山梨歴史博物館

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『峡中紀行』

  餓鬼の を見る

 左の側は探し求めていた「餓鬼の 」である。その高さは数十百仞( )を超えて、広さは五六尺で嶮しいことは言語を絶する。石はみな固まり、白砂はまるで水は無いのに流れているようである。脚を留めて置く処もなく、手もまた何も掴むことが出来ない。仰ぎ見てたゞ久しく呆然とする。村人も引き返すように勧める。予(徂徠)と省吾は奮然として互いに決意をいう。

 「私たちは吉保公の命令によって来ている。なんぞ収穫もなく帰ることが出来ようか。また昔難を逃れる者は吉保公の先祖、柳沢兵部丞信俊といえども、私たちはここで引き下がるわけにはいかない」と。

  登攀

 予と省吾は目と目で合図して直ちに登り始める。垣間なく砂岩は流れその都度脚は滑る。堅い岩を探り片足を定め、次の足場を求める。探り得る処があれば 砂礫が崩れて軸脚のかかとを埋める。足を抜かんとすれば、なお激しく崩れ落ち、下から続けて登って来る人にあたる。たまたま樹木の根が横に出ていると、それを頼りに休息をとる。一行二十人、背を曲げながら進む。時々身を屈めて飛び跳ねるように進む。身が軽く健脚な人は常に前に居る。後ろから進む人々は前の人の崩す砂石を必死に避けながら、競い争うようにしながら進み、息を継ぐ暇もないようだ。中程に及ぶ頃下から来る省吾を振り返れば、疲れき
っている。
 村人に下る道はどこにあるかと尋ねれば、「この道を引き返す以外にはない」という。よって省吾に語る。「ここまで来れた事は、吉保公の命令によるが、ここで止めて引き返し、その事を吉保公に申し上げてはどうか」と、いえば、省吾は激しく憤慨し、声を荒げていう事には、「大丈夫、同じ死ぬのなら冷石の上で死ぬ覚悟が出来ている」と
、言い終えると、直ちに登り始め、遂に絶頂の処に至る事ができた。崖崩れて道を塞ぎ、砦のある処へは行くことが出来ないので、右の方の小高い処へ登ると、刺の多い木が植えてあって、手や足が傷だらけになる。着ているものも破け、大小の刀の鞘も爪で引っ掻いたような傷がついている。省吾は座り込んでものも言わずに半刻ばかり過ぎる。予腰に着けていた印籠を探り、丸薬を出して省吾にこれを呑ませる。省吾は気が晴れた。これは平生、早朝不規則に飯を食べるので、苦しむ事もあり、飢えつかれる事も多いので丸薬を常備している。

  餓鬼のノド

 前に砦のある処をみれば、嶮しき嶺の廻っている処がある。その中程に少し平らな所があり、三四十歩ばかりの広さ、僅かに二十二三歩の後ろは高く、前は低く、腹は広く口は狭い。これは地獄絵図にある焔口鬼の細 大 とい餓鬼の姿に似ている。故に「餓鬼の喉」と呼ばれるようになったと思われる。遠くを望めば一面に白くして、何処もかしこもみな小石と砂のみである。
 一つの岩の突き出たる処の右に臨み、下は深い洞穴のようである。人が数人が容れる様である。村人に問えば、「柳沢兵部丞信俊公がここに隠れ、世が治まるのを待った」という。村人の先祖の多くはこの処にて生まれるたという。当時の婦女は武装してどうして登る事ができたかは不明である。世が乱れるときは健康な婦女はみな戦いに参加したのだろうか。小高い処の前の一つの谷間を隔て、草木も生い茂り、水の湧き出る音が聞こえるが、草木が覆い被さるようで、山の高さも水の深さも分からない。同行の村人に命じて、切り開き砦のある処へ行こうとするが、皆空腹を耐え難く、苦しみを訴える。憤り嘆きながら、「予二人をして桃花源頭を極め尽くせなかった。これもまた天命である」と。

  餓鬼の を離れる

 小高い所から登って来た道を下ると、足が砂の中に入り、五尺の身体で踏み締めるとと、砂が滑りて勢い良く走り始める。走ること大方七八尺、または一丈位、角張った石の処で暫く足を休めていると、後ろから来た二十人は相押しあいながら下る。砂礫がその為に速度を早めて転がる。人と砂が勢いよく下るのを見ていると、まるで一気に水を流した様子に似ている。同行の者の中にはたまらず足をとられて砂の上を滑り走る者もいる。片足を踏み外して驚き、そのまゝ膝を曲げて尻を以て足に代えて下る者もある。瞬間に先の谷の処に至る。衣の砂を払いながら渓流の中に出ている石の上に立って、お互いに顔を見合わせながら、「坂を登るときは一里位あると思っていたが、下りは百歩に足りない程に感じた。この坂道は何故に、登りは長く下りは短いのであろうか。

  明礬石・金砂

 嶺の上は実に仙人が棲んで居て世俗の者の入山を嫌って追い出すから、帰りが早く感じるのであろうか。と。俯せになって崖側に寄って、かの岩穴の(硫酸を含んだ)明礬石や焦石の裂けて、様々な文様のあるものを採り、また渓流の中の金砂を採ろうとするが、ユラユラ揺れて人の手から逃れるように見える。谷川を越えて小高い処に行く話を聞く。

  餓鬼のノド・一条忠頼が隠れた場所

 餓鬼の喉の嶺を問えば、「大武川の奥深い処なり。岸は広く嶺は嶮しく、ただ鳥の通うのみなり」。と。「またここを去る事十二三里に、一条の古い砦があり、その中に石の部屋がある。二三十人位入れる」と。書院もあり、食事をする処も備えているようだ。しかし何時の代で、何事をした処かも分からない。思うにこれは系図書に見える、一条忠頼という人が隠れた処である。
 毒水と若者

 行き語りするうちに、遠くを見渡せる場所が早くも頭の上にある。道の側にある木の根に腰掛けて休んでいると、独りの若者が遅れて来て息を荒げながら言うのには、「私がかの毒水を試みに飲んでみた」と。各々驚いて問い正すと、若者は「私は奥州に生まれて幼き頃より、蝦夷の人々の仕草を聞き習っている。蝦夷の人は毒箭(矢)を作り、鳥や獣を射る事あり。山中で草を採り、土に擦り込んで、少しばかりを舌の先にのせて、その毒性を試す。毒性の強いものは忽ち舌が裂ける。毒性の薄いものは舌が裂けることも少ない」と。「先刻の毒水の話を聞き及んで、この事を思い出して渓流を下るときに、その水の緑にしてやゝ浅い処の水を汲んで、舌の上にのせていること半刻ばかり、舌は少しも変わりない。その味は塩辛く酸っぱいのを感じたのみ。そこでまたその水の色の濃いものを舐めてみるが舌は裂ける事はない。淡い水も濃い水も、ただ均しくおよそ五回飲んで試したが、身体に変わりはない。ついに飲むこと一年、ご覧の通り健康なり。このように息が忙しいのは後ろから追いつかんとしたからで、全く毒にあたったのではないという。話を聞いていた人々は奥州の人の愚かなるを笑う。
 こうした話は地域の人の根拠の無い話で、毒の無い水を恰も毒水のように言い触らせると謗り諫めたのである。

  帰りに向かう

 道の側らで村人が鞍を置いた馬を二頭を引いて、私たちの帰りを待っていた。予、省吾と直ちにこれに乗る。この馬はまことにゆっくり進む。石空川を渡り、柳沢村を右に見ながら北に向かう。

   柳沢寺

(曹洞宗山高興隆寺末の)柳沢寺(りゅうたくじ)及び、吉保公の先祖の家臣が目をかけた花を観る所をなどを過ぎる。
 庄屋の家を過ぎると、蒸した飯をすゝめられたが断わると、「これは今年の秋収穫した米で、我々は未だに食したことは無い。今この村は天の恵みにより、再びこの国は吉保公の知行となる。

   村人のもてなし

 柳沢公の二人の家臣が訪れ、柳沢信俊公の営んでいた山城などを訪れ探る事は、今御先祖の功徳を奉る御心と、村人や百姓を何時も心に懸けていてくださった事に感謝して、米を炊き、甘酒を作り、お互いに喜びを共にしているのであり、食を勧める事はいけないのだろうか」と。日程の事もあるが、その気持ちを汲んで一口箸をつけて出発する。村人たちは村の境まで送って来て、地に座り両手を挙げ拝しながら別れを惜しんでいた。 註……《徂徠がなぜ出発を急いだのかといえば、後述する穴観音の洞壁への筆を染める (漢詩)考えがあったからである》   
柳沢村を去る

 宮脇村に至れば、はやくも午後を過ぎる。供の者の食事を支度して済ませる。同行の人々は山村の生活環境に馴染めない。往来する旅人も少なく、休む所も無く、食事の用意も思うようにならず、時間が過ぎて出立する時は早くも七つ刻になってしまった。
 釜無川の河原を通過する。駕籠を担ぐ人は河原の石に足をとられて、気の毒なので時々降りて肩を休ませる。省吾はその間に遊び雪を帯たる嶺のようになる一つの奇石を拾い、袖に隠して見せに来て目で合図する。駕籠を担ぐ人は、何が起きたか分からずに駕籠を担ぐと、俄に駕籠が重くなったと不思議がっていた。省吾が、米元章が石を好んだ様な癖のある事を駕籠を担ぐ人は知らないのである。

   

武川周辺を詠む

 向禽が心事本天慳  茂卿
 ただに仙縁相逢ひがたきのみにあらず
 曾て恨む人びと千里眼無きことを
 従来、掛けて此の中に在りて閑なり

   和  省吾
 是れ山霊真境の慳むなるべけんや  
 崎嶇として、両脚登らんと欲するに艱む
 未だ腋下より毛羽を生ずること由あらず
 此の志平生固に閑ならず

   第一関  茂卿
 侯吏高呼し第一関と
 愕然たり尚ほ隔つ幾重の山
 傾聴すれば泉 漸く近きが如し
 努力して且に前澗の彎を過ぎよ

   和  省吾
 関を過ぐるに更に幾重の関有る
 目を仰げば大山小山を抱く
 更に怪しむ神仙我を忌むが如くなることを
 白雲膚寸渓彎に起こる

 行々潜かに認む秦を避けし蹤  茂卿
 仙子まさに世路の通ずるを嫌ふべく
 自ら是れ道の真なるは むる所無し
 桃源移りて此の山中に在り

   和  省吾
 人間仙人蹤に就くに処無し
 忽爾として渓頭に一路通じたり
 訝ること勿かれ飄然として相遂ひ去ることを
 桃源は此山中に在らん

  崖下を過ぐるに、路乍ち渦く乍ち窄し。右に山腹の稍々干らかな
  る処を眺む。逸見の里処と日ふ。方の広さ一三百人許りを容る可
  し。土人又左方の両山相擁すること最も深奥なる処を指さして、
  「是れを山高の塁地と云ひ、橡平と号す」と。更に一二町を往く
  に、複た蹊径無し。左崖の崩るゝこと数丈許りなる可し。乱石無
  数、縦横に相倚り、勢殊に見る可し。渓流皆右に避けて行き。崖
  根悉く露はなり。路は益し盖其の齧みしが為めに尺くるなり。
  前行する者云ふ。「此より前七年、庚辰八月十五日、大風雨あり、
  山大いに震ふ。崖上の大石頭の飛落する者数を知らず。此より餓
  鬼 口に至るまでもな皆毒水流出す。皆緑色、味鹹酸にして舌を
  変す。下は石空川に注ぐ。柳沢、山高の両邑は元石空川を籍りて
  灌慨す。田禾皆為に 潰し荒廃頗る多し。是れ民の最も苦しむ所
  と為れり」と。立ちて談ずる間、茂卿の嚮に使はしめたる所の 
  走り来て及ぶを得。乃ち省吾の語を伝へて云ふ。「禽尚の事、須
  らく児女の輩の婚嫁悉畢を竣つべし。年期尚は遠し、故に志未だ
  脚と謀るを得ず」と。
  其の衣服を視れば、処々上泥の為に さる。蓋し走ること急にし
  て僵るること三四たびならん。茂卿大いに笑ひて云ふ。「徒らに
  汝をして困しめしのみ」と。詩有り。

 漫に言ふ婚嫁の畢るを期と為すと  茂卿
 更に尚平脚力の哀へんことを恐る
 待ちて看よ若し仙子の過ぐるに逢はば
 しばらく一鹿を呼んで君に借りて騎らしめん。

  省吾亦た至る。和有り。

 世縁猶は隔っに 期に伴ぶことを  省吾
 却って苦辛を借りて筋力哀へんことを
 女嫁し男娼して人事畢らば
 我が家自ら杖竜の騎る有らん。

  則ち郷民と路の由る所を謀り、樵夫の足跡を認む。山腹によりて
  以て一崖上に至る。草榛翳薈するも高さ偉かに六七反のみ。下し
  瞰れば小澗甚だ浅く、石頭の水より出づる者若干なり。棒を穿ち
  て崖を下る。石を択びて蹈み、澗を過ぎて餓鬼 口に至る。水果
  て深緑にして、染家の 草を煮たる汁のごとく一般なり。崩石皆
  焦色、其の理縦横に皆裂開す。石下に瀝青の如き者有りて流出す。
  其の状  然たり。茂卿復た其の石髄為るを疑ふ。其の乾きし者
  亦た凝結し、塊を作すこと瀝青の如し。土人号して岩礬と日ふ。
  其の何の為に用ふるかを知らず。俯して水中を窺へば、石間に往
  々にして金色の砂有り。水揺るれば則ち鑠々然として愛す可し。
  詩有り。

 乍ち喜ぶ神仙縁石るに似たるを  茂卿
 全砂石碧石、清漣に映ず
 前山忽ち聴く笙声の過ぐるを
 又恐る風吹き石髄の堅からんことを。
 
 仙人に就きて石乳を嘗めんど欲す  省吾
 深山往々にして奇を探ぐるに耐べたり
 却て疑ふ羽客相見ること無きことを
 尚ほ雲根の懸かる処を みて之く。

  前に澤布三級を望む。珠奔玉 、最も耳を洗ふ可し。
  詩有り。

 此の生、耳棋と期するに似たり  茂卿
 忽ち  たるを聴いて疲るるを覚えず
 精神を奮ひて前路を蚊らんと欲し
 飛泉懸かる処、立つこと多時なり。

 忽ち雲際より飛泉を掛く  省吾
 万玉粉々として樹頭に送る
 耳を洗って且に天籟の発するを聞く
 長風 を吹いて瀛洲よりす。

  左は則ち餓鬼 口なり。其の高さ幾十依なるを知らず。潤さ僅か
  か五六尺許りなるも、峻しきこと言ふ可からず。皆石塊白砂、水
  無きも流れんと欲す。脚力施す可からず、手亦た攀拠す可き処無
  し。二子仰ぎ看て、惘然たること之を久しうす。

 

<この探索旅行の大きな目的の「餓鬼のノド」へ>

 『峡中紀行』

  餓鬼の (ガキのノド)

 ここから「餓鬼の 」へはどの位の距離があるかと尋ねれば、柳沢村の西南の山中十里ばかりの所にあるという。村人を促して餓鬼の喉に行こうとすれば、村人は困難だと首を振る。「餓鬼の 」に行くには道険しく、人の行ける所ではないという。

  石空川(ウトロ)

 無理を承知で頼めば村人承諾する。石空川を渡り稲田の中を分け行く。次第に山の間に入りければ、石の角が駕籠の行く手を遮る。荊棘が着衣をひき、左右に曲がりくねりながら進む。その厳しい道程は想像を絶する様に思える。駕籠では進むことが出来ないので、皆徒歩にて前進する。

  山葵沢(ワサビザワ)

 五六里進むとワサビ沢という所に至る。右側の崖の中に見たことも無い野草が生えている。この辺りから両方の山が迫り道を狭めている。道は極端に険しく時々尖った石が足の裏を突き刺し、歩く事が困難になる。同行の省吾を振りかえって見ると、一重の岩を隔てながらも必死に追いつかんとしているように見える。
 山に登る健脚を試さんと飛び跳ねるようにして進めば、道案内の村人は息も絶え絶えである。

  第一の関 

進むと一つの崖が突出ていて前を遮っているので横に進む。村人はこれを「第一の関」という。険しい嶺の上を遠見場という。

  柳沢兵部丞信俊

 昔、柳沢兵部丞信俊という人は武田の一族であったが、武田信虎に糾弾され、この「餓鬼の 」に避難して暴徒が去るのを待った所でもある。

 道を左に曲がり、険しい嶺を過ぎて行けば、崖の下の道は渓流に浸食され、道幅は極端に細くなっている。渓流は岩の間を潜り抜けて、その音が周囲に轟いている。崖下の道は広がったと思えばたちまち狭ばまり一定していない。

  檪(橡/ )平

 右側の山腹に少し平らな場所があり、これは逸見氏の築く山城という。左の方に左右の山を抱き合わせて、最も深い所が、山高氏の殿屋敷跡という。この所を「檪(橡/ )平」と名付ける。
 更に道を進むこと一二町、谷にの道も無くなる。左側の崖は数丈にわたり崩れ、石は無数に砕け飛び散り、その様は畏ろしい形状である。渓流はみな右に逸れて流れ、岩根は忽ち露出する。道はこうした急流に浸食された為に、この様になってしまった。

  大風雨

 今より七年以前、元禄十三年八月十五日の大風雨の時、山が大いに荒れ、崖上の多くの大岩飛び落ちる。この場所から「餓鬼の 」に至るまでみなこの様な状態と思われる。

  毒水

 毒水が流れ出し、緑色をしていて、味は塩辛く酸っぱく、舌を刺激する。下は石空川より柳沢・山高の両村にそそぎ、田地はみな塩漬け状態である。多くの土地は荒廃している。村はこれに最も苦しみ悩んでいる。

  緑水

 村人と立ち話をしていると、省吾も来て話を続ける。今後の道程についても検討する。一つの樵夫の通る道を見つけて山腹に沿って崖の上に至ると、草うっそうと繁り、高さは六七尺位である。下をうかがえば、小さな渓水が見える。甚だ浅く石の頭は水から出ているものは少なく、渓水は榛の木を穿ち崖を下り石の間を流れ落ち、谷川を過ぎ狭い口の処へ出れば、水は深く色は緑になる。染め屋のこぶな草を煮た時に出る汁に似ている。

  厳礬( )石

 崩れ落ちた石はみな焦茶色をその形状は縦横に裂けている。石の下には粘って黒ずんだような物があって流れ出している。あちこちに色が染みついて汚れた様相を呈している。乾いたものはかたまりになっている。村人は厳礬( )石という。何に用いるのか分からない。俯せになって水中を窺えば、石と石の間のあちこちに金色の砂が見える。水を揺らせばキラキラとして見事である。前方に三段の瀑布が望める。水流は珠のように飛び、玉の如く響きわたり、耳が洗われようである。むかし桃源の洞の中に秦人を裂け、今なお在るかと思う事なり。

 『風流使者記』

  茂卿又た称する所の塁児の孫なる者を召して、此よ餓鬼の 去る
  こと幾多なるかを問へば則ち云ふ、「村の西南の山中十里許りに
  在り」と。茂卿欣びて日く。「太だ近し」と。塁児の孫頭を揺り
  て云ふ。「近きことは則ち近し。路太だ険 にして汝曹白面郎君
  の能く至る所に非ず」と。二子相顧みて笑ひて日く。
  「老儒生、今日始めて白面郎君の称を得たり。是れ賀す可きなり」
  と。塁児の孫、二子何の語を倣すといふことを解せず。尚ほ日ふ。
  「従来、諸官人未だ嘗て共の処に到らず。郷中の人亦た能く往く
  者尠し。汝曹白面郎君宜しく此れより還るべし」と。
  二子相謂ひて日く。「吾輩の此の番の一行は、要は霊台寺の形勝
  と餓鬼 とに在るのみ。共の他の瑣細紺は則ち君意の専ら注ぐ所
  に非ざるなり。然れども其の霊台は山川を一望し、早く既に歴々
  乎として藩主霊台の中に殆んど将に閑却せんとす。風流使者の職
  は則ち此の一段却って是れ最も緊要の事なり。何ぞ其の三家村裡
  の愚夫輩に恐嚇せられて、以て中ごろ沮むこと致すを容さんや」
  と云ふて。乃ち往く。邑入驕を擁して前ましめず。口々に相聒し
  て曰く、「万一官人に失誤あらば、我輩何そ別に一副の身命有り
  て以て柑償ふを得可けんや」と。茂卿忿然として驕外に躍り出で、
  水石姓なる者を き、推して前行せしむ。邑人数十亦た行き、相
  従はんことを訴ふ。一渓流を渉る。無数の細石灘を作す。
  云ふ「是れ石空川なり」と。

 柳邑の西南人の到ること稀なり  茂卿
 水流は曲曲として乱山囲む
 忽ち思ふ霊夏石空の堡
 安んぞ源頭に向って白衣を間はん。

 何ぞ俗骨神仙を逐ふを妨げんや  省吾
 旧は浮 によりて漢天に達せり
 郷人の道傍に議するを用ひず。
 身を抽んでて先ず渉る石空川。

  

 柳沢村

 あれこれ話をしているうちに、早くも柳沢村の入り口に至る。星山という古城あり。左の方に黍( )畑の中に、竹を割って板をはさんで立ててある処、これが先祖の柳沢兵部丞信俊太守の屋敷跡という。その西の方角十歩ばかりにところに、昔大きな柳の樹があり、これにより柳沢の名が生まれたという。その来も今は枯れて姿は見えない。

   『風流使者記』
 山経の丹穴世間に少なきも  茂卿
 甲斐武川に鳳凰有り
 識らず聖明年久遠なるも
 九苞彷彿として朝陽に立つ

 鳳凰天より下るは何歳の日ぞ  省吾
 山は人世より巳に多時
 枝峰、蔓壑相奔り去り
 蓬瀛に東海に随はんと欲するに似たり

  行語する間に忽ち柳沢村の界に至る。林樹蔚然として数十人の路側
  林奔の間に俯伏するを見る。驩呼の声遠近に震動す。初め看るに其
  の何の故なるかを知らず。徐々に聴げば則ち村人二使臣の命を奉じ
  て旧蹟を斗訪ふを聞き、懽抃し来り見ゆるなり。二子因りて藩主・
  先世諸府君皆此の地に邑居し、村民恩に霑ふこと久しきを思ふ。今
  其の雲仍吾輩を見て尚ほ嬰児母を見るの嬌態を作す。此れ以て徳沢
  民心に入るの深きを想ふ可し。覚えず涙下る。
  
 一路荒菁なり武水の浜  茂卿
 路傍に男女車輪を擁す
 布衣縄帯、君笑ふこと休れ
 昔日吾が公家裡の人

 車遙かに駕し民族を問う  省吾
 民族猶ほ在す昔日の風
 相見る 来り迎ふ牛酒の者
 倶に言ふ使者旧儀豊かなりと。

  茂卿一入の前に在る者を召して之を訊ぬれば則ち、共の姓を水石に
  す。細かに其の由を詰すれば、乃ち其の受くる所の田疇の名を姓に
  するなり。因りて兵部使君の旧封券中に地名の水石なる者有りしを
  憶ひて又問ふ。「汝頗る兵部使君の事を識れるか」と。則ち云ふ。
  「小人の先世兵部使君に山中の旧塁に従ひ、塁中に子を産む。故に
  字して塁児(コヤボウ)と日ふ。即ち小人が祖父なり。」と。
  茂卿職を史較するに在りて頗る祖父の時の事に熟す。乍ち此の言を
  を聞き、乃ち旧識相兄る者の状の如し。

 行傍の草莱に遺氓を問ふ  茂卿
 塁児の孫子可憐の生
 相逢ふて怪しむことなかれ相識に似たるを
 曾て邦乗る向かって姓名を記したり

 鉄衣の 虱英雄を識る  省吾
 輌を推し粮を荷ひ爾が忠を称す
 今日相逢ふ塁児の子
 知る是れ幾人か草奔の中

  乃ち水石姓なる者、連喚して処々を指点す。指点を左して云ふ。
  「是の山は星山故城と為す。三吹、横手の界に中山故城有るも基址
  皆已に浬滅す。唯だ山頂の平かなる処、認む可きも誰某の拠る所な
  るかを識らず。」と。想ふに亦た祖宗の時の事ならん。

 東方の神将人寰に下り  茂卿
 十二の小宗忽ち班を作す
 応に足れ霊蹤泯び得ず
 今に至るも西郡に星山を識るべし。

 英雄割拠して中原を擾す  省吾
 到る処の山河に旧塁存す
 今日公田は 麥熟し
 蘇・張の舌有るも亦た煩わす無し。

  村の入口の左側の黍田の中を指さし、是れ省吾使君の旧壮なりと謂
  ふ。方僅かに百歩、竹を地上に挿して以て標識と為す。柑伝ふ後武
  川水漲り襄陵の災有り。乃ち宅を原上に移す。

 柳沢郷南 旧荘に接す  茂卿
 郷民語を奇す君王に報ぜよと
 行春若し麾旄の駐するを得ば
 為めに枌楡の寵光有りと道はん

 山野渓荘悉く湮没す  省吾
 茫々たる禾黍晩風寒し
 指点に煩憑して経界を間へば
 □々たりタ陽一竹竿。

  其の西十歩許りに旧く大柳樹有り。乃ち邑名の係る所、今村枯れ僅
  かに其の処を識るのみ。

 悉く言ふ名柳死と  茂卿
 何ぞ識らん霊根有ることを
 近く聴く京南の黄檗寺
 化して神将と為りて山門を鎮すと。
 
 何ぞ須ひん故国喬木多きことを  省吾
 已に済々たる賢大夫有り
 若し衛侯淇上の竹を間はば
 入間自ら是れ腐儒の論。
  旧侯の荘を左にして村戸に入る。無慮七十五、山谷の間に散居す。
  人煙頗る蕭条たり。一亭有り薬師仏を奉ず。云ふ、
  「是れ柳沢寺の奉ずる所なり。寺亡びて後、移して此に在り。後、
  後、像亦た倫児の為めに奪ひ去らる。今則ち新たに塑せし者のみ。
  二子常光寺の亦た瑠璃光仏を奉ずるを憶ひ、其の或は縁由有るや
  を疑ふ。又一祠有り。祠中に木刻の神像有り。朝官一般の如し、
  抱袖裳皆腐壊して存せず。之を訊ぬれば則ち菅神なり。亦た云ふ、
  祖宗の時の崇奉する所なりと。

 

<柳沢吉保、家臣を武川へ(1)>
  新山梨歴史講座 柳沢吉保

今こそ柳沢吉保
  資料で綴る柳沢吉保の真実
   峡中紀行 風流使者記
 (前文省略)

  韮崎宿

……韮崎の宿場に入るとそれまで強かった風が少し柔らかになる。
 韮崎宿は駿州・信州の街道のある宿場で、宿も造りも対応も非常によい。
 適当に賑やかで、宿の右手の人家の竹林の間に小道が有るに似たり。その道の入り口に
  窟観音

一つ小さな石が立ててある。則ち太子洞(窟観音)に続く道である。
 駕籠をおりてこれを訪れゝば、歩くこと半町ほどで窟観音のところに至る。崖の高さは数十仞。岩腹を掘りて堂を作る。堂に二つ、左の堂には地蔵を安置し、右は太子像あり。皆空海が造ったものである。洞の中間に釣鐘を一つ掛けてある。その他に観る処は少ない。石畳の坂道を進んで堂のある場所へ行く。はなはだ急険しくて苦労する。洞の入り口に大きな石が山より落ちかかるものあり。石段に覆い被さっていりようである。その石の右は堂の土台と一つに連なるなり。うつむき、かがみながらその石の下を進む。始めて石段を得て行く。石段を登り詰めるた場所に、堂を右にして左に堂がある。始めて堂に入ると中は真暗で、左右の壁をさぐりながら進む。石段を幾段も登り下りし、つまづきながら進むと洞の中は少し広がっている。右に沿って行くと洞の出口があり、そこが開けて眼前が明かるくなる。この窟は岸壁の中を横に掘りたるもので、出口は甚だ狭くて縦横は三尺(91 )ばかりなり。頭から出して望めば新府の城跡前方に見える。下は皆田畑が広がっている。 
 郷士の道案内を呼んで、「ここから青木村へ行くことが出来るか」と問へば、「甚だ遠回りなり」と云ふ。あきらめてて元の処へ戻る。入口より出ると、二十才ばかりの一人の僧が手をこまねきて、待ち受けていた。これは寺僧と見える。寺庵は堂の右手の場所の上にあり、物さみしいような構え、ようよう太い柱が数本の建物なり。相迎へて庵で茶など一服してくださいと、すすめられるが、行きを急いでいるので庵には寄らずに寺僧と話しながら門を出る。話では「この堂は八百年も以前に鬼神が一夜のうちに、この崖を掘り、中に太子像を奉る。堂は昔から人々がこの処へ参詣したる道沿いにあった。世の中が変わり、この辺りも開け村となり、人家も多くなりて、国の指導で立ち寄れる宿場を置く。堂の前もみな田地となり、今は抜道のようになってしまった」と云う。
 元禄十六年冬の地震の時の事を尋ねれば、堂も洞も庵も全て少しも影響を受ける事はなかったと云う。寺僧に別れて目的地に向かって出発する。一つ家村(一ツ谷村)を通り、釜無川の川端をあちこち曲がりながら進む。北の方に行けば風なお止まず。左の白嶺の上を眺めれば黒雲湧き出て、甑(蒸籠・せいろう)を蒸す烟のようである。
 あの様子では、翌日は大方雨かと心配し、柳沢の古跡を訪ずれる道中のことを案じる。土地の人が、なお二日は天候は大丈夫いう。

  祖母石

 祖母石( )宿に至る。ここは、「田中に石があり、老婆立って居る様である」と。路傍には見えないので通りすぎる。この宿の中に小径があり、左へ別れて進む。韮崎よりここに至るまでは本街道なり。祖母石の小径を進み西に行く。釜無川をわたり、桐沢に沿って釜無川を渡る。沢の水ぎわは皆石原が続く。縦横半里ばかり後ろの方の木の繁りたる場所を振り替えって見れば、信玄の後の主、勝頼が城を移す処で世間でいう新府なり。遙に長い崖が数里続いているのを見る。崖はみな山より落ちかゝっているように筋を成して垂直の形状をしている。数万の石柱が並び立っている形のようである。その岸壁から石があちこち落ちて来る処もある。殊更に見事である。沢口が尽きる処の右岸上に人家が四軒あり、竹藪の間に見え隠れするのは折井村なり。左の岸の上の小道に沿って南の方に行く。また富士山が見える。微笑んで駕籠を迎えてくれているようだ。

  徳島堰

 右に徳姓の渠がある。これは四五十年前に、江戸深川徳島某なる人が、釜無川の水を取り入れてこれを造る。渠の長さは三十余里、取水口は円井村に在る。

  青木村常光寺

 徳島渠に沿って西の方角に行くこと数里、常光寺に至る。門前はみな田地なり。田地を隔てゝ人家五六十軒も群がり続く、これ則ち青木村なり。郷を司る奉行は、まかないの事を治める者とこの寺の僧が迎えに出る。挨拶して入り、堂にのぼり、柳沢吉保公の先祖の位牌を拝して、それより方丈へ行って話す。信玄時代の遺事三ケ条を得る。信玄公の時代の封券を観る。人名の門の字はみな問を書きたり。思うに古くは皆しかり。花押もまた時節のものではなく、古風で質素であるが、却って風雅なり。しばらくして湯餅を出したが、冷たく固くて食べれない。そのうちに奉行の言い付けた昼支度も出来て、家来とともに皆これを食べる。

  吉保公の祖先の墓・屋敷

 寺僧を伴い吉保公の祖先の墓を見るに、石碑の仕様今江戸の庶民の用いる物に比べて至極小さく見える。昔の質素なる風俗と思える。文字は剥げ落ちて分からず。それより寺を出て見ると、吉保公先祖の屋敷跡があった。
 来た道を引き返して、桐沢口を出て、折井村に入り、入戸野・円井村を過ぎて行くと、徳島渠の発源の処があり、その水の音は雷のような響きであった。

  「風流使者記」

  常光寺
渠に随ひて行くこと数里可りにして常光寺に到る。寺門東向し、門前皆田
なり。田を隔てて人家数十簇を作す。乃ち青木村なり。郷の有司の先行し
餉を治むる者出でて候つ。住持僧亦た両徒を帯して来り迎ふ。茂卿、省吾
各々揖す。先づ客寮に到り礼服盥漱し、堂に上りて
毘耶府君、
泰翁府君の神主を拝す。乃ち方丈に往ぎて対話し、遺事三条を得たり。僧
亦た旧き封券を出だし示す。券には
機山使君の時の四大夫、神祖に留事せし者の姓名を署す。所謂、桜井安芸
の守信忠、石原四郎右衛門昌明、小田切大隅の守茂富、跡部九郎右衛問昌
忠なり。昌明は即ち
兵部府君の外祖父なり。門ば皆問に作る。花押亦た今時の字様に非ず。古
僕にして頗る趣有り。僧云ふ。「寺は原十郎使君の剏置に係る。使君諱は
常光、故に寺は常光と号す。而るに世代
を崇ぶに在り文字を脱略し、或は常光に作り、或は盛光に作る。山は武隆
と号し、亦た武陵に作る。と。
又語りて云ふ。「開山第一の祖は海秀玄岱和尚、第二世は大清玄 和尚、
第三世は州山玄橘和尚なり。岱は拈笑英和尚の上足、英亦た豆州最勝院吾
宝和尚の門人為り。乃ち府下の興国寺を開く。玄橘は時の点鬼簿に尚ほ存
す云々。」と。
僧湯餅を供するも、冷硬にして喫うに中らず。郷有司治むる所の餉亦た成
る。僕徒輩皆中火す。茂卿・省吾、寺僧を拉きて

  墓

  十郎使君及び毘耶泰翁二府君の基に詣ず。厨右より上り其の所に到る。
  十郎僻君の墓は北に在りて南向し、別に一落を作す。
  毘耶府君及び夫人の墓、
  泰翁府君及び夫人の墓、皆其の南に在りて南向す。
  久山府君及び孺人の墓、
  雄山府君及び孺人の募、皆東向し、八位共に一落たり。其の久山どは
  即ち泰翁府君の子にして、
  兵部府君の兄なり。雄山亦た久山の子、二位者青木君の奉ずる所たり。
  諸府君の碑は皆塔様にして、
  諸孺人は皆五輪なり。其の制今時都下の士庶の用ふる所に較ふれぱ、
  甚だ短小と為す。時世の古質想ふ可し。文字皆剥落し痕跡存せず。乃
  ち年歳久遠のせしむる所なり。再び寺殿に詣で仏像を観る。薬師坐像
  一座、日光、月光二菩薩立像各々一座、倶に基大士の作なり。後に毘
  沙門天王像一坐石り。長さ三尺許り、乃ち
  尾州府君の奉事する所と為すと云ふ。寺を出づれば則ち
  尾州府君の旧は荘寺の北に在りて接隣す。西南は山に依り、東北は徳
  渠の経ると為す。方五十五六歩なる可し。西北に山有り、亦た
  府右の時の採樵せし所と為す。郎君の宅亦た其の東北に在り。長二十
  歩、横二十五歩、皆行きて巡視す。
 
 馬頭秋湮沈を問ふ  茂卿
 宅鞠まり草荒れて処として尋ぬる無し
 三尺の小碑山曲に空しく
 儼然として尚ほ見る古人の心。

  墓依然として旧封を認む  省吾
 山河今日垣 を護す
 老人来り説く当時の事    
 未だ必ずしも谷稜陵悉く蹤を変ぜず    

 武川村に入る(峡中紀行)

 小武川を渡り宮脇村に至って日が暮れる。土地の富豪の家に泊まる。この日は寒気が凄まじく、しかもこの村は山中にあれば、尚更なり。夜分庭に出て散策すれば、月痕頗る小さく、樹木蒼然たるを覚える。鬼神が人を落とす様に見える。独り「猛虎一声山月高し」を吟じて、庭に佇み立ち尽くす。暫くして部屋に入れば省吾はすでに寝入っていた。
 十三日、宮脇村を出て牧ノ原を経て、金峰を右に見る。丑寅の方角なり。北は八ヶ岳なり。西北へ進み山高村に入る。道の側らに村人数人が平伏している。人々に問えば柳沢の郷人が迎えに出ていたと云う。

 大武川

 大武川を右に見て西に進む。川は鳳凰山より出て東南の方に流れ小武川と合流して、東の方を流れる釜無川に注ぐ。南の方は青木より、北の方は教来石に至る一帯を武川と呼ぶのはこれによって得たり。
 それにつけても吉保公十二世の祖、源八時信君、十二人の子息をこの武川の地に封じている。
 その在所を問えば答える。
  「三吹は艮( )にあり、六里にして近く、
   白須は子の方角にあり、山を以て境としている。
   横手は戌の方にあり、大武川を境界とする。ここからは僅かに三里ばかりなり。
   教来石は乾の方角にあり、上下二村有り。
   上教来村十二三里、下教来石村は十五六里なり。
   上教来石村に関所があり、山口と云う。則ち信州の境界である。 
   新奥村は宮脇村の西南の山中にあり、

 その東北には馬場、東南に山寺、各々多少の間道あり。またここまで来る路中にあった、青木村・牧の原村・宮脇村を併せて、十二の士族が姓を受けた処であると。ふと見上げれ
ば金峰は東の方角に転じていた。甲府城を出て既に五十里、甲州と信州の境にまで来てし
まっている。
 駒ヶ岳・鳳凰山・駒ヶ岳も駕籠の前に近づいて来ている。これを望めば山の草木の無い
処三里四方に及び、焦げた石を重ね上げたようで、岩の尖った角は一つ一つ数える事が出
来るようで、山の形は勢いは猛々しく、これより前に富士山が微笑むようで、相向かう山
容は似つかない。相伝に昔聖徳太子が飼育する甲斐の黒駒と云うは、この谷の水を飲んで
育ったと成長したと云う。山上に祀る社もなく、ただ化物のようなものに出会った人も居
て、故に地域の人は余程のことが無い限りこの山には登らない。
 昔この山に登ろうした人が居て愚かにして勇なる人で、三日の食料を持って絶頂に登る。独りの老翁に出会う。
 翁は登った人にここは仙人の住む処で、その方などの来る処ではない。と、その髪を掴
んで崖の下に突き放したれば、ぼんやりとしている間に自分の家の後の山に落ちたと云う。鳳凰山の由緒を問えば神鳥が来て棲む処故に鳳凰山と云う。字はまた法王とも書く、法王
は大日如来なり。法王は奇瑞をこの山に表わし賜ふ事ありとも云う。また法王は東へ左遷
された時に、この山に登り京都を望む故にこの名があるとも云う。徂徠はその弓削の道鏡
の事を疑う。

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