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  甲斐遊侠講座 武居の吃安

世紀の大脱走に成功した 甲斐侠客伝説の男 武居の吃安(どもやす)
   (詳細は下記の書で)

 吃安は久八の世話て20人ほどの子分を連れて、
  江川太郎左衛門の指揮下で反射炉をつくる作業
 をやっている。  (『東海遊侠伝』)

   参考資料 『流人の生活』 大隅三好氏著 雄山閣刊 『東海遊侠伝』 中沢正氏著  雄山閣刊

「ども安」の島抜け(『流人の生活』)

千に一つといわれる破島の数少ない成功を、見事にやってのけた、いま一つの例が新島にある。講談などでよく出てくる甲州の博徒「ども安」こと武居の安五郎の島抜けである。
 彼の新島流罪は嘉永4年(1851)で、同じ博徒小金井小次郎が三宅島に流されたのより5年早い、40歳のときであった。
 博徒の親分などという者には立派な人間なんかいない。全部よごれて汚い、国定忠冶にしても清水の次郎長にしても五十歩百歩だ。「ども安」などもその点決して人後に落ちる人物ではなかった。天保8年(1837)同じ甲州の博徒紬の文吉と身延山で喧嘩して、二人とも捕えられて中追放になり、天保12年(1841)、弘化2年(1845)と引き続き、お上の厄介になって、弘化2年の逮捕では重追放になっている。彼が遠島になる直接の罪科は、追放の身で、多くの子分を引つれ天城山を越えた、お上を恐れぬ不届な所業となっているが、つまるところは平素の積み重ねた悪業の結果といわねばならない。
 新島に流された安五郎が、いつごろから島枚けを計画したかはっきりしないが、流されてから2年目の嘉永6年(1853)6月、一味に引入れた6人の仲間と一しょに決行している。6人の仲間はいずれも博突渡世の無頼漢ばかりだった。
 その夜は島の年中行事「凧あげ」の前夜、島民はそれに気をとられていた。一味は、先ず三手に分れて、船を奪い、水先案内に漁師を捕え、名主宅を襲って鉄砲を奪う。安五郎は鉄砲の方を受持った。
 彼は名主宅を襲うと、病気で寝ている名主を殺し、子女を傷つけ、納屋に火を放つとい
った惨虐をあえてし、鉄砲を奪いとったが、急を知った島民にに騒ギ出され、弾丸は手に入れることが、できず、別組が奪った船に飛び乗って沖へ漕きだした。船には島民が二人拉致されていた。
 安五郎の悪運はまだついていた。普通ならこの辺で、舵をとられたり、追手においつかれたりして失敗に終るところだが、彼等は首尾よく海を乗りきって、伊豆半島の網代(あじろ)海岸に到着した。島の漁師を水先案内に拉してき周到さがものをいったのだ。
 一同は船をおり、朝飯の用意にかかった。終夜の重労働に腹も空いていただろう、流人共が食事に夢中になっている際に、二人の漁師は船に飛び乗り死に物狂いで沖へ漕ぎ出した。漁師はたまたま通りかかった回船にに救いを求め、韮山の代官所に訴え出る。
 海岸で地団駄を踏んだ悪党どもは、長居は危険と人目に立たないように散り散りに別れて姿を消した。まもなく一味の一人は捕えているが、悪運はまだ安五郎の背中から離れない、彼は再び甲州の地を踏んだ。
 安五郎が遠島後、彼のあとをうけて勢力を張っていたのは黒駒の勝蔵だった。勝蔵は黒駒村の名主の息子で、安五郎のもと子分であった。安五郎は勝蔵のもとに身をよせた。勝蔵には元の親分だ、かくまわないわけにはいかぬ、かくまった。このため勝蔵も島破りと同罪の身となり、流浪の身となるが、それはまだずっと後の事になる。
 安五郎が悪運つきて捕えられたのは文久2年(1862)だから、島を破ってから十年も経っている。その間彼は勝蔵のもとで息をひそめて隠れていたかといえば、必ずしもそうでないらしい、講談などによると彼が「武井のども安」としイ売り出すのはこの期間にになっている。島破りり大罪だけでなく、名主まで殺している凶悪犯が、十年問も堂々と闊歩しているのはおかしい。もともと甲州は甲府勤番支配地、役人そのものが山流人様同でやる気がなく、地理的には山ばかりでかくれ場には事欠かないかもしれないが、それだけでは説明はつかない。しかし、ども安は10年間捕えられないで、堂々と生きている。当時の警察制度の不備を見せつけられるような気がする。
 しかし悪運の尽きる日はまた、文久2年(1862)10月6日、用心棒に雇っていた浪人某の密告で捕えられ、再び娑婆の空気を吸う事ができず、拷門責めで責め殺されてしまった。安五郎が捕えられると、捕吏の手は黒駒の勝蔵にも迫る。彼は甲州を逃げ出し、安五郎を売った浪人を捜しだしてたたき斬り、ついでに目明しも殺し、甲、信、駿、遠の間を彷徨し時には山賊まがいの悪事まで働いている。
 当時、駿河では例の清水の次郎長が売出し中で、流浪の勝蔵と対立、やがてそれが荒神山の血闘などに発展するがこれは余談。


 『東海遊侠伝』 中沢正氏著 雄山閣刊
  134頁〜
 (略)けれども博奕は天下の御法度、いつも目溢しがあるとは限らない。吃安が、賭博常習犯で捕えられたのは天保10年(1839)2年後の天保12年には、津向の文吉と喧嘩をやって、吃安は三宅島へ、文吉は八丈島へそれぞれ遠島の刑、つまり両成敗。文台はそのまま遠島20年、維新の大赦で甲州へ帰ったのだが、吃安は1年足らずで帰ってくる。
 文吉との喧嘩ては、石和の代官の支配てなく、韮山の江川代官の手の者だった。弟分になっていた伊豆の大場の久八が、韮山代官に働きかけたものたろう。記録によれば、この後、吃安は久八の世話て20人ほどの子分を連れて、江川太郎左衛門の指揮下で反射炉をつくる作業をやっている。この時、吃女32歳。この後の2、3年が吃安こと竹后の中村安五郎の全盛期てあったといえる。

二度目の遠島

 それより9年の後、吃安は2度目の遠島になる。この時は新島送りで、その原因というのが二つある。一つは、真偽の儀左衛門という者が、弟分の久八を縄張り上のことから背後から斬りつけて重傷を負わせた。これを知った吃安が、石橋山佐奈田神社の高市て儀左衛門を斬り殺して弟分の仇を計ったが、小田原て梯子攻めで捕えられたという、説。いまいま一つは、天城の山中を子分たちにおだてられて大名行列の真似をしたために捕えられたとの説、どちらが本当かわからないか、吃安は同年の4月10日に新島へ送られている。
   流人証文  新島
  覚
   新島江
無宿安五郎
亥四十歳
   その他省略して合計十一人
   名者新島江流罪被仰付
   御老中御文我等方江被下候間 右拾壱人此証文ニ引合セ
   御船手警護之方ヨリ党人取之其島江可差置候    以上

嘉江四亥年三月 江川太郎左衛門
   新島
地役人
神主
名主
年奇

自分の指揮下で武居一家を使役していたのに、新島へ遠島にした江川太郎左衛門という男もなかなかの食わせ物て、吃安が甲州一円は無論のこと、伊豆・三島・小田原などに縄張りを増やし、目の上の瘤の存在となったために、利用するだけすると、わずかなことを種に遠島にしてしまったものと思われる。江川太郎左衛門の文配下なら助けようと思えば助けられた筈だ。大名行列の真似をしたという説など全くの作り話して、弟分の仇を討つため真鶴の儀左衛門を殺した説のほうが本当でだろう。こんどは一年や二年の遠島ではない
、新島への遠島は終身刑だ。だから吃文は島抜けを決行するのだが、在島説も異説があり、磯部氏の『吃安親分島抜記」や子母沢説には在島三年説がある。けれども、黒駒勝蔵の捕えられた時の口述書にもあるように、安政3年税が正しいと思われる。
  甲州八代郡上黒駒村百姓舟嘉兵衛伜 元第一遊撃隊 池田勝馬 申し口 四十歳
   わたしは百姓嘉兵衛伜で先名は勝蔵といい、父の許におりましたが、安政3年7月   逃げ出し、竹居村甚兵衛の子分になりました。同人弟安五郎は賭博を専業としてい   た罪により流刑になっておりましたが、同王牛八月逃げ帰りかくれておりまする間、   同人と一緒に交り…。
 勝蔵が明治4年に描えられた時の口述書てある。前述したように、吃安遠島中の武居一家は、兄の甚兵衛と、後に二代目となった田家の惣太郎か代っって一家を守っていたわけだ。勝蔵が武居一家の子分になったのは二十五歳の時だったのは前記のとおり。そうして吃安はこの時46歳?度々触れるように、吃安の在島説も色々あり「また、島抜けするまての吃安の行動などは明らかでない。
 けれども勝戚の口述書は信頼出来ると思われ、彼は、安政5年(1858)と申し立ている。紀録によれば、安政正5年6月8日、仲間六人とともに島抜けを決行している。海を渡り甲州竹居村に帰りつくの2カ月をようしたわけだ。吃安らの島抜けについては、磯部氏の『吃安親分島抜記』に詳細に述べられているのて省略する。吃安は、仲間と別れ大石を越えて中芦川に至り、子分の孫兵衛の家て身体を休め、武居村の帰ったとも、伊豆に出て大場の久八の處に匿われれた後」下古田に入り、長兵衛に匿まわれ、一時ではあるけれども河口湖漁師小屋に隠れ住んだともいわれ、どちらも本当にように思える。
 吃安が竹古村に逃げ帰り、百姓屋に転々と移り替わって匿われていることを、石和の代官所は知っていたが、簡単に手が出せない。吃安が島送りになった頃より一家は大きなっていた。
八代郡はおろか、既に長兵衛も老境に達し、替って吃安の縄張り内となって吃安の身内が預かっていた。
甲府は無論大きくいえば甲州一円吃安の息のかからぬ博徒はいないといった調子、吃安を捕縛しようとした代官を驚かせた。驚いたのは吃安自身も同様で、隠れ住んでいるとはいえ、こそ泥が物置に潜んでいるのとはわけが違う。武居村内を大手を振って、歩き、女の許へ通うといった大胆不敵な生活を続けていたのである。
次郎長が、子分の掛川の政吉に様子を探らせようとして忍ばせたのも、大五郎(法印)が武居村(生まれも育ちも二ノ宮村・竹居村の北半里2キロ)から追い出されたのもこの頃のこである。
当時の吃安の身内は、先す伊豆大庭の久八を弟分に、上井手の態五郎・沢登の伴兵衛・一つ谷の浅五郎が四天王。黒駒の勝蔵・八代の綱五郎・塩田の大五郎・二階の弥太郎・鴬宿の武兵衛・上芦川の政五郎・岡野係左衛門・八代の伊之吉・八代の大亀(亀太郎)、それに女無宿おりは。これが十人衆。さらに、伊豆下田の安五郎・三州小中山のしめ造・伊豆本郷の金平(赤鬼の金平)・郡内では下吉田の進之助(長兵衛の火場所を吃安から預かる)・鬼神喜之助・八泙の角太郎・三河の亀吉(雲風の亀吉)などか火場所頭。後年勝蔵が平井を頼ったのも、亀吉が吃安の盃を貰ったいたからにほかならず、勝蔵と亀吉が兄弟分というのは双方上も」吃安の子分だったからである。その他の弟分、子分の持つ身内が甲州から伊豆一円に及び、三下まで加えればその勢力は實に三千人を越すとまでいわれた。
 島送り以前の吃安の侠気か、甚兵衛・惣太郎二人の人柄か、島抜けをやってのけ生まれ故郷で、堂々と生きている吃安の度量に惚れこん集まったのか、その辺のことはわからない。云々

武田信玄のDNA

  <http://blogs.yahoo.co.jp/yamamotokannsukejp/8538074.html

 山梨歴史講座 武田信玄正系(末裔)について

   今もつながる武田信玄
  武田家十五代 武田昌信(たけだまさのぶ)氏
   苦難の道を乗り越えて辿り着いた十五代
意外なことにそれは柳沢吉保の配慮が大きかったのだ
   

 引用資料 『歴史読本』五月号
   昭和44年(1969)


 武田家十五代 武田昌信の紹介(筆者紹介より 昭和44年当時)
大正十四年(1925)十四世信保嫡子として生まれる。
大学卒業後特応召。後法務省官房人事課に奉職。
現在は浦和地方法務局越谷支局長。
現住所 東京都世田谷区官坂 3−17−3

 信玄贈位と武田の正系

天正元年(1573)信玄公が没してより、今年で二百九十六年めになる。今年は戦国ブ
ームとかで、映画・テレビの「風林火山」、テレビ・演劇の「天と地と」など信玄公の活
躍を画いた作品があいついで競作・上演されている。また、公の本拠地、甲府では、武田
信玄奉賛会によって甲府駅前に公の銅像が作られ、その命日にあたる四月十二日に除幕さ
れることになっている。
 このように、信玄公の事蹟が顕彰され、その活躍ぶりがブームを呼ぶ程に歓迎されるの
は、これまでで、今回が最高だと思われるが、大正のはじめにも、今回とは違った意味で
「武田信玄とその一族」が問題になったことがあった。

 即ち、大正二年(1913) に大正天皇の御即位式の大典に際して、従四位下大膳大
夫であった武田信玄が従三位に贈位されることになったのである。

 これは、信玄が甲斐で行なった治水、土木、税法等にわたり、当時まれに見る民治上の
功績が認められたものである。こうして信玄公に従三位の位記・宣命(いきせんみょう)
を賜わったものの、これを受けるべき正統の子孫は何人であるかが問題となった。

 信玄の子孫といえば、「天正十年(1582)、信玄の四男勝頼がその子信勝と共に天
目山で自刃して武田家は滅亡した筈」といわれる方も多いだろう。たしかに、天目山以
後、戦国武将としての武田家は日本歴史の上から姿を消すことになるが、これによって
「武田家」までも滅び去ったわけではない。信玄公の多数の子女のうち、いくつかの系統
は天目山の悲劇後も生き延び、その家系を今日にまで伝えているのである。しかし、大正
二年のその当時、信玄公が没してより既に三百四十年も経過しており、この間にそれらの
各流は各地に散り、また各々の間で浮き沈みもあったりして、「信玄の正系」は公認され
てない状態であった。

 このため、宮内省から発せられた位記・宣命が信玄の正統なる子孫に伝達されるという
ことを聞いて、支流・庶流を含めた大勢の武田末孫が「自分こそ信玄の末裔なり」と名乗
りでることになった(三十六家が立候補)。

この位記・宣命の伝達を取扱う山梨県庁で、その選択に困って、東京定刻大学史料編纂所
にその調査決定を依頼した。しかし、ここでも容易にその判断を下しかね、そのため位記
はとりあえず、信玄公の菩提寺恵林寺(山梨県塩山市)ヘ預けられた。

 ここで信玄公の子女のうち、女女子除き、男子の系統だけをみてみると、
まず
○第一男の義信は
 永禄八年(1565)に信玄に背いたとので幽閉せられ、
   十年(1567)十月に逝去した。
 その夫人は今川義元の女で女子が二人いたと伝えられている。
○次が竜芳(龍宝)で、当家はこの系統をひくものてみる(後述)。
○その次が信之で、これは十歳で夭折。
○その次が天目山の四郎勝頼。
○次に仁科五郎盛信
○葛山十郎信貞があるが、これらは、織田信長が天正十年(1582)三月に甲信両国を
 攻めた時、
 仁科は信濃高遠城に戦死し、
 葛山は甲府で殺され、共にその裔は伝わらない。
 このほかに末子の
○信清がある。
 これは勝頼歿後、越後に下って上杉景勝を頼り、以後景勝につき従って越後から会津、
会津から沢へと移り、その子孫が米沢にあって今日に至っている。結局、信玄公の男系と
して今日まで続いているのは、竜芳系のという当家と米沢の信清系だけである。そこで、
竜芳の血をひく武田信保(系譜参照)が正系であるか、あるいは、信清系統の山形の武田
茂氏が正系であるか、二者選一の問題となった。
 そこで山梨県庁ではこの間題を再び東大史料料綿纂所へその調査を依頼した。
 編纂所では武田研究の権威渡辺世祐博士(故人)がその任にあたり、当家伝来の系図に
基いて、竜方の子孫を正統なりと確認するに至った。ここに至るまでには、山梨県市川大
門の武田研究家村松蘆洲翁の御尽力を忘れることはてきない。山梨県下に武田の正系なし
ということで、位記宜命の下付が米沢の武田家へ決りかけた時、翁は米沢の武田家も信玄
の子孫にはちがいないが、系統の順位からして、信玄の二男竜芳の血をひく後裔こそ正系
ではないかと、当家が正系であることを大いに主張して下さったのである。
 かくして、贈位問題が起こってから十二年を経た昭和十二年(1937)に、従三位の
公式書状が私の父信保に下附されたのである。
これと同時に、当家を子爵に叙爵する旨の沙汰があったか、父、信保はこれを拝辞してし
まった。その理由は、川中島の好敵手である上杉家が伯爵であるのに、武田家が子爵とい
うのは釈然としないというのである。ところが、この叙爵の決定を下した、時の宮内大臣
・松平恒雄氏(現秩父宮妃殿下の父君)の奥様は鍋島侯爵家の長女の方で、その妹の方
が私の父の兄の柳沢保承伯爵の妻であったから、当家と松平安とは縁がつながることにな
り、そのため子爵を拝辞することは相当の心労であったと、よく母(母・綱は柳生子爵の
出身)はいっている。

  流浪する武田家

ここでひとまず、武田家の系譜をたどってみると、二世竜芳は信玄の二男で名を信親(の
ぶちか)といい、母は信玄の正室三条左大臣公頼の息女てある。長子義信の死亡後、竜芳
が後を継ぐべきところ、眼疾を患ったので、永録四年(1561)信州海野の家を継いで
て海野二郎と名乗った。通称を聖道(しょうとう)様といわれた。



 武田家滅亡の際

 勝頼が新府城を去って東進する時、法流山入明寺山主の栄順師(信虎を諫めて自殺した
内藤相模守の子)は竜芳の身を案じて寺へ迎えいれたが、勝頼が天目山に滅ぶの報が入る
と、竜芳はその夜、寺内に於て南自刃した。この時、竜芳のこ信道は、武田の血筋の絶え
るのを心配した入明寺の栄順および長延寺(甲府市)の実了のはからいによって、長延寺
領の信州伊那犬飼村に難を避け、織田方の虎口を脱することができた。

 その後、徳川家康が甲州へ入国し、長延寺の再興を詐したので信道は実了の後をついで
長延寺第二世となり、法名を顕了道快と称した。ところが、信道が長延寺に住すること三
十年に及んだ時、突然思わぬ災難がふりかかって来る。

 信道・信正親子、伊豆大島に流される。

 それは、当時関東郡代であった大久保長安が武田家遺族を保護し、それを利用して大名
になろうという野心をもっていたことが、彼の死後判明し、信道もこれに連坐することに
なったのである。大久保家に、武田家の花菱紋があったことがその証拠とされ、信道はそ
の子の信正とともに上州笠間の城主松平丹波守康長の下に預けられることになった。
次いで元和元年(1615)、入明寺の栄順や旧縁の人達の弁護にも拘らず、幕府は信道
父子を伊豆大島配流(はいる)してしまった。
 この遠流には信道の妻「ままの局」をはじめ、譜代の臣九名が随従している。
 大島での一行の生活の、辛苦はば申すまでもなく、信道は憂悶のうちに寛永二十年(1
643)三月五日に、七十歳で他界され、次いで局も後を迫われた。この間の断腸の思い
いを書き連ねて入明寺ヘ寄せられた局の玉章(たまずさ)は入明寺の寺宝となっている。
 なお、信道の大島での館や墓は戦後発見され、東京都史蹟となっている。
 この後も、御子信正は,なおもゆるされず、さびしい月日を大島で過していたところ、
信道の旧臣臣の奔走により、寛文二年(2663)、幕府から晴れて赦免の沙汰があっ
た。四十九年の歳月を寂しい孤島で難苦をなめた信正主従は喜び勇んで江戸へ帰ってき
た。ところが、もと国事に関する犯罪の嫌疑者であるので、幕府に気兼ねして、唯一人進
んで彼等を世話するものがない。

  助けてくれた内藤忠興夫人

 そこへただひとり奥州岩城平の城主内藤忠興夫人が手をさしのべてきた。この夫人こそ
天正十年三月、武田勝頼にに反して天目山に款を織田信長に通じ、勝頼をして天目山に最
期を遂げさせた、武田一族の小山田信茂の養女である。

 実は信玄の孫と伝えられ、早くから家康に侍って、女ながら戦陣の間に従い、その寵を蒙っていたが、後に家康が忠興に嫁せしめたものである。この後、信正は忠興の女を妻とした。時に信正七十歳、その妻は十七歳であった。そこに生まれたのが五世信興である。 この五世信興の時、重ねて幸運がやってきた。

 筆註 不思議な因縁である。子の内藤忠興の子風流大名内藤風虎は、「目には青葉」の山
口素堂が江戸藩邸に出入りし、松尾芭蕉との出会いもこの藩邸であったとする書も    ある。


  柳沢家との関係

 当時、将軍綱吉に登用せられて威権並ぶものがない柳沢吉保の斡旋により元禄十三年
(1700)甲斐八代郡に武田家が新知五百石を以て封ぜられたのである。しかも、表高
家たることを命ぜられ、幸橋門外に新たに宅地を与えられた。以後、明治維新まで幕臣で
あった。
 柳沢吉保と武田家との因縁は、吉保の祖父信俊が武田家の庶流で、武田家滅亡と共に、
家康に仕えたのである。さきの内藤家の夫人といい、柳沢吉保といい、まことに不思議な
因縁である。特に柳沢家と武田家はこれ以後も相互に、養子縁組をとり交し、深いにしえ
を結んでいる。

  信虎追放のこと

当家に伝わる家宝としては二十点ばかりあり、そのうち亀甲槍、鎧、古文書は正系決定の
折に、武田神社(山梨県甲府市)に奉納した。また信虎、信玄、勝頼三公の真筆は戦時中
入明寺に疎開させていたところ、入明寺が空襲を受けたため惜しくも焼失してしまった。
 ただ、武田神社に寄進した宝物は戦火にあわず、無事に残っている。亀甲槍というの
は、信親が海野城へ赴く際に、母君が信玄公に依頼して与えられた品で、宝物中第一のも
のである。それで、代々、この槍秘蔵のことは口外を禁ぜられ、正系決定の日まで秘めら
れていたといういわくつきのものである。また、竜芳の夫人以来、当主の夫人に代々伝え
られた懐剣が一口残っており、これだけは今も我家にある。j

最後に、最近の戦国ブームに際して武田氏正系として信玄公とその父信虎公との関係につ
いて一言してたい。この両者の関係については、信玄公が信虎公を駿河に追放しだという
のが通説となっているが、実際はそうではない。信虎公の領民に対、する暴虐な行ないが
多くなるにつれ、家臣達の信は次第に信虎公を離れ、信玄公につくようになったのを知っ
て、信虎公は自ら納得づくで駿河に退隠したのである。

甲斐やくざ考(2)

 警察力の無能

 第二に代官行政における警察力の無能ぶりである。
竹居安五郎通称吃安が、島破りして在所の武居村に戻ったのが、安政五年(1758)、彼が捕えられたのが文久二年(1863)である。島の名主を殺し島破りをした重大犯人
を、石和代官では実に九年間も逮捕することが出来なかったのである。
 それも吃安の用心棒で無頼の浪人を、過去の罪を帳消しにするからという約束で、代官
所の味方につけての末である。
 ここで当時の代官所の構成を述べておく。
 代官陣屋は、はじめは甲府、上飯田、石和、三陣屋だったが、天明年間(1781〜8
9)に上飯田が廃されて、代って市川大門に陣屋が建てられた。他に郡内地方の谷村に陣
屋があったが、これは石和代官所の役人が代行していた。また郡内の一部は、韮山の江川
代官所が行政権をもっていた。

 陣屋詰   谷村詰  江戸詰
  甲府代官所  13名  12名   25名
  石和代官所  12名 6名   8名   26名
  市川代官所  12名   9名   21名

この機構人員でも判る通り、約五万石前後の支配地を持つ代官所の役人では、とうてい集
団的な暴力や、多数の輩下をかかえる親分に対しては手も足も出なかった。
 だから一稗の無法地帯の観もある。全国各地から凶状持ちや、無宿者が陸続と流れこ
む。吃安を裏切った用心棒の犬上郡次郎も牢破りして甲州へ来た男である。大前出典五郎
の弟分の英次も、人殺しをした後甲州郡内の博徒の客分になっている。国定忠治も司直の
手をのがれて逃げこんでいる。
 文化から文久(1804〜1863)にかけてが、甲州博徒の全盛期で、各村誌や古老
の云い伝えを総合すると、吃安の子分二千人を筆頭に、一家をかまえた博徒一家が約四十
五、それらの児分を合算すると五万人近い博奕の大集団が構成される。
 これらに対して僅か十人や十一三人の代官所役人が、たとえ決死の覚悟で対したとして
も、事実上どうにもならない。しかも、当の代官は任地に顔を出さずに、専ら江戸の代官
屋敷で指揮をしているのだからなにをか云わんやである。
 だいたい五万石も六万石もとるような領地を、せいぜい三百石か多くて五百石どまりの
旗本に代官として支配させることが間違いだが、同時にまた彼らも、司政官というより甲
州へ島流しにされたような気分で、一日でも端役江戸へ戻るために、懸命にその成績をあ
げようととする。徴租高をふやし、勘定奉行に認められようとする以外に考えないという
代官が多い。勿論、警察権はもってはいるが手が足りない上、代官所の費用が決っている
ので、無駄な動きは一切やらぬのが上策と決めこむ。こんなのがかならず出世するのだか
ら、天領の民百姓はたまったものではない。
 例の「天保水滸伝」で有名な勢力宮五郎(佐助)逮補をみると、代官所ではどうにもな
らず八州廻りがようやく取りおさえたのだが、これとても弘化二年(1845)から嘉永
二年(1849)までかかっている。その間、勢力仕助は深編笠をかむリ、大脇差に鉄砲
といった武装で、子分を常に七八人引きつれて、自由に干潟八万石の間を歩きまわってい
る。逮捕のきっかけは将軍家慶が金原の仰鹿狩で旗本衆、御家人衆、その他約五万人が乗
込んでくるということで、結局隣接地の大名も動き出し、その協力でやっと勢力一党を召
しとったという。国定忠治の場合も同じで、これをみても、如何に当時の代官が非力であ
づたかがうかがえる。
こうした背良景に甲州博徒はそれぞれの縄張りをもった訳だが、当時の代官所では毒をも
って毒を制すという方針で、一種のなれ合い政治を行なっている。一つの例が目明しと称
して、十手とり縄をあずけて、代官所の手先を代行させる徒輩である。三井の卵古が甲州
では代表杓なものだ。博徒の親分兼捕吏である。だから吃安、勝蔵、文吉クラスの輩下
で、代貸しや火場所の責任者程度の中堅博徒が柑当数この目明し役を引うけている。これ
では強盗や火付ぐらいは逮捕出来ても、博徒の親分に縄をかけることは不可能に近い。
 ところで、いくら警察権の弱い天領でも、法度の博奕業というものは通らない。だから
本質的には専業博徒でも表向は職業を持っていた。
 竹居安九郎、黒駒の勝蔵、津向の文吉、天野開蔵、人斬長兵衛は農業、三井の卯古は料
亭主、その上半生近くは人別帳にのっていて、無宿におちたのは、牢入り、島送り以降の
場合が多い。
 さきに吃安子分二千、全盛期の博徒五万といったが、これはあくまで盃をもらった形式
的の子分の数で専業の子分は僅か二三人、多くて七八名どまりである。他は近在の百姓や
職人、お店者でれっきとした人別帳にのった素人が多い。勿論、親分の手前賭場にも顔を
出し、なにかの時には長脇差を腰にして駆けつけるのもいるが、おおかたは盃を貰ったこ
とで、白分の職場や、権利を保護して貰うための処世上の手段であった。
 理不尽なことをもちかけられたり、暴力でおどされたりする場合は、彼らは決して代官
所に訴え出ない。徴貢で精一ぱいの役人たちは、村のごたごたや、暴力沙汰にかまってい
るひまはない。なんといっても頼りになるのは盃を貰った親分である。
 親分も自分の在所は特別に気をつかって、非道な暴力沙汰は一さいしなかった。吃安も
勝蔵も文吉も長兵衛も、その出身地での悪評は殆ど聞かない。
 勿論、彼らはそれぞれ何人かの男を斬っている。だが決して自村や近くの素人衆ではな
い流れ者の無宿者が、自村の娘をいたずらしたとか、縄張り内で無断で盆を開いたとかと
いった理由である。
 こうした配慮がそのまま村の人々の心をつかみ、ある場合は一村あげて役人の手から守
り通すといった浪曲や講談で観られるような挿話が生まれるのである。
 だからといって、博奕の親分がみんなそれだとは限らない。元来が無頼の徒輩だ。非情
な暴挙や、理不尽な振舞いをする者が多い。しかし一家をかかえて大親分にのしあがるに
は、この世界でも決して暴力だけでは駄目だ。力だけに頼った者は、一時的にはのしあが
っても、後世に名を残す博徒にはなれない。
 親分になる条件にもう一つある。財力である。吃女を始め、勝蔵、長兵衛、開蔵など殆
どが名土の伜だ。文吉も資産豊かな百姓の伜だ。金がなければ親分にはなれないし、親分
になれば、各地の火場所からいくらでも金を映い上げられる。だから、親分は一趣の資本
家で、何某株式会社の社長である。

 

甲斐やくざ考(1)

 山梨侠客講座
   史料 「甲州やくざ考」
    侠客のメッカといわれる甲州の風
  そこから輩出した侠客の実態


  参考資料『歴史読本』特集 幕末任侠伝
   昭和46年3月特別号 所収
 竹内勇太郎先生著

 幼年期の見聞

 大正の末期の話である。当時、私の家は甲州の東山梨郡七里村下塩後(山梨県塩山市下
塩後)という処に住んでいた。蒸気機関車の停車する中央線塩山駅から、西に約三キロ、
純然たる農村地帯の一部落である。
 この部落に楠次郎という老人がいた。深い皺を日焼した顔いっぱいにみせて、枯木のよ
うになえた近在の老人と違って、色白で堂々たる恰幅の上に、柔和のうちにも気品のよう
なものがその顔にあった。
 道などですれ違った幼い頃の私などに、楠老人は親しみのある微笑をうかぺて、くった
くなく話しかけたものだ。服装も常に絹か上質のつむぎの着流しで、たまさか野良着にな
って畑に出ても、終日働くという訳ではない。趣味の農作業といった感じである。家屋敷
も堂々としていて、ずしんとした感じの屋根瓦の母屋は、当時としては名家らしい格式の
なかに、モダンな風雅さというものを感じさせた。
 楠家は名家であることも事実で、現社会党の代議士の小林信一氏も、たしかこの家と縁
続きになっているはずである。この楠老人に対する村人たちの態度は畏敬の一言に尽き
る。村長でも村議でもないこの老人に対して、村人たちは素朴な尊敬と信頼のようなもの
をみせて、冠婚葬祭や村のもめごとなどのたびに、この老人のもとを訪れていた。
 村人たちはこの老人のことを「親分」と呼んでいた。勿論、地方農村における地主対小
作人、あるいは旧本家に対する分家などによるマキとして親分子分のそれとは異質であ
る。つまり、博徒の「親分」としての呼称が、楠老人に奉られていた訳である。
 この老人が明治の末期から大正の始め頃にかけて、甲州きっての大親分であったこと
を、ずっと後年になって私は知った。もっとも私が老人に接した頃は、一家を解散して悠
々自適の晩年だったが、この楠老人の印象は、「凶暴無頼の博徒」というものを、別の観
点からみつめようとする姿勢を私に与えたような気がする。
 ところで、その頃、私の隣家に、日原某という繭の仲買人が住んでいた。なかなかの好
男子で、あいそのいい腰のひくい人だった。妻君の方も粋な感じの美人で、幼い頃の私が
お使いになど行くと、当時としては高級のカステラなどを半紙にくるんでくれた。
 ある午後、私が家の前で遊びほうけていると、突然、十二三人の刑事がこの日原家を襲
った。事情が判らずあきれかえってみて、いる私の前に、次々に近在の農夫や、商店主た
ちが、後手にくくりつけられて出て来た。日原夫婦も勿論である。寨博突の現行犯として
の逮捕である。
 それから二三ケ月たって、塩山駅の近く菅田天神社の横で、殺人事件が起きた。賭場で
イカサマがばれての、博徒同士の喧嘩の呆てである。大正末期、私が幼年期に暫く住んで
いた甲州七里村の一時期の見聞録である。
 これをみても、いかに甲州という土地柄が、博架あるいは博徒に深いかかわりを持ぢ、
つい先頃までその命脈が保たれていたがが判ると思う。

  博奕を利用した信玄

甲州の博突の歴史を考えてみると、相当古い時代までさかのぼらなければならない。
 『吾妻鑑』に双六は武士だけは許可するが、下臈は禁止するということがあるが、当時
の記録には陸奥、常陸、下総が最も盛んで、他に甲州、美濃、上野がこれに次ぐとされて
いる。最も当時の博突は、双六局(盤)に中央に一条の道を設け、その左右に十二目をつ
くって、これにおのおの白黒の駒(馬という)をならべ、筒に入れた釆二個を投げて、そ
れによって駒を動かして勝負を決したというのだから、賽の目に命を張ったといった殺気
をみせる賭場風景ではなく、遊去の一つの形式でもあったようだ。甲州で博突を一つの目
的として利用した人に、乱世の英雄武田信玄がいる。勿論、武田信玄が特に博突を好み、
率先して行なったという訳ではない。あくまでも戦略的にこれを利用したにすぎない。
 乱世の武将が戦略上その謀諜機関として、所謂忍者というものを最大限に利用したのは
周知の事実である。
 北条の風馬党、上杉の素波、そして武田の乱波。
 もっとも信玄直属の忍者には、世に云う乱波以外に三ツ者と呼ばれる一団があった。乱
波は所謂山岳民「山窩」を中心に組織する直截的なスパイ団であり、三ッ者は士分や農民
でも多分に知的な才覚のある知能集団である。
 …博突を弄して敵の腹中に入る…
 というスパイ術が、この三ッ者の手段であった。映画やテレビでみる忍者は、男装束に
黒覆面、かずかずの忍び道具を持って現れるが、現実のスパイ活動は、とてもそんな芝居
ごとでは出来ない。旅の塩売、薬売、旅医者や旅芸人や山伏など極めて平凡な市井の徒輩
としての肝常活動が、結果的にその謀諜目的に結びつくのである。当時の武将の家臣団の
組織は、親族衆や譜代の被官が直属、その下に有力家臣団があり、その家臣団の鉗地にあ
る農民が卒として参加している。この農民兵に,接近した三ッ者が、短期間に深い親交を
持つ手,段に賽の目が利用された訳だ。
 寺銭という言葉は、荘園地代に寺社が主催して、公然と賭場を開いて場銭をとったこと
がその語源だが、それでも判るように、戦国時代は全国的に博突が行なわれていた。
 『北条五代記』などをみると、乱波と忍者と博徒が同意義にとらえられている。
 現代でも得意先の接待や、上役のご機嫌とりに麻雀の卓を囲むが、賭ごとを通じての交
わりとうものは二不思議に相手の警戒心をとり去って、一種の仲間意識をかきたてる。
 こうして武田忍者たちは、給指揮官、「諸国後使者衆」の指令のもとに、雑兵を相手に
三寸三分に切った竹筒に賽を投げこんで、三河や美濃、信濃や相模に巧妙なスパイ活動を
続けた訳である。

 博徒輩出の原因

乱世が終り、徳川幕府の全国統一となったが、この頃からようやく全国的に本格的な賭場
や、準専業の博突うちが輩出して来た。勿論、甲州でも盛況を極めたのは当然だが、これ
に輿する古文書が殆どないので、江戸初期から中期にか一けての、甲州博徒の動静や個々
の人物像などは定かでない。
 ただ慶長年間(1596〜1615)江戸随一の顔役だった大鳥逸平が鈴ケ森で刑死し
たのち、全国的に大鳥党の大検挙があり、甲州でも二十余人の博徒が捕えられたという記
録がある。また侠客などといわれている口入業の博徒幡随院長兵衛の子分で篠原の佐兵衛
というのがあるが、「出生は甲州西郡在云々」というので、多分今の中臣摩郡竜王町篠原
出身らしい。
 この時代には専業の博徒という者はいない。職人とか仲間とか百姓とかが職業の余特に
所謂博奕を打つという程度で、またそれだげに何某一家の大親分というような人物は出て
いない。これは江戸幕府の権威が、名実ともに備わって、法度に対する摘発や断罪がかな
りきびしく行なわれた結果である。
 甲州博徒の大親分ガ輩出拙しはじめたのは、幕府の行政がようやく行き詰った天保年間
(1716〜26)以降である。明治初年に出された「近世侠客有名鏡」をみると関東を
中心とした博奕百五十名が勢ぞろいしている。東大関が信夫の常吉、西方が丹波屋清兵
衛、以下関脇が大庭の久八と大前田英五郎、前頭筆頭が国定忠治と小金井小次郎といった
ぐあいで、甲州出身者は前頭三枚目に武居の安五郎、五枚目に身延の半五郎、それに続い
て黒駒の勝戯、祐天仙之助、少し下って甲府の玉五郎、伊沢の万五郎、三井の卯古、伊沢
の虎五郎、鬼神の喜之助、小天狗の亀吉と続く。ともに甲州の親分は百五十人中上位であ
る。・更に別格で清水の次郎長とならんで甲州谷村の人切長兵衛がある。もっとも新門辰
五郎や幡随院長兵衛が同じく別格で顔をならべているので、時代的のズレを無視した一種
の人気番付とみられる。
 上州とならんで博奕の大親分が、どうして甲州にかくも台頭したのかということだが、
これは一にも二にも、曲り角にきた幕府の権威の失墜とその無力にある。
 天保十二年(1824)徳川幕府の歳出入を見ると、歳入百十万千四百四十五両、歳出
百六十三万五千三百八十八両で、差引約五十二万四千両の赤字である。勿論、赤字はこの
年に始った訳ではないから、累積赤字は何千万両にも及んでいた訳だ。当然なことだが譜
代、外様に限らず国持大名もその台所は火の車だ。名目をつけて金を大名からということ
も不可能である。しぜん、そのしわ寄せは幕府の支配地、所謂天領に向けられた。
 景も天領の宿命とでも云うのか、領民第一に考える国持大名と異って、代官行政はとか
く代官自身の点取主義、出世主義におちいるので苛酷な貢租の取立が行なわれる。
 延宝九年(1681)七月に大野村、神沢村、石村では地頭の山上五郎左衛門の非道ぶ
りを訴えている。この時の本年貢のかけ方をみると、

   御取カ五ツ六分ニテ御座侯トコロニ
   五郎左衛門御壱人年々御高免二仰セ
   付ケラレ九ツ三分二召上ゲラレ…

 側取カは、御取箇で租額、五ツ六分というのは租率で、「免幾ッ何分何厘何毛」と唱え
る。つまり免一ツは石高一石に対して租米一斗を意味する。石高は村高ともいわれて、検
地の結果によって決定されるが、この石高に免の率を乗じて御取箇が決定されるのであ
る。江戸中期天領にれける租率は、最高六ツ三分、最低一ツ五分、平均三ツ四分で、享保
以降は普通四ツであった。ところが文意をみると、
 五郎左衛門は御高率で(高厘)で九ツ三分(九公一民)という驚くべき高率をかけてき
たのである。(上野靖朗『甲州風土記』)。
 この時も逃散百姓が多く出たが、これらは再度帰農は許されなかった。
 これが幕末になると更に酷くな、って、各地で苛酷な石代のために逃散、娘売り、出稼
ぎ勿論、中井清太夫のような名代官も出たが、もともと幕政官体が財政的に追いこまれて
いたので、余程のことでないと天領民の訴えに耳をかそうとしなかった。
 元来が甲州は地味の豊かでない痩地である。山岳が多く当然ながら、田畑の一戸当所有
率も少い。だから二男三男は、他家に婿入りするか、一生生家で居候として作男同然に暮
すしか生きる手段はない。行政権の行届いた大名領を追われた無頼の無宿者が、代官行政
の警察力の弱い天領に流れこむのは当然である。これらの無宿者と、圧政下にあえぐ百姓
業にみきりをつけた二男三男の徒輩が結びついた。
 貢租を収めかねて逃散した百姓たちも、同時に無宿者となった。
 だから甲州博徒の隆昌は、こうした幕府の末期的な行政の在り方にその因を発したとみ
ていい。

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