|
『峡中紀行』
餓鬼の を見る
左の側は探し求めていた「餓鬼の 」である。その高さは数十百仞( )を超えて、広さは五六尺で嶮しいことは言語を絶する。石はみな固まり、白砂はまるで水は無いのに流れているようである。脚を留めて置く処もなく、手もまた何も掴むことが出来ない。仰ぎ見てたゞ久しく呆然とする。村人も引き返すように勧める。予(徂徠)と省吾は奮然として互いに決意をいう。
「私たちは吉保公の命令によって来ている。なんぞ収穫もなく帰ることが出来ようか。また昔難を逃れる者は吉保公の先祖、柳沢兵部丞信俊といえども、私たちはここで引き下がるわけにはいかない」と。
登攀
予と省吾は目と目で合図して直ちに登り始める。垣間なく砂岩は流れその都度脚は滑る。堅い岩を探り片足を定め、次の足場を求める。探り得る処があれば 砂礫が崩れて軸脚のかかとを埋める。足を抜かんとすれば、なお激しく崩れ落ち、下から続けて登って来る人にあたる。たまたま樹木の根が横に出ていると、それを頼りに休息をとる。一行二十人、背を曲げながら進む。時々身を屈めて飛び跳ねるように進む。身が軽く健脚な人は常に前に居る。後ろから進む人々は前の人の崩す砂石を必死に避けながら、競い争うようにしながら進み、息を継ぐ暇もないようだ。中程に及ぶ頃下から来る省吾を振り返れば、疲れき
っている。
村人に下る道はどこにあるかと尋ねれば、「この道を引き返す以外にはない」という。よって省吾に語る。「ここまで来れた事は、吉保公の命令によるが、ここで止めて引き返し、その事を吉保公に申し上げてはどうか」と、いえば、省吾は激しく憤慨し、声を荒げていう事には、「大丈夫、同じ死ぬのなら冷石の上で死ぬ覚悟が出来ている」と
、言い終えると、直ちに登り始め、遂に絶頂の処に至る事ができた。崖崩れて道を塞ぎ、砦のある処へは行くことが出来ないので、右の方の小高い処へ登ると、刺の多い木が植えてあって、手や足が傷だらけになる。着ているものも破け、大小の刀の鞘も爪で引っ掻いたような傷がついている。省吾は座り込んでものも言わずに半刻ばかり過ぎる。予腰に着けていた印籠を探り、丸薬を出して省吾にこれを呑ませる。省吾は気が晴れた。これは平生、早朝不規則に飯を食べるので、苦しむ事もあり、飢えつかれる事も多いので丸薬を常備している。
餓鬼のノド
前に砦のある処をみれば、嶮しき嶺の廻っている処がある。その中程に少し平らな所があり、三四十歩ばかりの広さ、僅かに二十二三歩の後ろは高く、前は低く、腹は広く口は狭い。これは地獄絵図にある焔口鬼の細 大 とい餓鬼の姿に似ている。故に「餓鬼の喉」と呼ばれるようになったと思われる。遠くを望めば一面に白くして、何処もかしこもみな小石と砂のみである。
一つの岩の突き出たる処の右に臨み、下は深い洞穴のようである。人が数人が容れる様である。村人に問えば、「柳沢兵部丞信俊公がここに隠れ、世が治まるのを待った」という。村人の先祖の多くはこの処にて生まれるたという。当時の婦女は武装してどうして登る事ができたかは不明である。世が乱れるときは健康な婦女はみな戦いに参加したのだろうか。小高い処の前の一つの谷間を隔て、草木も生い茂り、水の湧き出る音が聞こえるが、草木が覆い被さるようで、山の高さも水の深さも分からない。同行の村人に命じて、切り開き砦のある処へ行こうとするが、皆空腹を耐え難く、苦しみを訴える。憤り嘆きながら、「予二人をして桃花源頭を極め尽くせなかった。これもまた天命である」と。
餓鬼の を離れる
小高い所から登って来た道を下ると、足が砂の中に入り、五尺の身体で踏み締めるとと、砂が滑りて勢い良く走り始める。走ること大方七八尺、または一丈位、角張った石の処で暫く足を休めていると、後ろから来た二十人は相押しあいながら下る。砂礫がその為に速度を早めて転がる。人と砂が勢いよく下るのを見ていると、まるで一気に水を流した様子に似ている。同行の者の中にはたまらず足をとられて砂の上を滑り走る者もいる。片足を踏み外して驚き、そのまゝ膝を曲げて尻を以て足に代えて下る者もある。瞬間に先の谷の処に至る。衣の砂を払いながら渓流の中に出ている石の上に立って、お互いに顔を見合わせながら、「坂を登るときは一里位あると思っていたが、下りは百歩に足りない程に感じた。この坂道は何故に、登りは長く下りは短いのであろうか。
明礬石・金砂
嶺の上は実に仙人が棲んで居て世俗の者の入山を嫌って追い出すから、帰りが早く感じるのであろうか。と。俯せになって崖側に寄って、かの岩穴の(硫酸を含んだ)明礬石や焦石の裂けて、様々な文様のあるものを採り、また渓流の中の金砂を採ろうとするが、ユラユラ揺れて人の手から逃れるように見える。谷川を越えて小高い処に行く話を聞く。
餓鬼のノド・一条忠頼が隠れた場所
餓鬼の喉の嶺を問えば、「大武川の奥深い処なり。岸は広く嶺は嶮しく、ただ鳥の通うのみなり」。と。「またここを去る事十二三里に、一条の古い砦があり、その中に石の部屋がある。二三十人位入れる」と。書院もあり、食事をする処も備えているようだ。しかし何時の代で、何事をした処かも分からない。思うにこれは系図書に見える、一条忠頼という人が隠れた処である。
毒水と若者
行き語りするうちに、遠くを見渡せる場所が早くも頭の上にある。道の側にある木の根に腰掛けて休んでいると、独りの若者が遅れて来て息を荒げながら言うのには、「私がかの毒水を試みに飲んでみた」と。各々驚いて問い正すと、若者は「私は奥州に生まれて幼き頃より、蝦夷の人々の仕草を聞き習っている。蝦夷の人は毒箭(矢)を作り、鳥や獣を射る事あり。山中で草を採り、土に擦り込んで、少しばかりを舌の先にのせて、その毒性を試す。毒性の強いものは忽ち舌が裂ける。毒性の薄いものは舌が裂けることも少ない」と。「先刻の毒水の話を聞き及んで、この事を思い出して渓流を下るときに、その水の緑にしてやゝ浅い処の水を汲んで、舌の上にのせていること半刻ばかり、舌は少しも変わりない。その味は塩辛く酸っぱいのを感じたのみ。そこでまたその水の色の濃いものを舐めてみるが舌は裂ける事はない。淡い水も濃い水も、ただ均しくおよそ五回飲んで試したが、身体に変わりはない。ついに飲むこと一年、ご覧の通り健康なり。このように息が忙しいのは後ろから追いつかんとしたからで、全く毒にあたったのではないという。話を聞いていた人々は奥州の人の愚かなるを笑う。
こうした話は地域の人の根拠の無い話で、毒の無い水を恰も毒水のように言い触らせると謗り諫めたのである。
帰りに向かう
道の側らで村人が鞍を置いた馬を二頭を引いて、私たちの帰りを待っていた。予、省吾と直ちにこれに乗る。この馬はまことにゆっくり進む。石空川を渡り、柳沢村を右に見ながら北に向かう。
柳沢寺
(曹洞宗山高興隆寺末の)柳沢寺(りゅうたくじ)及び、吉保公の先祖の家臣が目をかけた花を観る所をなどを過ぎる。
庄屋の家を過ぎると、蒸した飯をすゝめられたが断わると、「これは今年の秋収穫した米で、我々は未だに食したことは無い。今この村は天の恵みにより、再びこの国は吉保公の知行となる。
村人のもてなし
柳沢公の二人の家臣が訪れ、柳沢信俊公の営んでいた山城などを訪れ探る事は、今御先祖の功徳を奉る御心と、村人や百姓を何時も心に懸けていてくださった事に感謝して、米を炊き、甘酒を作り、お互いに喜びを共にしているのであり、食を勧める事はいけないのだろうか」と。日程の事もあるが、その気持ちを汲んで一口箸をつけて出発する。村人たちは村の境まで送って来て、地に座り両手を挙げ拝しながら別れを惜しんでいた。 註……《徂徠がなぜ出発を急いだのかといえば、後述する穴観音の洞壁への筆を染める (漢詩)考えがあったからである》
柳沢村を去る
宮脇村に至れば、はやくも午後を過ぎる。供の者の食事を支度して済ませる。同行の人々は山村の生活環境に馴染めない。往来する旅人も少なく、休む所も無く、食事の用意も思うようにならず、時間が過ぎて出立する時は早くも七つ刻になってしまった。
釜無川の河原を通過する。駕籠を担ぐ人は河原の石に足をとられて、気の毒なので時々降りて肩を休ませる。省吾はその間に遊び雪を帯たる嶺のようになる一つの奇石を拾い、袖に隠して見せに来て目で合図する。駕籠を担ぐ人は、何が起きたか分からずに駕籠を担ぐと、俄に駕籠が重くなったと不思議がっていた。省吾が、米元章が石を好んだ様な癖のある事を駕籠を担ぐ人は知らないのである。
|