之を秘するに及ばず。信房悉く諏訪の所置を見定め、爰を攻て彼を取り、彼を討たば、爰を疾ましむべきと云ふことを考へ、偖(さて)甲州へ帰り、晴付を勧めて、諏訪を撃平げたり。

  輝虎の清野攻めを守る 信房 四十歳

 天文二十三年(1554)六月、上杉輝虎、便を遺はし、浦野宿を焼んと言ふ。晴信、信房に防戦を命ず。信房則ち郷民を集め、宿の左の屋の上に、鉄焔足軽を伏せ、右の崖の上に、弓足軽を伏せ、家々に士二三人づつ郷人に副へて入れ置き、別に火を消す役人を定め、夜宿の入り口右の山手に、証拠の旗を建つ。是敵の押来るを知らする為めなり。又老臣波合主膳に士五十騎頂く。是は宿中の差引をさせん為めなり。夜、郷民大勢を清野と鼠宿との間、所々に伏せ置きたり。信房は備をば宿に残し、自身は従者八騎連れて、宿を離れて斥候(ものみ)に出たり。輝虎は五千騎を三手に作て押来る。宿の入り口、道端狭し。信房、敵を見切て宿へ帰り、輝虎の先備を寄せし図を見合はせ、一の貝を吹くと等く、銕炮足軽、屋の上に顕はれ、輝虎の二の備へ打掛ける。一の備之に驚き、上を通る銕炮の丸に心を奪はれたる所を、二つの只を吹くと等く、弓足軽屋の上に顕はれ、差し下ろして散
々に射る。之に依て、一の備騒ぎたる所に、三の貝を吹くと等く、家の内に居たる人数、戸壁を敲きて関を作る時、相図ありて、跡の伏兵、形は顕はさずして、一同に関を作る。
 越後勢、前後の関に驚きて、悉く色めく所を、信房備を進めて突掛る。此節も猶屋の上の足軽は、銃砲を二の備へ打入れて、路を打切り、輝虎の一の備悉く敗れて、二の備へ崩掛る。二の備は先に代はらんとすれども、道狭ければ叶はずして、共に敗れたり。信房厳しく追撃して、軽く引揚げ、宿に入て堅く守りけり。晴信一万の人数を引率し、小室より出て、清野に十町程手前まで、来り居たり。此備にも関を揚げし故、弥々大勢の様に越後勢思ひしとぞ。

  甘糟景持を破る 

 河中島の役、廿糟景持退口の時、信房犀川(さいかわ)まで、之を追撃つこと三度、景持踏止まりて備を立つれば、信房退て待てり。都合三度に及びし故、景持最早追まじと思ひ、犀川を人数半分渡る時、信房備を乱して之を迫ひ、大に景持を敗れり。

  薩タ山の砦を焼く

 甲相八幡平にて対陣の時、信房、薩・山の敵砦を見るに、夜毎に番代はりして人数通行せり。初は夜の四つ交代なりしを、次第に不同になりて、九つに代はる時もあり、八つに代はることもあり。信房、同心の者をして薩・山の砦の門を叩き・相州人の詞を似せて只今代りに来りたり、門明け給へと言ふ。番人喜びて門を開く。非時同心等押入て、向ふ敵を突伏せ、切伏せ、火の役者即時に火を掛けたり。敵大に驚て散走する所を、爰彼所に迫詰りて討補り、薩・山の砦を一時が間に煤落せり。
 一年、薩・山に一揆起りし時、信房兵を率ゐ馳向ひしが、敵を見懸けながら、今日は長途を来て士卒労れ、殊に日も暮に及べり。労兵を以て大敵に向ふこと、必勝の利にあらずと言て、進まず。人其遠慮に服せり。 晴信、駿河に攻入りし時、朝比奈を始として軍する者なく、今川氏真落たりしかば、晴信疾く今川の節に馳行て、名物の宝物共奪取り来れと下知す。信房聞きも敢へず、只一騎鞭に鎧を合はせて、馳行き、館に火を掛け、悉く焼払ひたり。是宝物共奪取て貪欲の師なりと嘲られんことを慮てなり。

  北条氏康と興津に対陣

晴信、北条氏康と奥津河原にて対陣せし時、晴信一二三より十までと、次第を定め、
一手限りの迫合(せりあい)せり。一日跡部大炊介勝資、番に当り、弓箭功者の人々が働く如くに深入して、松田が為めに二町計り押立られ、剰(あまつさへ) 喰留られ、退く
ことならず、悉く繋るべく見ゆる故、晴信、信房に命ず。信房日く、跡部三百騎を以てさへ、 成らざる所に、某百騎計りにて馳向候とも、難なく引揚ること叶間敷と。晴信、信
房が内藤昌豊両人の内参れと言はる。昌豊日く、あの如く敵に気を負はせ、後れたる所には、馬場美濃の外、誰か候べきと申にぞ、信房に定まりける。信房日く、去らば某参り敵を受取り候はじ、跡部は早々引湯ぐべき由、仰付られ候へと申故に、旗本より此旨中通じければ、勝資足早に引揚げ、信房百騎の兵を三手に作り、三所に置き、四十騎を率ゐ、松田に向ふ。松田小人数と思ひ、気負掛る。信房雑兵合はせて二百、ひたと折敷かしむ。是を見て、松田衆つかへたる所へ、信房二の手四十騎雑兵合はせて二百人に、弓銃互に射立打立させ、横筋違に撃掛り、松田が二百五十騎を打敗り、首七十三級を得たり。信房残る二十騎、雑兵合はせて百二三十の跡備を以て、二の城戸まで押込み、其後堅固に引揚げたり。晴信大に喜ぶ。此時信房同心土肥大弐と日ふ大剛の侍、深手を負へり。昌豊、信房に向ひ、大なる過せられ候と言へば、信房挨拶に、敵の崩るゝゝ両白さに我を忘れ、信房一代の不覚せしと言へり。晴信聞て我家の武辺穿鑿(せんさく) 、頂上に上りたると言は
れしとぞ。

  松田憲秀の屋敷を焼く

 晴信、小田原に攻入りし叫、町家は青ふに及ばず、侍屋敷まで悉く放火す。松田憲秀の屋敷計り残りたり。晴信日く、尾張後日に我屋敷計り焼せざると、高言吐んこと必定なり。是を焼残したるこそ遺憾なれと。信房日く、此度某は信州御留守居に定められしかども、御法度に背き、小田原御陣見物に参り候へば、御旗本前備に罷在り。何事にも構申さず、客人にて候。容人分にて、松田屋敷を焼き申べく候と望みければ、晴信聞き、此度只五十騎召連候計りにては如何と言はる。信房、左様には候へ共、成らずば、元のものと思召候て、仰付られ候へと申に付、晴信則ち望みの如く申付しかば、頓(やが)て信房焼きたる町の道筋毎に、城より出る所を考へ、今の萱木(かや)貝を吹き候はゞ、火を付けよと申付け、
信房は馬上十騎、足軽三十人引具し、松田屋敷に鳥銃を打せけれども、人声なければ、貝を吹き立、口々の萱木に火を付させ、偖(さて)松田屋敷に火を掛けたり。城兵出て防んと思ひしに、所々に焼揚る猛火にや怖れけん、一人も出る者なし。晴信、信房の術を感称せり。
  三増(みませ)の役

 三増の役、信房斥候に出て帰る。諸士如何にと尋ねければ、信房定めめて一戦成るべく候と言ふ。然れども其晩氏康引取り戦之なし。是は毎度戦の利あるをなき、なきをあると言ふ。又誉之ある時は、主人の名を楊る心底なり。之に依り、晴信常々信房を崇敬せられけり。
此時信房、晴信に掛りて、御勝利あるべく候へ共、味方手負多く之あるに付、如何と申す。又敵の引色を能く見済まし、其後申しゝことゝぞ。

資料(2)

<資料2>
 
 …『馬場信寿家書』  
 ◎(小田切氏が信翁乾忠居士の法名を高野山に納めたのは天正四年の事)
  ○ 武田勝頼、甲斐田野にて自刃す。武田時代信虎・
晴信・勝頼三代終わる。  
   11年 1582 ● 信房ノ奥方一ノ宮木工朝俊女天正十年卒。信州牧嶋興禅寺 年五十三歳。

 文禄  元年  1591 ○ 馬場民部信久駿河守死す。甲州武川谷大河原根護
  (小)屋の城に居住。

筆註
…馬場美濃守の生涯年譜を作成して見たが、正確さには自信がない。それは『家系書』…『馬場家系図』の信憑性に欠けるからであるが、馬場美濃の家臣団は南巨摩や東山梨郡に多い。今後の調査のヒントになる。ただし、馬場丹後守忠次は甲斐下部町常葉の馬場家の家系に見え、江戸前期には馬場八左衛門の名が見える) 参考 馬場美濃守虎胤について(詳細は不詳)   

   甲陽武田信玄公より谷村御領主代々   甲陽武田勝頼
   御郡代 馬場美濃守虎胤 信房の可能性もある  
   御郡代 馬場美濃守虎胤…『河口湖畔 船津今昔物語』より引用。
  筆者注
…馬場美濃守虎胤については全く不詳である。武田時代に於て甲斐の郡内地方の郡代を勤めていたと思われ るが、伊東堅吉氏著の『河口湖畔 船津今昔物語』の引用元が知りたいところである。虎胤の名は勇将であった原美濃 守虎胤がいる他には見えない。馬場美濃守の築城と縄張りについては東京都武蔵野金谷山大法禅寺の開創三百五十五年記念誌に掲載があるが、現在の長野や静岡を今後とも調査して見る
必要がある。

『甲斐国志』による 馬場美濃守信春(信房)

 信州下郷起請文永禄十年(1567)名押アリ。野州小野寺修験江田松本坊蔵系作
信武箕輪軍記同之宣従焉信玄全集、三国志、軍艦大全傳解等皆爲信房或改名カ未詳異本徳川記作信政其餘作氏勝者多シ烈祖成績云今従播州斑鳩寺過去様帳為氏勝按スルニ播州ハ遠境ナリ。有所縁人偶修追福ニヤ寺僧ノ所其豈足徴乎最難信也。北越軍談ニ云信房後ニ改信里未知所證疑フアラハ空言ナリ。
 軍艦云、天文十五年(1546)武川衆教来石民部を擢て五十騎の士(さむらい)大将とし馬場氏と改め民部少輔と称す。
 三代記云、馬場伊豆守虎貞ト云者直諫爲信虎所戮嗣晴信立令教来石民部影政爲紹馬
場氏之祀云云。虎貞の事未知明據故不采教来石ハ武河筋ノ村名ナリ。彼地ハ馬場氏ノ
本領ナレハ時ノ人稱之カ爲氏族者本州ニ所見ナシ

 永禄二年 1559
 加騎馬七拾合爲百貳十騎。此内ニ小幡彌三右衛門(小幡山城庶男)・金丸彌三左衛門・早川彌左衛門・平林藤右衛門・鳴巻伊勢守・鵄大貳(本ト根来法師長篠ニテ飯崎勘兵衛ト名乗リ討死スト云、其弟ハ二位)皆饒勇ノ裨将ナリ。同八年1565 授 美濃守。武田家ニ原美濃ノ英名アルヲ以テ令 外人避 其稱 最モ規模トスル所ナリ。明年十月信州真島城城代トナル。信玄ヨリ七歳上ニテ信虎ノ代ヨリ功名アリ。道鬼日意カ兵法ヲ傳得タリ。場数二十一度ノ証文、其方一身ノ走リ回リ諸手ニ勝レタリト褒賞セラルゝコト九度ニ及ベリ。戦世四十餘年ヲ歴テ身ニ一創瘢ヲ被ル無シ。知勇常ニ諸将ニ冠タリト云。旗ハ白地ニ黒ノ山路、黒キ神幣ノ指物ハ日意ヨリ所乞受ナリ。天正三年 1575 五月廿一日長篠役軍巳ニ散シテ勝頼ノ馬印遙ニ靡ナビ 走ルヲ目送シテ立還リ傍小岡テ坐シ大ニ喚テ云、馬場美濃守ナリ今将就死ト終ニ刀柄ヲ握ラス。安然トシテ首級ヲ授ク。

 諸記ニ深澤谷ニテ塙九郎左衛門内河合三十郎討之参河國墳墓記ニ馬場美濃守信政ノ
墓ハ長篠橋場近所ニ在シテ元禄中毀テ爲畠馬場ハ須澤ト云所ニテ討死、信長ノ幕下岡
三郎左衛門獲首賜感状三河国政績集ニ須澤作出澤)
 法名乾叟自元居士 武河筋白須村自元寺ノ牌子ナリ。

 馬場民部少輔

 美濃守男ナリ。大宮神馬五匹(同心ト共ニ)トアリ、天正壬午ノ時民部信州深志城ヲ衛ル。(三国志ニ作信春,一書ニ氏員又信頼ハ信房ノ甥ナリ。戦死ノ後家督セリト皆無明記)

 編年集成天正7年(1579)九月沼津ノ條ニ馬場民部昌行と云者アリ。天正壬午(10年・1582)七月記ニ法 条氏直信州ニ入ル、馬場右馬助房勝(美濃氏勝ノ二子)其外国人ヲ郷導トシ碓氷峠ヲ越ユト云々。

 女婿ハ軍艦ニ信州丸子(大全作三右衛門)傳解ニ初鹿傳右衛門(岩淵夜話ニ所記初鹿ノ傳アリ可□照

 鳥居彦右衛門(関原記・大全所 記ナリ。家系ニハ形原ノ家廣女ハ鳥居ノ妻ナリ。即チ左京亮忠政、土佐守成次ノ母ト云)按スルニ馬場氏本州ニ舊ク之アリ。

 一蓮寺過去帳ニ長禄四年 寛正元年・1460 十二月廿七日臨阿( 馬場参州)文明ノ頃 1469〜1487 (年月日無記) 来阿馬場中書。
    浄阿馬場民部。
    金阿馬場小太郎。

 下ノ郷信州起請文六河衆ノ列ニ馬場小太郎信盈花押アリ。(是ハ永禄中ナリ)後年 マテ彼筋ニ土着セル馬場氏ノ事ハ士庶部ニ詳ニス。教来石・白須・臺ガ原、三吹・ 逸見ノ小淵澤等傳領セリ。民部信春ト云者ヲ擢出シ、命軍将  ノミ元来ノ馬場氏 ト見エタリ。

 木曾千次郎義就ノ家老ニ馬場半左衛門昌次ト云者アリ。後に幕府ニ仕ヘ尾州義宣卿ニ附属セラル。彼先祖ハ木曾義仲ノ裔讃岐守家教ノ男家村稱讃岐守家村ノ第三男ヲ云常陸介家景始メ以馬場爲氏數世ニシテ半左衛門ニ至ルと云。本州ノ馬場氏モ盖シ是ト同祖ナリシニヤ。其系中絶シテ詳ニ知レズ。三代記ニ所謂三位源頼政ノ後トスル者ハ本州ニ所關詳ナラザレハ適従セン事難シ馬場ト云地名ハ州中ニモ所在多シト
 云。

 参考 内藤修理亮昌豊の項

 昌豊ハ爲 人度量アリ。閑雅小節ニ不 抱馬場 美濃守 山懸ニ抗衡シテ諸将の魁タリ。永禄12年(1569)信玄略地武相ニ至リ逼小田原昌豊東道ノ先鋒トシテ進ミテ四ツ門蓮池ニ入ル戦将ニ酣ナラントスル時馬場美濃ハ後陣ニ在リ使早河彌三左衛門昌豊ヘ謎カケテ云「いとけのくそくてきをきる」昌豊解テ云「こたち」早川往 返シテ蒙炮創二ト云。
 (按スルニ實ハ先陣ノ様ヲ侯スルナリ。絲毛具足斬敵ハ大敵ナレハ胴勢ヲ固ク備へヘ兒戯ノ如ク會左釋シテ輕ク撃レヨト云意ナラン。昌豊モ其心得なリシトテ小太刀ト答ヘシナルヘシ)
 同時退キ口ニ三増峠ニテ一戦ノ時内藤ハ小荷駄ヲ警固シテ脇ノ方ニ在リ。山路嶮ニ
 シテ長蛇ノ首尾合ヲ事遲シ魁兵 山懸カ先ノ見ユルニ及ヒテ内藤ヨリ使寺尾豊後馬場ヘ謎ヲ贈ル。「待霄に更行かぬの聲きけは」、馬場答曰「車牛離牛」(按ニ長蛇ノ首尾合ヒテ待詫タリト云意カ、来ル間モ憂シト雖モ既ニ来リ挑戦、敵モ大軍ナリ。離散スル事モ亦容易ナラント答ヘシナラン方言牛通憂)他人の戦ヲモ身ニ引受クル趣ナリ。
 家臣 早河彌三左衛門 馬場氏の裨将ナリ。後 勝頼没後 井伊家ニ属ス。受馬場氏ノ傳一兵學ニ秀ツ武州八王子 信松院ニ幸豊ノ所寄賜軍船ノ雛形(大小二箇)保衣並ニ添状アリ。早河の由緒ハ大石和筋栗原筋ニ委シ。

  馬場半左衛門昌次 「木曾伊豫守義昌」の項
 家村三男常陸介家影(初三郎)馬場氏の祖ナリ。二人ハ木曾ノ属臣タリ(諸記ニ作千村左左京親族繁多ナリ。建武中従足利氏封本領木曾並伊那郡内嫡男木曾太郎義親又稱高遠是箕輪氏ノ祖ナリ。慶長元年千次郎身代果テ後各々幕府ニ奉仕ス。

  参考 
 兵家茶話云、木曾義仲六世讃岐守家教ノ長男讃岐家村(初太郎)是ヲ千村の祖トス。

 義直卿 慶長八年(1603)卯正月受封於本州云々…『地頭慶長郷村帳』
 馬場民部(四百石)。
 真田隠岐守信尹(三千石・馬場美野守の男の女婿)

 城番  慶長十二年(1607)義利卿国替ノ後、武河逸見在住ノ諸士交代シテ衛
 之。馬場民部。

 白須某(白須家は馬場氏以前より白須一帯を支配する。現在白須家は郡内富士吉田
 に移住する)
七澤作左衛門の項 青木ハ武川衆白須ノ黨ナリ。……因ニ云、或説ニ其頃武川ニ白須某ト云者アリ。身貧ニシテ刀モ今ハ賣代カヘ常ニ府ニ出デ此處彼處ニ寄食セリ。或時其方ノ人々三四人白須氏を誘ヒ京師ニ遊相人アリ。白須氏ヲ視テ駭キテ云、足下蚤ク本国ニ帰ルベシ。三十日ヲ過ズ必ス大ナル幸アラン。近頃如斯ナル富貴ノ相ヲ視ズ。違フコトアラハ僕又人ヲ相セスト人々敢テ信ゼス笑ヒテ止ミヌ既ニシテ國ニ帰ル。程ナク江戸ヨリ召ス人アリテ使来リテ催シケレハ人々旅装ヲ繕ヒ江戸ヨリ赴カシメテ今年ヲ歴タレハ其事慥ナラストナン。

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