山梨歴史博物館

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烏亭焉馬の『市川家家譜』によると、

 代々甲州の武士で、永正年間(1504〜20)に北条氏康の家臣になり、天正にいたって小田原没落後、下総國埴生郡幡谷村(千葉県成田市幡谷)に移り住み、重蔵の代にな
って市川に移って郷士となり、江戸初期の慶安、承応(1648〜55)のころ江戸に出たという。 

『山梨県人物博物館』には

 この初代団十郎の父が堀越重蔵、祖父の重左衛門、曾祖父の十郎家宣は共に甲斐武田家 の一門、一条信龍の家臣であった。堀越十郎については、永禄十二年(1569)の相州三益峠の法条氏との戦いで手柄を挙げたことが感状(戦功を賞した文書)として残されて いる。
 堀越一族は天正十年(1569)三月、主家の滅亡後、相模に逃れ、さらに下総国旙谷村(千葉)に逃れた。 

 三珠町の「歌舞伎会館資料」は、

 この地は武田信玄の異母兄弟一条信龍が富士川沿いに攻めてくる敵を迎え撃つために上野の地に城を築いた。その家臣に武田信玄の能の師匠をしていた堀越十郎家宣がいた。武  田勝頼公が織田・徳川の連合軍に敗れ、勝頼公が自刃、一条信龍も自害する。そして堀越十郎家宣は一宮の石原家に家系図を預け、一族ともども代々信仰していた不動尊をたよりに下総国(千葉県)成田方面に逃れ住み着く。

 焉馬の『市川家家譜』では、初祖は永正年間にすでに甲斐を離れている。永世年間といえば、武田信虎の時代であり、大永元年(1521)には信玄が生まれている。よって初祖は甲斐に生まれたが武田家の家臣ではなかったことになる。武田家の家臣を幾ら探っても「堀越」を姓とする武将は居ない。山梨県には「堀越」の地名も存在していない。「歌舞伎会館資料」の、堀越十郎家宣は一宮の石原家に家系図を預け、一族ともども代々信仰していた不動尊をたよりに下総国(千葉県)成田方面に逃れ住み着く。の下りは史実と言うより創作色が強く感じられる。こうした事象が若し事実であれば、その根拠となる史料の提示が欲しい、その資料の信憑性を確認したい。
 多くの人は単純に、「市川団十郎の初祖は市川大門の出身である」と思っているのではないか。三珠町に近接する市川大門町と団十郎の関係はないのであろうか。
 さらに言えば武田信玄の能の師匠に堀越十郎家宣という人物が居たことも史料には見えない。 また一条信龍の家臣だったとの記述も論拠を持たない説と思われる。適切で有効な史料の出現が待たれるところである。

 『俳優世々の接木』による市川團十郎は

  本国 甲斐
   傳ニ曰、先祖は甲斐市川村ノ産にて其子重蔵ハ下総國佐倉領幡谷村の郷士と成苗代をつぐ。□農堀越氏といふ。 (『市川團十郎代々』服部幸雄氏編)

 このほうが史実のように聞こえるがいかがなものであろうか。    

 団十郎が記載されている著書は多く見られる。

▽ 『明和伎鑑』…… 明和六年(1769)

 元祖市川團十郎、三ケ津立役の開山。才牛。下総國佐倉の住人。幡谷村(一本成田)。堀越某カ男、幼名海老蔵。
(『市川團十郎代々』服部幸雄氏編)

▽ 「團十郎の家紋、三升」

 市川團十郎の定紋。米を計る升の大・中・小三個を入れ子にして、上から見た形を図案 化したものである。
 一説に、初代團十郎が不破伴左衛門の役の衣装に使った稲妻の模様から転じたとも伝える。(『役者名物袖日記』)
  
 また、團十郎の祖先は甲斐國東山梨郡市川村の出身とする説を踏まえ、この地方の升は「甲州の大升」といわれ、一升が普通に升の三升に相当するほどの大きさからヒントを得  たという説もある。正確な由来はわからない。(『市川團十郎代々』服部幸雄氏編)  ここで、市川家家系について記述し本人も談洲桜と名乗って、団十郎と無二の親友であった烏亭焉馬について調べてみた。

▽ 市川家に関する伝記の作者、烏亭焉馬 

  『江戸時代おもしろ人物百科』 
   寛保三年(1743)に生まれる。
 
 本名は中村利貞。字は英祝。通称和泉屋和助。別号立川焉馬。談洲桜。桃栗山人柿発斎。本所に住む大工の棟梁だったので、狂名は鑿 言墨金という狂歌師であり、洒落本、黄表紙、合巻などの戯作もあり、五代目市川団十郎と義兄弟になって戯作にも手を染めた。落語は彼の余戯であったが、天明六年(1786)四月十二日、大田南畝、鹿都部真顔の協力をえて、向島武蔵屋方で噺の会を開いた事が契機となり、以後も文人達の協力で再三噺の会をひらき、噺本も刊行して、鹿野武左衛門以後絶えていた江戸落語中興の祖という役割を果たした。

 主著は演劇史『歌舞伎年代記』、洒落本『客者評判記』、噺本『喜美談話』『詞葉の花』 『無事志有意』など。文政五年(1822)六月二日に没した。享年八十歳。

▽ 市川家に関する伝記の作者、烏亭焉馬

  『江戸文人おもしろ史話』杉田幸三氏著

   年80歳。江戸出身。寛保三(1743)〜文政五(1822)
 本所の相生町にいた大工の棟梁和泉屋和助が通称である。五世団十郎と仲がよく、団十郎の名をもじって「談洲楼」という号がある。
 父の職を継ぎ大工の棟梁となった。が、どういうもか自宅では木綿製の足袋を売っていた。大工の棟梁からきた狂号を「鑿 言墨金」( )と称した。
 相生町の家は、上り口から六尺四方の三升(三升とは紋所の名。大・中・小三個の升を入れ子にし、上から見た形を図案化したもの。団十郎の家紋として有名)形。上部には、五世団十郎が男之助に扮した時の上下でつくった揚幕を垂らしていた。
 さらに二階に二室あったが、畳に三升の模様を織り出し、一室の天井は同様、三升形の網代天井とし、障子の骨まで三升だった。
 また襖や畳の縁を見ると、団十郎の十八番の暫に着た柿色の素袍を使っていた。それでいて、洒落本、草双本、笑話作家なのである。云々
   
▽ 市川家に関する伝記の作者、烏亭焉馬  

   『歌舞伎の世界』「象引考證」服部幸雄氏著

 烏亭焉馬が熱烈な五代目団十郎の贔屓で知られ、義兄弟の契りを交して、談洲楼(だんじゅうろう)と名乗ったほどであったことを、改めて言うに及ぶまい。馬(焉馬)の守護神である猿(五代目は俳名の文字を白猿と改めた)の民族についての知識も、両者の関係の親密さを物るもののように思う。
 焉馬は「花江都歌舞伎年代記」を編纂する一方、天明九年(1789)刊の「江戸客気団十郎贔屓」を端緒として、寛政四年(1792)刊の「御江都錺蝦」から文政元年(1  818)刊の「以代美満寿」に至る、いわゆる「白猿七部集」を次々と編集し、出版した。これらの書を検すると、焉馬が早い時期から、市川団十郎代々の当り芸を抜き出して紹介  しようという意識を抱いていたことがはっきり見てとれる。云々

▽ 『明和伎鑑』……「筑波大学図書館所蔵」

   『市川団十郎』内掲載。西山松之助氏著  市川家
   元祖市川團十郎三ケ津立役の開山
   才牛。下総佐倉の住人。幡谷村(一本、成田)
   堀越某の男。幼名海老蔵。居宅、深川木場。

 

<歌舞伎会館の建設にあわせて創られた歴史>
<なぜ山梨県の歴史学者は頬かむりするのか> 


 ……市川團十郎…… 『俳優世々の接木』
 本国 甲斐
 傳ニ曰、先祖は甲斐市川村ノ産にて其子重蔵ハ下総國佐倉領幡谷村の郷士と成苗代をつぐ。□農堀越氏といふ。   (『市川團十郎代々』服部幸雄氏編)   

 ……『明和伎鑑』…… 明和六年(1769)
 元祖市川團十郎、三ケ津立役の開山。才牛。下総國佐倉の住人。幡谷村(一本成田)。堀越某カ男、幼名海老蔵。
(『市川團十郎代々』服部幸雄氏編)

 ……團十郎の家紋、三升……
 市川團十郎の定紋。米を計る升の大・中・小三個を入れ子にして、上から見た形を図案化したものである。
 一説に、初代團十郎が不破伴左衛門の役の衣装に使った稲妻の模様から転じたとも伝える
  (『役者名物袖日記』) また、團十郎の祖先は甲斐國東山梨郡市川村の出身とする説を踏まえ、この地方の升は「甲州の大升」といわれ、一升が普通に升の三升に相当するほどの大きさからヒントを得たという説もある。正確な由来はわからない。  
(『市川團十郎代々』服部幸雄氏編)

 初代市川団十郎の祖は甲斐国の出身とされているが、その史実を示す資料は少なく、その信憑性は一考を要する。初代団十郎の祖についてはじめて語ったのは、五代目の友、烏亭焉馬である。
 不詳であっても著名な人々が史実のように、繰り返すことで史実擬きが、何時の間にか史実として人々に伝わる事は歴史には多くみられる。この拙著は長年の調査資料から市川団十郎の初祖を中心に論を展開していく。浅学の為一部誤字脱字や語釈もあると思われるが、その辺は適切に正していただきたい。また団十郎の資料をお持ちの方は是非ご連絡をいただきたい。
  
  市川団十郎についての調査報告

 かの有名な千葉県成田山新勝寺の案内文によると、

 ……成田山新勝寺の案内文……
成田屋の屋号を名乗る市川團十郎は、代々、成田山とは深くて強い縁で結ばれていま
す。初代市川團十郎は江戸時代の万治三年(1660)に生まれたが、その父堀越重蔵 は下総国埴生郡旙谷村(成田市旙谷)出身でした。今でも成田市旙谷の東光寺の墓地に は、二代目が建てた初代団十郎の碑があります。

 また初代市川団十郎の墓地については、次の記述がある。

 ……市川團十郎の墓地……
常照院はかって歌舞伎の名門である市川團十郎の菩提寺であり、当家の墓所がありました。初代團十郎が刺殺という不慮の死を遂げたのは元禄十七年(1704)でした。 
 いかなる縁かその遺骸は、徳川将軍家の菩提寺で芝増上寺の子院である当常照院に葬られました。現在も三升の紋の香合、五代目が寄進した七代目が修理した一対に唐金(銅)の灯籠、そして七代目文政元年(1818)に贈った石の手水鉢などがその歴史を語っ  ています。八代目團十郎は大阪で自害し、やはり浄土宗である大阪の一心寺に葬られ、常照院には遺髪が納められたそうです。
その後時代は明治に移り、市川家の復興をはかった革新的な九代目の團十郎は神道に 改宗、明治三十六年(1903)に亡くなりました。その墓地は神武となり公営の青山霊園に建立されました。以後市川家は神道となりました。
そして大正十二年の起こった関東大震災の被害により寺院の移転、墓地の改修など相 次ぐなか、常照院も墓地の整理改修をすることとなりました。そのため、昭和九年(1934)にそれまでの市川家の墓地も青山霊園へ移転改葬されました。
 と記している。

 市川団十郎の祖について『山梨県「人物」博物館』は次のように記す。

……五代目市川団十郎……『山梨「人物」博物館』江宮隆之氏著
   市川団十郎は江戸歌舞伎の盟主とされ、平成四年(1992)まで十二代を数える。屋 号を成田屋といい、初代団十郎は延宝元年(1673)九月、十四歳で初舞台を踏んだ。  荒事と隈取りの創始者である。
   この初代団十郎の父が堀越重蔵、祖父の重左衛門、曾祖父の十郎家宣は共に甲斐武田家 の一門、一条信龍の家臣であった。堀越十郎については、永禄十二年(1569)の相州  三益峠の法条氏と戦いで手柄を挙げたことが感状(戦功を賞した文書)として残されてい る。堀越一族は天正十年(1569)三月、主家の滅亡後、相模に逃れ、さらに下総国旙  谷村(千葉)に逃れた。
 ここから初代団十郎の父重蔵が江戸に出て町奴などともつき合うようになる。 
 (略)寛政三年(1791)四月、五代目団十郎は初めて父祖の地甲州に入る。(略)こ  れが初の地方興行となった。五代目団十郎は寛政四年(1792)にも甲斐を訪れている。 (「甲府町年寄御用日記」)寛政五年(1793)六月、七年(1795)六月にも甲府にやってきている。

 これによれば、その家系は、

 曾祖父堀越十郎家宣−祖父重左衛門−父重蔵(十蔵)−初代市川団十郎となるが傍線についての確かな資料が提示されていない。
 市川家は現在まで血脈で繋がっているわけではなく、服部幸雄氏著『市川団十郎代々』によると、
初祖団十郎(本姓堀越)
   −二代(実子)
   −三代(養子/三升屋助十郎の子)
   −四代(養子/庶子)
   −五代(四代の実子)
   −六代(養子/庶子)
   −七代(養子/五代二女、すみの子)
   −八代(長男/すみの子)
   −九代目(五男(妾、ための子。堀越秀)
   −十代(養子/前名、五代市川三升。堀越福三郎)
   −十一代(養子/七代松本幸四郎長男。堀越治雄)
   −十二代(長男。堀越夏雄)
 とあり、堀越姓は一代、二代、……九代、十代、十一代、十二代で途中代には見えず、血脈も途切れているのである。
 また三珠町のシンボルとして建設された「歌舞伎会館」のある市川團十郎発祥の地三珠町は、ホ−ムペ−ジ『甲州勤番風流日誌』によると、
  この地は武田信玄の異母兄弟一条信龍が富士川沿いに攻めてくる敵を迎え撃つために上野 の地に城を築いた。その家臣に武田信玄の能の師匠をしていた堀越十郎家宣がいた。武田  勝頼公が織田・徳川の連合軍に敗れ、勝頼公が自刃、一条信龍も自害する。そして堀越十 郎家宣は一宮の石原家に家系図を預け、一族ともども代々信仰していた不動尊をたよりに  下総国(千葉県)成田方面に逃れ住み着く。   その孫の重(十)蔵は弟に田畑を譲り江戸に出る。

 とあるが、傍線の
  堀越十郎家宣は一宮の石原家に家系図を預け、一族ともども代々信仰していた不動尊をた よりに下総国(千葉県)成田方面に逃れ住み着く。のくだりの信憑性はいかがなものであろうか。
 『山梨県地名辞典』には三珠町及び市川地方に堀越の地名は見えないし、「武田信玄・勝頼に於ける家臣団」や一条信龍の家臣をいくら調査しても、堀越姓の人物には行き当たらない。 『江戸時代おもしろ人物百科』によれば、初代団十郎は、万治三年(1660)、江戸和泉町に生まれ、父は下総国埴生郡幡谷村の農民だったが、江戸に出て地子総代を勤めた堀越重蔵(十蔵ともいう)。延宝元年(1673)十四歳の初舞台に坂田金時の役で「荒事」を創始したと伝えられる。とある。

 一、仁科五郎   一話一言(大田南畝)
 天正十年二月穴山梅雪逆心に付勝頼も諏訪を引取織田城介信忠卿は仁科五郎信盛の籠候高遠の城へ御取詰奥沼原に御馬を取立使僧を以て仁科五郎降参仕候へ其子細は武田家人大半逆心仕候間勝頼滅亡近日に候各誰が為に城を持候はん哉早々降参尤と被仰遣仁科五郎小山田備中則御使僧の耳鼻をそぎ追返し一戦可仕旨返事也城介殿御せき候て高遠城を一時攻に攻取玉ふ小山田備中切て出城介殿を目がけ討取んと数度仕候へども不叶引て仁科五郎と備中守渡辺金太夫春日河内守原隼人金福又左衛門諏訪庄右衛門以下十八人大広間に取籠り死狂に相戦中にも年頃三十五六なる女房緋威の具足に長刀を抜て水車に廻し諏訪庄左衛門が妻と名乗て七八人なぎたほし其後自害する大広間は七間に十二間の家なり是に取籠り候故寄手も攻あぐむ城介信忠は浅黄金襴の母衣かけ玉ひ広間の前の塀に御上り候塀に沿て桐の木あるに取付ざいをふり身をもんで御下知被成遂に仁科五郎小山田備中せい盡て自害する高遠落城の四日目に見物せし人は被語候は彼大広間天井も柱も鑓跡太刀跡さては血に染り明所なし庭に残雪ありしが血かゝり紫雪になりたり地下人ども掃除に来りて居る其者ども申候は是なる塀の上に城介殿御上り左の御手にて此木とらへざいを御取被成候小山田備中も仁科五郎殿も城介殿を見しり七八度も切てかゝり候其時太刀跡鑓跡にて候いふ城介殿御取付候桐の木にひしと疵あり扨広間に二間の大床あり張付のから紙あり血腸なげ付指の跡四筋血にて一尺計も引て見ゆる地下人に尋候へば大将仁科五郎殿此床に上り自害腸を抓んてから紙へ打付手を御拭候其指の跡と申候仁科殿は年十九にていまだ前髪ある勝たる御若衆にて候と語る扨天井をみれば鉄砲の玉の跡いくらといふ事なし是を尋れば答て曰仁科五郎さすが信玄公の御子なればつよく御働小山田備中をはじめ十八人狂廻り討かね候故森勝蔵殿の衆屋根へ上り板をまくりて上より鉄砲ずくめに仕候と語りたり後勝蔵一手の衆を高遠の屋根ふき士と異名に付て笑ひしと也。

 一、覚、南部先祖  嘉良喜随筆(山口幸充)
 南部先祖ハ皇孫にて人王五十六代清和天皇より始まり、其苗裔新羅三郎義光、其子刑部三郎義清、甲州に居住仕、家名武田與申候。其子清光、其次男加々美次郎遠光、其子三郎光行、或は信濃三郎共申候。是当家之先祖に御座候。
一光行事、甲州巨摩郡知行仕。同郡南部に居住仕候故、家名を南部と申候。一文治年中奥州合戦之時、光行軍功御座候に付、従 右大将頼朝 、奥州之内糠部以下之数郡恩賞に被レ行、依レ之甲州より下向仕候。当年迄五百五十餘年代々領知仕候。一家幕紋割菱に御座候。其後鶴之吉端之故有之、双鶴之紋用申候。
一光行より当時修理大夫迄三十三代にて、代々血脈を以系統相続仕候。右の通御座候。先祖より代々持傳候系図、数百年之事に御座候得ば、殊之外虫ばみ、文章難 見合 御座候に付、今度書替仕度奉レ座候。云々

 一、新羅義光   烹雑の記(滝沢馬琴)
 鳥羽天皇の天仁元年戊子春二月、源ノ朝臣義綱を、佐渡国へ流す。舎弟義光に誣(しひ)られ、無実の罪を得たればなり。


 一、信玄碁石金   茅窓漫録(茅原定)
 (前略)甲州には信玄碁石金といふあり。一分金は碁石金に傚にやあるべし云々。〔割注〕碁石金は甲陽軍艦に出たり。圖録に露金を出し、此ノ類なるべしといへり。圓形なり。

 一、いぐち   一話一言(大田南畝) 缺唇に勇士ありといふ事をかたる人の曰、(中略)武田信玄に山懸三郎兵衛昌景(中略)いぐちなり、いつれも大剛の士也。

 一、三駿河   一話一言(大田南畝)
 越後上杉謙信家老宇佐美駿河守定行、武田信玄内加藤駿河守、安芸毛利輝光臣吉井駿河守元春是三人也。

一、下御霊社司板垣民部談   遠碧軒記(黒川道祐)
 (前略)さて社家は代々春原なり(中略)これが中絶の時に甲斐の板垣信方の子、(信方は病死、子の彌次郎者為 信玄 被レ害て跡絶ゆ)同彌次郎が遣腹の子が、母とも京に流れ落て後は丹波に閑居す。この子成長して南禅寺の少林寺へ遣し、出家して正寅と云。これを室町より肝煎してをとして社司とす。これが中比の社僧寿閑の親なり。云々

一、馬場三郎兵衛 閑憲瑣談(佐々木高貞)
(前略)實は本国は三州、生国は甲斐にて、即ち物奉行馬場美濃守が妾腹の末子、幼名三郎次と申す者にて候、領主(信玄)逝去の後、世継ぎ(勝頼)は強勇の無道人、其上、大炒、長閑の両奸人、国の政道を乱し、諸氏一統疎み果候始末は、甲陽軍艦に書記したる十双倍に御座候。されば□(長篠)の合戦の節も、先主以来の侍大将ども、彼是の諫言を一向用られず、美濃守を始めとして覚えの者ども大勢討死。夫より段々備えも違ひ、終には世継も滅亡致され、其頃私は十歳未満の幼少故に、兄にかゝり罷在候へども、甲州の住居も難レ叶、信州に母方の由緒有レ之故、玉本翫助が末子、八幡上総が甥等申合 、三人ともに、信州に引込、往々は中国へ罷出、似合敷奉公をも仕らんと、年月を送り候所へに不慮難波鎌倉鉾楯にて、難波籠城是天の与えと手筋を以て間も無く城中へ召出され、千邑繁成が組与力となり、云々

 一、武野紹鴎       鳴呼矣草(田宮仲宜) 
武田印旛守仲村は、武田信光の裔なり。退隠して武野紹鴎と云へり。家宅は戎の社に隣し故、大黒庵と自称す。其滑藝見つべし。

 一、奇人(かたわ)   齋諧俗談(大朏東華)
 相傳へて云、甲斐の武田信玄の家臣山形三郎兵衛は兎唇なり。山本勘助といふ人は眇な
り。云々

 一、孫子旗   昆陽漫談(青木昆陽)
 甲州萩原村雲峯寺に、武田信玄の孫子の旗あり。その旗左の如し。
 孫子の旗長さ壹丈壹尺六寸、幅二尺三寸。疾如風。徐如林。 侵掠如火。不動如山。
と云ふ文字ありて、紺地文字金銀なり。   
 諏訪法性の旗、長さ壹丈三尺五寸、幅尺五寸、南無諏訪南宮法性上下大明神の文字あり。赤地文金銀なり。日丸花菱の旗もあり。赤地。紋黒。

 一、賜一字   昆陽漫談(青木昆陽)
 先年甲州よ出だせる書に、一字を賜ふときの書あり。其文左の如く。
   實 名
  君 好 
  天正四年丙子七月六日   信君 判
 これは武田信君と云へり。

 一、武田番匠   秉穂録(岡田挺之)
 通志に、今之庸俗以ク船輸善揄レ材。凡古屋壮麗ナル者、皆曰魯船造ルト。殊不レ知、船為 何代之人 と、此士にも、飛騨の工、武田番匠が建たるといふ事多し。似たる事なり。

 一、悪瘡解  嘉良喜随筆(山口幸充)
 (前略)
 右論弁甲斐国小笠原住人大醫法眼柿本之述作也、門弟親聴謹書 諸冊後 。

 一、近衛殿姫甲府へ御祝言の道具の内、
 嘉良喜随筆(山口幸充) 
 衣架、机帳、鏡、二階棚、二階、火取、□(ハンサウ)、  香辛、硯、料紙箱、筆持セ、亂箱モ木地、見臺
 (各説明、図有り)
  近衛殿姫君、甲府ヘ婚礼ノ時、品川ヘ御着ト、公方ヨリ乗
物並傘ヲ遣サル。江戸入ノ時、右ノ傘ヲ乗物ノ上ニサシカクル。云々

 一、穴山梅雪  嘉良喜随筆(山口幸充)
 (前略)扨穴山梅雪ハ、勝頼ヲ叛テ家康公ヘ與シ、甲府ヘノ手引ヲセント云、夫ヨヲ信長御聞、穴山ガ分ニテ無 覚束 トテ承引ナシ。モハヤ甲府ヘハ不レ被レ帰シテ、家康公ヲタノミツキ従ヒ、堺ヨリ牧方迄御出、横ニ御キレ、八幡ノ南海道ヘ御通ノ時、穴山コト家康公ヲ疑ヒ殺サンカト思ヒ、跡ニ下ル時ニ、庄屋モ子ヲ案内ニツルル。此子銀ツバヲサス。関東者ニテムゴキ者ドモニテ、穴山ガ下人是ヲ殺シテ鍔ヲトレリ。此子供ノデツチアリテ、主ヲ殺タヲミテ、イバラグロヲクゝリテ家ニ帰リ是ヲ告グ。一在所一揆ヲ起シテ穴山ヲ殺ス。此内ニ家康公ハ、ハ
ヤ草内ノ渡ヲ御越也。此渡ヲ御越ナクバ、家康公モ危カラント也。

 一、甲州判  嘉良喜随筆(山口幸充) 扨甲州判ト云ハ、関東ハ古ヨリ金子ノトリカヒナリ、上古ハスナガネニテ、交易、コレヲ砂金ト云、信玄ノ時領内ニハ甲州判ト云ヲ拵ユ。云、是ハ金ヲ銀子ノ豆板ノ如ニシテ、二部三分一匁二匁マデ段々アリ。其後家康公駿河州判ニ御座ノ時、今ノ一歩出来テ、甲州判は止ヌ。


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