山梨歴史博物館

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  一、飯富兵部、信玄へ目安を捧ぐ  半日閑話(大田覃)
 飯富兵部少輔信縄は武田信玄に仕へて恩顧を蒙りしが、後に命を背て殺害せらる。飯富が信玄に捧る所の目安とて、今に相傳ふ。左に載て好古の士に示す。
 一、謹て申上候。山羅利源太左衛門義、去々年以来、馬場、内藤、高坂を以て御訴訟申上候通、彼源太左衛門義不届之義兎角可 申上 様も無 御座 、雖レ然者祖父より信虎様へ御奉公申上、度々盡粉骨一命も不可在 勝計 候。源太左衛門御救知の前、芦沢韮崎諏訪にても忠功為レ仕者の事に候間、一度は御免被成被下候様に、去々年より申上候。其上彼者親々某にも御対し御赦免候はゞ、忝可公存候趣申上候共、御承引無 御座候。従 先祖 持来候八代郡の内早澤村、山梨郡の内岡村を被 召上 林田に被レ下候。不及是非 御意□に奉レ存候。
八カ年が間に某申上候事は御取揚も無御座失面目申義度々御座候、いか様の御悪みにて御座候も覚悟不レ仕、五三年は某一門の者共小過之義にも御取消被成候。御恨可 申上 義には無 御座 候得共、某数年御奉公申上候筋目にも御対し被レ成可被下儀と奉レ存候事。
 一、可 申上 儀には無 御座 候得共、信虎様駿州へ御越被レ成候儀も、皆拙者覚悟を以てと奉レ存候。其刻信虎様御恩賞之者共一身仕御願可申上と申候節、某晝夜到工夫 、或は遂 成敗 、或は遂追放 、或は御救官に異議なく申なし、一圓に平均仕候義、恐くは某奉公の専一にて候。其段思召忘被成まじと奉レ存候事。
 一、信虎様駿州へ御越被レ成候様子に付、弟惣一郎を以、色々御懇意の御書類下候。すこしは其忠をも被 思召 可被候事。

 一、近年老の仕合共に候間、御願被成候與力同心差上申度旨、馬場以申上候得共、戦国之内御免被成間敷と御内意之旨に候間、申上候事無用と達て申に付、今に御奉公申上候事。
 一、隣国御働之節、御先を仕り強敵と数度防戦仕候得共、一度も総角を見せたる義無 御座 候に付士之覚悟命を塵芥よりも軽じて御奉公を遂申も、五度に三度は御眼前に候間、御失念も被レ成間敷と奉存候。某愚案短才之義は御存の前に候間、是非を御免被成御奉公仕候様御下知奉仰候。是等の趣可レ然様に御披露頼入候。恐惺謹言。
 九月二十一日    飯富兵部信縄
進上 土屋右衛門尉殿 御披露

 信玄より返簡、曰

 一、由羅利身上之儀難申段聞届候。源太左衛門も三代の奉公人、其身こゝろばせ遠廻り無失念候。
永禄元年之秋、荻田大膳企逆意北条氏繁と申合、其信州へ働き候跡へ氏繁を會坂口より引入、既に甲州へ可押入と企候を聞出し、右之荻田が在所井尻村へ原美濃守、多田淡路守両人を遣し夜込に紛討果候き。荻田弟恵林寺は近辺に隠置き、源太左衛門夜中に連出し、関東に落し申段。目付横目之者共某に申聞候間、即時に可遂成成敗 候處、其方如レ申親より代々忠節の者たるによって、一言之沙汰無之立置候。去々年信濃和田を成敗の刻、依レ為 知音 成敗仕義を心得、其子に早く知せ越後へ落し候事不及是非候。重々の誤りに在レ之候間、成敗可申付 事に候得共、其方眼前の者といひ、祖父親の忠節に対し命を助け、坂を越させ候事、信玄裁許誤有レ之間敷候。
 一、信虎駿州へ遣申義、我等若輩より其方信形両人を指図を得候事少しも無 失念 候。但し、其形対 信玄 奉公之節には、東郡にて五千貫、逸見郡にて三千貫、都合八千貫領地を遣し、信州手に入る刻、諏訪にも五千貫づゝ其方と信形と令 扶助 候。年来奉公之一筋は無 失念 所可レ被レ存候事。
 一、其方婿南部壹岐守、信玄にも従弟にて武道さして悪敷仁にても無レ之といへども、分別もなく思案もなき戯者にて、其小姓の内悪口者共と同意致し、山本勘助を悪敷沙汰仕、何の役にも不レ立者を信玄尊敬致す様に申なし候事。万一信玄に面目を失せ申す道理なり。南部如レ申に小幡山城、原美濃などより勘助場数は抜群内の者あり。雖レ然敵の形備上用捨善悪を知り、其上他国の軍立万事武士道暗き事なし。是を弓箭をの道を知る士といふ由、山城美濃も勘助を□申も道を能知故なり。武士道の是非を知たる士を悪口仕、武士道無穿鑿にして口まかせ過言を吐事非 武士道、左様の国賊を家に不レ可レ置とおもひ追放するものなり。彼が非は其方も能可レ存事。
 一、其方信州關木にて我等先を仕強働候段、慥に信玄見届候所なり。然といへども方便強弱の心なくしては、強敵には不レ勝者なりといふ事名将の掟なり。其方先年芦沢奥の山家へ働候節□番を以て深く不レ可レ働引取かへ敵□形如レ是、其後は二ノ目の合戦仕、物のよし常に彼らによって□番の者を三度迄遣し、引取り候へと下知なすといへども、例の勘助流の臆病方便を申候と□番に悪口し、指図に応ぜず深入し、喰留められ退く事難レ成、其方備に付置候態引、鹽塚、木田、八代、唐柏等の者共迄にて、其方も深手三カ所を負ひ、漸引退候得共敵際迄したひ、半途にして身体究り候刻、信玄が方便を以て多田淡路守、原隼人、すこやかなる若者差添遣し脇箭を射させ、無レ恙引取候事、定て忘有間敷事。
 一、上之諏訪、下之諏訪と海辺にて頼重と戦ふとき、□番を以強ふ可戦、地形廣し二之手を以可勝場所なり、軽々と会釈し、右之方へ引上候へと度々申遣候得共、其指図にも応ぜず、強きを以て第一として、敵の方便に乗り、追掛切崩し押行候所に、頼重思圖に引入れ、かくし置たる二の新手を以切掛り、其方備を急に切崩し、追討に
  板垣横筋違におめいて懸るを見て、諏訪衆足並を乱し敗軍する所を、板垣が先駆の者追懸り敵を二三百討取候。其方は手之者七十三人、歩の者五百餘討せ、敵を六十五人討取負軍して帰たる義失念在間敷候。右之様子身に取ながら、信玄が方便工夫一圖に弱きと申候よし聞候といへども、先忠に対し其上強き計りを能と知、勝取る道を知ざる者と兼て思ひ、脇の者に諷せて色々申聞候得共無 同心 候。依レ之信玄が軍法と其方軍立とは格別なり。談合といふは大形似たり似たりの心にてこそ首尾する者なり。其上皆其方を一騎合の葉武者と存るとは、何事に付ても我等同心無レ之者なり。雖レ然此上は今迄の覚悟を捨、信玄が采配を守り、指図に応じ一命をち、戦功を励まれ候はゞ、全く非疎意候。能く可在分別者なり。委細、右衛門尉口上申含候者なり。
 信  玄
  飯富兵部少輔殿

  一、曲淵勝左衛門由緒書   半日閑話(大田覃)
○高祖父勝左衛門吉景、武田信虎より勝頼迄奉公仕、甲州武川と申す谷へ住居す。天正十年勝頼生害後、先方侍扶助信長停止に候共、神君武川之者共一同に御扶助被下、忍て遠州相良辺に罷座候處、同年六月信長生害有之、甲州之国主無之、北条家より種々計策有候得共、武川之 共同心不仕、神君御進発に依て馳参、新府中御着陣之刻一同に被召出候。御出馬以前信州境小沼之小屋迄落し走廻仕候。
○北条御対陣の時、若神子口にて敵を物見可レ仕旨被 仰出 、
吉景並び彦助差物にて相圖仕、物見首尾能甚預 御感 より、武辺之模様無比類、彦助父に不劣との蒙上意候。
○曾父勝左衛門正吉(始め名彦助)、父一同ニ被召出、甲州御発向之節、諏訪安芸守籠城に付、大久保七郎右衛門、柴田七九郎、武川者ども為案内被差向、即時に城際に取詰候時、安芸守使を出し、城内掃除致し明度可申旨に付、両将人数引上可申様之時正吉申候は、場所難所え城より喰留候事可有之申候得ども、武川衆を可存候哉、殊に小敵何事かあらんかと村々に引取候、案の如く城兵突出急に喰留候。武川の者取っ返し、城下音骨と申す處にて、何も敵を討取、城兵を追込、惣勢も備直し申候。

  一、兼信秘蔵の太刀   煙霞綺談(西村白鳥)
 兼信秘蔵の太刀三腰あり。赤小豆粥といふは三尺壹寸、鎌倉行光が作なり。川中島にて信玄と太刀打の時の太刀なりとかや。(中略)二度目の川中島夜戦に、甲州方の輪形月とかやいふ者を二太刀切付たるに、鎧かけて切先はづれに切付、あまり太刀にて輪形が持たる鉄砲に見当の上をはすに切落したるも、竹股兼光なりしとかや。云々

  一、武田信玄   煙霞綺談(西村白鳥)
 (前略)往前元亀三年春、甲州武田信玄遠州に出張し所々を攻撃し、それより三州に打越、吉田の城を襲、此時吉田の城には酒井左衛門尉忠次守り居たるが、無勢にして 難レ拒城殆危 。ときに地士林十右衛門景政といふ者あり。此者射術に達し、遠三の間に弓の弟子大勢あり。城危きによって彼弟子共大勢引き連れ、飽海口に出てふせぎ 放矢如雨脚(あめのごとし)依
之甲兵隕命者居多(こうへいめいをおとすものそこぼこ)にして辟易し、信玄遂に振旅して皈甲州、(こうしゅうにかえる)次甚感喜あり。此由来を以て射術を励むと云ふ。云々

  一、六郷の橋   柳亭筆記(柳亭種彦)
 (前略)『小田原記』永禄九年武田信玄小田原に人数少なき隙をうかゞひおもひよらざる方より小田原へ押し寄せるといふ條に、「橋を焼き落として甲州勢を通さず。信玄品川の宇多河石見守鈴木等を追散して六郷の橋落ちければ池上へかゝり」とあり、この時橋を焼き捨てし事のあれば、北条家の盛りなりし頃そめしにや。云々

  一、誰やらのはなし   八水随筆 著者未詳
 予がしれる大井佐太夫殿の申せし御方、甲州の族にて、花菱を紋とす。此家に勝頼の備前徳あり。先祖の器とては是ばかりなれども、用なしとてわらはれぬ。

さて武田信玄の亡き後、頑張った勝頼(かつより)ではあったが、多くの近臣武将の裏切り似合い、織田軍に追われ、天目山で若き生涯を閉じた。勝頼の死については諸説るが、どれも地域贔屓の説ばかりで的を得ない。また近臣の裏切りを末期とする説が多いが、穴山梅雪の裏切りは定説よりはるかに遡るものであり、勝頼が韮崎新府城に城を築いていた頃は、既に武田滅亡のシナリオは出来ていた。やがて徳川家康に仕えた人物の多さと仕官した時期からそれがわかる。武田滅亡から大正初期まで、山梨県の人々は武田信玄も思い出すことなく、甲府は関東でも有数な博打場と化していった。戦時中など、親不孝で息子殺しの信玄は片隅に追いやられ、「戦場常在」の馬場美濃守信房(信春は間違い)が武田軍を代表して大いに持て囃された。



 ○武田勝頼天目山討死が本説の事(随筆「翁草」所収)


 福島正則内内伊藤右衛は武田勝頼の首を取し士なり。伊右衛門が噺なりとて、「津田幸庵物語」に、甲州滅亡の時、勝頼父子Φ行方がわからず、瀧川左近将官監一益が先に甲州の国中を尋ねる。

 田野の奥天目山の麓に落人の男女60人が居ると聞いて、押し寄せて見るとみんな飢えて死にそうであった。戦えるものは殆ど無く、簡単に全員討ち取ってしまった。然るところに一益が旗本が来て話すのには、

 勝頼は信州高遠へ取籠候間、その元を捨て早々帰るべきと告げるにより、これまで来れる証拠に、首ども少々馬につけて府中に帰るところに、勝頼高遠に在と云うは虚説なれば、、高遠発向は止め、また元の田野あたりを捜し求めているうちに、村人たちが田野の溝堀の辺りにて、皆頭巾様のもを脱ぎ一礼をして通るに付け、その仔細を問えば、あの堀の中に屋形様御父子御首御座候故、恐れ多くて如此と涙を流す。各是に驚いて堀を捜せば果して首ども溝より出る。

 則土民に勝頼の首を選出させ、その外名のある武将の首を持って信忠へ献ずる。信忠是を実検せられ宣ひけるは、勝頼首は瀧川が内にて確が取りたるぞ、同じくは一益の甥の瀧川儀太夫抔(など)が取たれば、世の聞えも然るぺからんとて、儀太夫を召て見せ給ふに、是は某が取たる首にては無候と申す。

 よって広い庭にある四十級計の首を見せらるるに、是は某が謀が取たる首なりと選出する。則、土屋惣藏の首なり、伊藤伊右衛門は庭上の首の中には我取たる首の覚無と云う。

 勝瀬の首を見て、此の首が我取し首と云ふ。その証拠を尋ねられると、田野より塩手にくくり付け、道中摺れ申しに付き、首の切り口に某が乗馬栗毛粕毛血に交わり付可有之と申す。

 即ち被改処に伊右衛椚が申すとおりなれば、伊藤が討しに究まる。

 
 【割註】
 落人の首を討捨にせしと見れば、ここの文談にてはな首を携たる趣なり。途中にて捨たるか不審。


 信忠、その時伊藤に向かい、その方は取りし首は大将勝頼が首なり。汝は士の冥加に叶えたりと、被称、然るに近年の記録どもを見れば勝頼切腹と書いてあるもの有り、叉事々敷働らいて討死とも見えたり。いずれも虚説なり。われその時分は小平次とて瀧川方に奉公して、右の伊右衛門とも傍輩まれば、右に記すところ相違無しと、板倉周防守重宗亭にて、「津田幸庵物語」なりと云々


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