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川中島五度合戦(2)

 天文23年8月初め、謙信は越後を発ち川中島に着き、丹波島に陣取った。越後留守居として、謙信の姉婿上条の城主の上条入道、山浦主水入道、山本寺伊予守、大国主水入道、黒金上野介、色部修理、片貝式部の七人にその勢力八千を残した。

上杉謙信
謙信は川中島に陣を張り、
先手は村上義清、二番手は川田対馬守、石川備後守房明、本庄弥次郎繁長、高梨源五郎頼治の四人。
後詰(ごづめ/応援)は柿崎和泉守景家、北条安芸守長朝、毛利上総介広俊、大関阿波守規益の四人である。
遊軍は、本庄美作守慶秀、斎藤下野守朝信、松川大隅守元長、中条越前守藤資、黒川備前為盛、新発田長敦、杉原壱岐守憲家、上条薩摩守、加地但馬守、鬼小島弥太郎、鬼山吉孫次郎、黒金治部、直江入道、山岸宮内、柏崎日向守、大崎筑前守高清、桃井讃岐守直近、唐崎左馬介、甘糟近江守、神藤出羽介、親光安田伯音守、長井丹後守尚光、烏山因幡守信貞、平賀志摩守頼経、飯盛摂津守、竹股筑後守春満など二十八備え、侍大将が二行に陣を張り、旗を進めた。宇佐美駿河守定行二千余、松本大学、松本内匠介千余は旗本脇備えである。
総軍の弓矢奉行をつとめるのは、謙信の姉婿に当たる上田政貴で、飯野景久、古志景信、刈和実景の4人は、みな長尾という同名で謙信の一門である。これで越後勢は合わせて八千である。犀川を越え、網島丹波島原の町に鶴翼の陣を取った。

  武田軍
武田晴信も同15日に川中島を通って、海津城に入り、16日に人数を繰り出して、東向きに雁行に陣取った。先手は高坂弾正、布施大和守、落合伊勢守、小田切刑部、日向大蔵、室賀出羽介、馬場民部の七組で、七百の勢が先手に旗を立てて進んだ。
二番手には真田弾正忠幸隆、保科弾正、市川和泉守、清野常陸介の四人が二千の兵を率いて陣取る。
後詰は海野常陸介、望月石見守、栗田淡路守、矢代安芸守の四人で二千七百。遊軍は仁科上野介、須田相模守、根津山城守、井上伯音守の五人、四千の軍勢である。
これを二行立てに陣を張り、総弓矢奉行は武田左馬介信繁、小笠原若狭守長詮、板垣駿河守信澄の三人の備えとなった。
旗本の先頭は、飯富(おぶ)二郎兵衛昌景、阿止部(跡部)大炊介信春、七宮将監、大久保内膳、下島内匠、小山田主計、山本勘介、駒沢主祝の八人で、信玄の本陣の左右には、名家の侍の一条信濃守義宗と逸見山城守秀親(信玄の姉婿)が万事を取り仕切る。
その他、下山河内守、南部入道喜雲、飯尾入道浄賀、和賀尾入道、土屋伊勢、浜川入道の六人が二千の兵と陣を敷いた。
ところが日夜お互いに足軽を出して小競り合いをしたが、合戦にはならなかった。

   上杉軍
天文23年8月18日の朝はやく、越後方から草刈りの者二、三十人出し、まだうす明かりの中から駆けまわる。それを見ていた甲州の先手の高坂(弾正)陣の足軽が百人ばかり出て、謙信方の草刈りを追いまわした。これは計略であったので、越後方から村上義清と高梨政頼の足軽大将である小室平九郎、安藤八郎兵衛ら二、三百人の者が夜のうちから道に潜んでいて、高坂の足軽を全部を討ち取った。これを見て、高坂弾正、落合伊勢守、布施山城守、室賀出羽介の陣から百騎あまりの者が大声を上げて上杉勢の足軽勢を追いたて、上杉方の先手の陣のそばまで押し寄せて来た。それを見計らって、義清、政頬の両方の軍兵一挙に出て、追い討ちをかけ、武田勢百騎を総て討ち取ってしまった。そのため、高坂、落合、小田切、布施、室賀などの守りが破れ、武田晴信の本陣まで退いていった。

武田軍
武田方は先手が負け、さらに追いたてられるのを見て、真田幸隆、保科弾正、清野常陸、市川和泉などが第二陣から出て、勢いで追いたてて一旦、上杉勢を追い返して、陣所の木戸口まで迫り、義清、政頼も危機を迎えた。

上杉軍
この時、二番手から越後方の川田対馬守、石川備後守、高梨源五郎の三隊、そのほか遊軍の中から、新発田尾張守その子因幡守、杉原壱岐守の五隊が二千ばかりの兵と、ときの声をあげて駆け出て、武田勢を追い散らして戦った。
そのうち、真田幸隆が傷を受けて退くところを、「上杉方の高梨頼治」と名乗って、真田にむんずと組んで押しふせ、鎧の脇のすきまを二太刀刺した。保科弾正はそれを見て、「真田を討たすな、者どもかかれ」と戦った。真田の家人細谷彦助が、高梨源五郎の草ずりの下をひざの上から打ち落した。つまり主人の仇を取った。これから保科を槍弾正と言うようになったという。保科もその時、越後方の大勢に取りこめられて、危なく見えたが、後詰の海野、望月、矢代、須田、井上、根津、河田、仁科の九人がこれを見て、保科を討たすな、と一度にときの声をあげて、追い散らした。 越後の本陣に近いところまで切りかかってきたところ、越後の後詰斎藤下野守朝信、柿崎和泉守景家、北条安芸守、毛利上総介、大関阿波守など三千あまりが切って出て追い返し、押しもどして戦った。この戦いで、敵も味方も、負傷者、戦死者を多く出し、その数は数えきれぬほどであった。

 謙信は紺地に日の丸、白地に「毘」の字を書いた旗を二本立て、原の町に備えをととのえ、その合戦が続いた。そのうちに信玄は下して、犀川に太い綱を幾本も張り渡して、武田の旗本大勢がその綱にすがって向こう岸に上り、芦や雑草の茂った中の細道から、旗差物を伏せしのばせて出て、謙信の旗本にときの声を上げて、にわかに切り込んで来た。
そのため、謙信の旗本はいっぺんに敗れ、武田方は勝に乗じて追い討ちをかけて来た。
信玄は勇んで旗を進めたところに、大塚村に備えを立てていた越後方の宇佐美駿河守定行のひきいる二千ばかりの軍が、横槍に突きかかり、信玄を御幣川に追い入れた。そこに越後方の渡辺越中守が五百余騎で駆けつけ、信玄の旗本に切ってかかり、宇佐美の軍とはさみうちに討ち取った。武田勢は人も馬も川の水に流されたり、また討ち取られた者も数知れなかった。
そのうちに謙信の旗本も戻り、越後方上条弥五郎義清、長尾七郎、元井日向守、沼野掃部、小田切治部、北条丹後守などが信玄の旗本を討ち取った。その他、青川十郎、安田掃部などは御幣川に乗り込み、槍を合わせ太刀で戦い名を上げた。手柄の士も多かった。しかし討ち死にした者も数多かった。
 信玄も三十ばかりの人数で川を渡って引き1げるところを、謙信は川の中に乗り込んで二太刀切りつけた。信玄も太刀を抜いて戦う時、武田の近習の侍が謙信を取り囲んだが、それを切り払った。しかし、なかなか近づけず、信玄も謙信も間が遠くへだてられた。その時、謙信に向かった武田の近習の士を十九人切った謙信の業は、とても人間の振る舞いとは思われず、ただ鬼神のようであったといわれる。謙信とはわからず、甲州方では越後の士荒川伊豆守であろうと噂されていた。後でそれが謙信とわかって、あの時討ち取るベきであったのに残念なことをした、とみなが言ったという。
信玄は御幣川を渡って、生萱山土口の方に向かい、先陣、後陣が一つになって負け戦であった。甲州勢は塩崎の方に逃れる者もあり、海津城に逃げ入った者もあった。
中条越前が兵糧などを警護していたところ、塩崎の百姓数千がそれを盗みに来たため、中条がこれを切り払った。このためまた、武田、上杉の両軍が入り乱れてさんざんに戦った。両軍に負傷者、死者が多く出た。信玄は戦に敗れて、戸口という山に退いた。上杉勢がこれを追いつめ、そこで甲州方数百を討ち取った。
 信玄の弟、左馬介信繁が七十騎ばかりで、後詰の陣から来て、信玄が負傷したことを聞き、その仇を取ると言って戻って来た。その時、謙信は川の向こうにいた。左馬介は大声で、「そこに引き取り申されたのは、大将謙信と見える。自分は武田左馬介である。兄の仇ゆえ、引き返して勝負されたい」と呼びかけた。謙信は乗り戻って、「自分は謙信の家来の甘糟近江守という者である。貴殿の敵には不足である」と言って、川岸に馬を寄せていた。
待っていた左馬介主従十一人が左右を見ると敵はただ一騎である。信繁も、「一騎で勝負をする、みな後に下っているよう」と真っ先に川に入るところを、謙信は川に馬を乗り入れ、左馬介と切り結んだ。左馬介は運が尽きて打ち落され、川に逆さまに落ち込んだ。謙信は向こうの岸に乗り上げ、宇佐美駿河守が七百余で備えている陣の中に駆け入った。一説には武田左馬介信繁を討ち取った者は村上義清であるともいう。上杉家では、左馬介を討ち取ったのは、謙信自身であったと言い伝えている。甲州では信玄は二か所も深手を負い、信繁は討ち死にしたのである。板垣駿河守、小笠原若狭守も二か所、三か所の負傷で敗軍であった。
 越後勢も旗本を切り崩されて敗軍したが、宇佐美駿河守、渡辺越中守が横槍に入り、信玄の旗本を崩したのに力を得て、甲州勢を追い返して、もとの陣に旗を立て、鶴翼の陣を張ることができた。

 この時の戦は天文二十三年甲寅八月十八日。夜明けから一日中十七度の合戦があった。武田方二万六千のうち、負傷者千八百五十九人。戦死者三千二百十六人。越後方は負傷者千九百七十九人、戦死者三千百十七人であった。十七度の合戦のうち、十一度は謙信の勝、六度は信玄の勝であった。謙信は旗本を破られたが追い返して、もとの場所に陣を張ることができた。武田方は信玄が深手を負い、弟の左馬介戦死、板垣、小笠原なども負傷したため、陣を保てず、夜になって陣を解いて引き上げた。謙信も翌日陣を解き、十九日には善光寺に逗留して、負傷者を先に帰し、手柄を立て名を上げた軍兵に感状証文を出して、二十日に善光寺を引き払い、越後に帰陣した。これが天文二十三年八月十八日の川中島合戦の次第である。

 

川中島五度合戦

                          (作者不明)

上杉謙信を頼った信州武将
村上左衛門尉義清
 信州五郡の領主村上左衛門尉義清は、清和源氏伊予守頼義の弟で、陸奥守頼清の子、白河院蔵人顕清が初めて信州に住むようになり、四代目の孫に当たる為国、その子基国の後胤。
高梨摂津守政頼
高梨摂津守政頼も、伊予守頼義の弟井上掃部(かもん)頭頼季三代の孫に当たる高梨七郎盛光の子孫。

   井上河内守清政 高梨の一族。須田相模守親政も一家。

   島津左京進親久頼朝の子島津忠久の子孫。
上記の武将のほか多数の信州武将が、甲州武田信玄に敗れて、越後に落ちのび、長尾景虎(謙信)を頼って来た。中でも村上義清は、多年にわたり武田と戦っていたが、とうとう負けて、天文22年(1553)6月に越後に落ちのび、謙信の力を頼って、自分の領地坂本の城に復帰すると事が念願であった。
上杉謙信(長尾景虎)

 謙信はこの年間2月初めて京都に上った。24歳の時である。これは、前の年の天文21年5月に将軍の使があって、謙信は弾正少弼従五位下(だんじようひようひつじゆごいのげ)に任ぜられた。このお礼に京都に上ったのである。謙信は京都御所に参り昇殿をゆるされ、後奈良天皇に拝謁し、天盃をいただいた心また将軍義輝公にお目見えして、種々親しいお言葉を賜り、五月に帰国したところに六月村上義清が武田晴信に追われ、謙信を頼りにした。その上高梨政頼、井上清政、須田親政、島津親久、栗田、清野などがそろって越後を頼り、助けを求めてきた。
天文21年10月12日、田浜で勢ぞろいをして信州に向かって出発した。
途中、武田側の武将の領地は焼き払い、自分の館の中に居て、刃向かいしない者の領地は処分せず、、11月1日に川中島に陣を取った。
武田晴信(信玄)
晴信も二万の兵をひきいて甲府を出陣した。同19日から両軍の間は四キロ足らずで毎日小競り合いを繰り返した。

 上杉軍
27日に謙信から平賀宗助を使者にして、明日決戦をすることを申し送り、その備えを定め、夜のうちに人数を出した。
先手は長尾平八郎、安田掃部、長尾包四郎、元井日向守清光、同修理進弘景、青河十郎を左右備えた。
左の横槍は諏訪部次郎右衛門行朝、水間掃部頭利宣とし、奇兵は、長尾七郎景宗、臼杵包兵衛、田原左衛門尉盛頼。
二番手は小田切治部少輔勝貞、荒川伊豆守義遠、山本寺宮千代丸(後の庄蔵行長)、吉江松之助定俊、直江新五郎実綱と定めた。
後陣は長尾兵衛尉景盛、北条丹後守長国、斎藤八郎利朝、柿崎和泉守景家、宇佐美駿河守走行、大国修理亮などの面々を七手に分け、四十九備えとしてそれを一手のように組んで円陣を作り、28日の夜明を目処に一戦を始めた。

武田軍敗北
武田方も十四段構えに備え防戦し、敵味方ともに多くの負傷者、戦死者を出した。下米宮橋を中心として、追いつめ、押し返して、昼近くまで合戦の勝負はつかなかった。しかし、越後方は千曲川の橋から上流を乗り越え、武田勢の後方にまわったので、武田方は敗れ、横田源介、武田大坊、板垣三郎など戦死、また駿河から応援に来た朝比奈左京進、武田飛騨守、穴山相模守、半菅善四郎、栗田讃岐、染田三郎左衛門、帯兼刑部少輔など名のある人々を含んで甲州方の戦死者は五千余りにのぼった。上杉謙信は12月3日、京都公方に大館伊予守が戦の経過を注進する。これが謙信と信玄との戦いの始めである。
この頃、謙信は長尾弾正少弼と号していた。関東管領の上杉憲政は北条氏康に圧迫され、越後に内通し、管領職と上杉の姓、憲政の一字を下されたが、管領職は辞退し、謙信は景虎を改め政虎と名乗るようになった。これは天文23年(1554)春のことであった。

見直される歴史認識

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<書籍「歴史研究」>

迂闊ながら、この本の存在を知らなかった。偶然ある本屋さんで見つけて読んでみて、参考になり、また歴史界の動向も理解できる書である。

 さてこの「歴史研究」(紹介写真)やその他の記事の中に、武田信玄や山本勘助にについての興味深い記述がある。

 安易に観光と結んだ山梨県の歴史家や関係機関にも一考を要する問題も含まれている。
中にはご苦労のことに、某歴史大家が創作した「勘助の北杜・韮崎伝承」の地を訪れて研究史された記述もあり、胸打たれた。

 在りもしない歴史を、伝説や伝承それに依怙地ともとれる思い込みで著した本や、それを後押しして便乗する多くの著作物の汚染がここまで波及するのである。

 NHKも視聴料金収集アップのために、観光誘導のテレビ大型ドラマをつくり、その主人公をその手立てに使うのは見苦しい。

 何もないところに寄って集って創作歴史を作り上げる。懸念すべき歴史家も大挙してこうした行為に上乗りする。

 さて話は戻して、山本勘助を貪った諸氏や観光行政は、紹介の「歴史研究」を熟読することをお勧めする。

 歴史は何人も創作してならない。史実の積み重ねが史実を構成することを、この本は示唆している。

http://blogs.yahoo.co.jp/denntukujp
 

山梨歴史講座 古代駒牽の行事について

 最初に朝廷の行事の中で御牧(勅使牧)に関係する駒牽行事について調べてみた。思っ
た以上に格式のあるもので息苦しささえ覚える内容である。序文でも触れたが甲斐の御牧
に於ても朝廷内の馬寮に於ても甲斐の人々が活躍していたのある。

駒牽行事・儀式の流れ(甲斐御馬)
  
 駒牽の儀式とは、御牧(天皇直轄の牧場)から奉納された馬を天皇がご覧、その後分配
する。左衛門陣に左近、右近府と左右馬寮の関係者が集合する。左衛門督が御馬解文(馬
の毛並み、数等を記入したもの)を検閲して主上に奏覧する。天皇が仁寿殿へ出御。牧監
と左右近衛府番長以下が馬を日華門より入れて、庭中を三回巡る。左衛門督の命により騎
乗して、七八回廻る。その後馬の分配。左衛門督臣が、左近衛府、左馬寮、右近衛寮、右
馬寮に分配する。さらに左右近衛中将、少将、左右馬寮頭助が一頭づつ取る。

御牧の概要

 『日本書紀』の天智天皇七年(668)七月の条に、牧を設置して馬を放った記述がみ
え、『続日本記』文武四年(700)三月の条に、諸国に牧地を定め、牛馬を放ったとあ
る。大宝令《大宝元年(701)》の厩牧令の規定によれば、牧場は垣根囲い、牛馬の逸
出を防ぎ、外部からの危害から守り、水草地を選んで選定し、全国の牧は兵部省管下の兵
馬司が諸国司が国内の牧を管理して、牧は牧長・牧帳を設置、その管理下の牧子が実務に
従事した。百頭を一群とし牧子二人をつける規定となっている。百頭につき六十頭の割合
で増殖することを標準とし、牧馬は四歳で子を生むものとした。また牧馬の用途として
は、乗用に耐えるものは当国の軍団に給付して軍馬とし、他の馬は雑用に使役したり、民
間にも払い下げていたようである。 他の資料も紹介すると、

  一、「年中行事障子文」《仁和元年(885)三月二十五日》

  八月 七日 牽甲斐国勅使御馬事。
  八月十七日 牽甲斐国穂坂御馬事。

  一、『西宮記』「改定史籍収攬 編外」巻八 《十世紀半ば成立》
   
  八月 駒牽事 付大庭儀 雨儀
 七日 牽甲斐御馬事
主当寮以解文進外記。外記申上卿。上卿以蔵人奏聞。不出御者。
於大庭分取如前。逗留延期之時。又可申解文。史申見参大弁。
大弁、申上卿奏聞。留御所。或被延期逗留之旨。

駒牽次
四歳以上天長格云。上野・信濃・各有牧監一人。甲斐・武蔵各別当。
交替式云。監牧歴六年。遷替准国司。

  八月 七日  甲斐真衣野・柏前卅疋。元五十。左主当。
十三日  武蔵秩父廿疋。右。
十五日  信濃諸牧六十疋。元八十。左。
十七日  甲斐穂坂廿疋。元卅疋。左。
二十日  武蔵小野〓疋。右。
廿三日  信濃望月廿疋。元卅疋。左。
廿五日  武蔵由比小川石川六十疋。元五十疋。立野廿疋。右。
廿八日  上野諸牧五十疋。櫪卅。繁廿。右。

 一、「年中行事」《賀茂氏人保隆所伝。永延元年(987)以降の成立》

  八月 七日  牽甲斐国真衣野柏前勅使神馬。廿疋。
 若逗留者、左馬寮進留逗留解文。留御前。
十七日  牽甲斐穂坂御馬事。廿疋。

 一、「師遠年中行事」《中原師遠著、〜大治元年(1130)卒》

  四月廿八日  駒牽事(小月の廿七日)
  八月 三日  牽甲斐国御馬事。
 七日  牽甲斐国勅使御馬事。御馬逗留解文事。甲斐勅使牧。
十七日  牽甲斐国穂坂御馬事。三十疋。
廿八日  牽上野国勅使牧御馬事。五十疋。

 一、「師元年中行事」《中原師元著、安元元年(1175)卒》

  四月廿八日 牽駒事。

 一、「年中行事抄」《建保二年(1214)五月七日の宣旨あり。それ以降》

  四月廿八日  牽駒事。清涼記。於南殿有此儀。
  八月廿八日  上野勅旨諸牧駒牽事。引進御馬之時。於南殿有此儀。

 一、「師光年中行事」《本云。文永元年(1264)九月廿九日。

以大外記。中原師光朝臣本染老筆畢》
  四月廿八日  牽駒事。近代不行之。貞観年中(864〜876)に始之。

 一、「小野宮年中行事」

  八月 七日 牽二甲斐国勅旨御馬一事。
十三日 牽二武蔵国秩父御馬一事。
十五日 牽二信濃国勅旨御馬一事。

 天皇解文御覽ノ後ニ南殿ニ出御アリ。御馬ヲ牽キ庭中ヲ周ル三回、若シ日暮レバ或ハ一
回シテ三度ニ及バズ。左右遞ニ之ヲ取ル、其数ハ馬ノ多少ニ随フ。八十匹ナレバ左右各十
五匹、六十匹ナレバ十匹、五十匹ナレバ六匹、卅匹ナレバ五匹。親王以下ニ給ル。左右又
進デ残馬ヲ取ル、或ハ相加エ先ズ御馬ヲ取テ鞍ヲ置テ前庭ニ於テ騎馳セシム、月華門下ヨ
リ日華門外ニ馳ラスコト延喜九年(909)ノ例也。今日若延期ヲ申シ他日牽進セバ、當
日早旦使ヲ遣シ、親王等ヲ召ス、雨儀ニハ御馬ヲ庭中ニ周サズ、又騎ラシメズ ヲ承門ノ
東西南廊ニ立テ、牽者壇上御馬ノ南面ニ在リ。云々


 他の資料もあるがおおよそ似通っている。こうした文献は豊かにあるが、甲斐に残され
た資料はなく、その貢馬を都に届ける道程や日数など通行や使用道路等の資料は少なくか
っての中央遺跡から発見を待つしかない。当時甲斐は東海道内の国として『延喜式』(9
27年)では国司などの使用する「諸国駅伝馬」の条には甲斐国駅馬として「水内−河口
−加吉」を経て甲斐首府へ入るように定められていた。しかし甲斐では古来より「加吉」
は「加古」の誤記であり、加古は加古坂に比定し、しかも中央から下る駅順を「水内−河
口−加吉」でなく「加古−河口−水市」の間違いとして定説化が進んでいる。なぜ駅順が
逆なのか、なぜ「加吉」が「加古」の間違いなのかはその根拠には言及されていない。
「嘉吉」は歴史研究者の避ける『宮下文書』の地図には明確に記載されている。「河口」
や「加古坂」の地名が『延喜式』が制定された時代に存在したのかは説明がなされていな
い。また研究者が避けていることがある。それは富士山の噴火と古道の関係である。噴火
の最中やその周辺の年代に京都往還に富士山麓の道を大切な庸調を運び、自然界の異変に
敏感な馬の通行に利用したのであろうか。多くの疑問がある古代古道は、曖昧なままに市
町村誌などや歴史書に史実のように紹介されている。
 さて御牧で育てられた御馬はその生産地を示す焼印を押す事になっていた。次にその資
料を示す。

 一、「烙印』《政事要略廿三》

   牧場烙印の数々………政事要略二十三云、
 八月十五日 牽信濃勅使御馬事。
   (○○此中有十五牧、左官字、諸牧六十、元八十)
   山鹿、塩原、岡屋、宮處、平井弖(出)、殖(埴)原、大室、猪鹿、大野、
   荻乃倉、笠原、高位。

   十七日 牽甲斐穂坂御馬事。  (左 栗字三十、令二十)
   二十日 武蔵小野御馬。   (右  字四十)(承平元年十一月七日為勅旨)
   廿三日 信濃国望月御馬事。  (延喜五年五月九日、官符左牧字二十、元三十)
   廿五日 武蔵勅旨牧竝立野牧御馬事。
  (是日分取御馬先取由比石川、
   小川等牧御馬畢、更次取立野馬)
   右官字五十、(後加、十)元十五。
   廿八日 上野勅旨御馬事。
   殿上侍臣竝小舎人隔年給之小舎人不拝、左小舎
   人牧ノ官字諸牧五十、(櫪三十、繁二十)
   利刈、(有馬、治尾、拜志、久野、市代、
   大藍、鹽山、新屋、封有、小栗田、平澤已上十
   四牧)
駒牽の動向については次の資料がある。

 一、「年中行事大観」《御本云、此本一条殿(1402〜81)兼家公御筆也。

 八月 駒牽。十六日に信濃の国勅旨の牧の御馬みやこへ入侍るを。あふさかの関へゆき
むかひて。これを受け取りて。大内の大庭にして。上卿など列立して、おのおのこれを給
り。あるひは院東宮などへまいらせるゝをば。近衛の中少将これをひかえてまいるを。引
分の使いといふなり。定家卿の又□わ□もち月の駒とよみ侍るも。引分の使をつとめし時
の詠也。
 又御馬逗留の解文を奏する事あり。それは御馬事のさはりありて。路に逗留して。その
日は京へまいらぬよしを。解文にして申事也。この月七日には甲斐の勅旨の牧の御馬逗留
のよしを申す。十三日には。武蔵秩父御馬廿疋逗留のよし申す。
 又十七日は。甲斐の穂坂の御馬逗留のよしを奏す。廿日にはむさしの小野の御馬逗留の
よしを奏す。廿三日には。しなのゝもち月の御馬逗留のよし申す。廿五日には。むさしの
立野の御馬逗留のよし申す。廿八日には。上野の勅旨の牧の御馬五十疋逗留のよし申す。
 ちかごろは十六日こまびき儀しき。かたのごとくおこなはれる。左右馬寮より一二疋た
てまつるばかりにて。さらにその実なし。此牧々の名所は。駒引の題などはいずれをかよ
み侍るべきなり。


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