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武田信玄の末裔

  山梨歴史講座 武田信玄正系(末裔)について

   今もつながる武田信玄
  武田家十五代 武田昌信(たけだまさのぶ)氏
   苦難の道を乗り越えて辿り着いた十五代
意外なことにそれは柳沢吉保の配慮が大きかったのだ
   

 引用資料 『歴史読本』五月号
   昭和44年(1969)


 武田家十五代 武田昌信の紹介(筆者紹介より 昭和44年当時)
大正十四年(1925)十四世信保嫡子として生まれる。
大学卒業後特応召。後法務省官房人事課に奉職。
現在は浦和地方法務局越谷支局長。
現住所 東京都世田谷区官坂 3−17−3

 信玄贈位と武田の正系

天正元年(1573)信玄公が没してより、今年で二百九十六年めになる。今年は戦国ブ
ームとかで、映画・テレビの「風林火山」、テレビ・演劇の「天と地と」など信玄公の活
躍を画いた作品があいついで競作・上演されている。また、公の本拠地、甲府では、武田
信玄奉賛会によって甲府駅前に公の銅像が作られ、その命日にあたる四月十二日に除幕さ
れることになっている。
 このように、信玄公の事蹟が顕彰され、その活躍ぶりがブームを呼ぶ程に歓迎されるの
は、これまでで、今回が最高だと思われるが、大正のはじめにも、今回とは違った意味で
「武田信玄とその一族」が問題になったことがあった。

 即ち、大正二年(1913) に大正天皇の御即位式の大典に際して、従四位下大膳大
夫であった武田信玄が従三位に贈位されることになったのである。

 これは、信玄が甲斐で行なった治水、土木、税法等にわたり、当時まれに見る民治上の
功績が認められたものである。こうして信玄公に従三位の位記・宣命(いきせんみょう)
を賜わったものの、これを受けるべき正統の子孫は何人であるかが問題となった。

 信玄の子孫といえば、「天正十年(1582)、信玄の四男勝頼がその子信勝と共に天
目山で自刃して武田家は滅亡した筈」といわれる方も多いだろう。たしかに、天目山以
後、戦国武将としての武田家は日本歴史の上から姿を消すことになるが、これによって
「武田家」までも滅び去ったわけではない。信玄公の多数の子女のうち、いくつかの系統
は天目山の悲劇後も生き延び、その家系を今日にまで伝えているのである。しかし、大正
二年のその当時、信玄公が没してより既に三百四十年も経過しており、この間にそれらの
各流は各地に散り、また各々の間で浮き沈みもあったりして、「信玄の正系」は公認され
てない状態であった。

 このため、宮内省から発せられた位記・宣命が信玄の正統なる子孫に伝達されるという
ことを聞いて、支流・庶流を含めた大勢の武田末孫が「自分こそ信玄の末裔なり」と名乗
りでることになった(三十六家が立候補)。

この位記・宣命の伝達を取扱う山梨県庁で、その選択に困って、東京定刻大学史料編纂所
にその調査決定を依頼した。しかし、ここでも容易にその判断を下しかね、そのため位記
はとりあえず、信玄公の菩提寺恵林寺(山梨県塩山市)ヘ預けられた。

 ここで信玄公の子女のうち、女女子除き、男子の系統だけをみてみると、
まず
○第一男の義信は
 永禄八年(1565)に信玄に背いたとので幽閉せられ、
   十年(1567)十月に逝去した。
 その夫人は今川義元の女で女子が二人いたと伝えられている。
○次が竜芳(龍宝)で、当家はこの系統をひくものてみる(後述)。
○その次が信之で、これは十歳で夭折。
○その次が天目山の四郎勝頼。
○次に仁科五郎盛信
○葛山十郎信貞があるが、これらは、織田信長が天正十年(1582)三月に甲信両国を
 攻めた時、
 仁科は信濃高遠城に戦死し、
 葛山は甲府で殺され、共にその裔は伝わらない。
 このほかに末子の
○信清がある。
 これは勝頼歿後、越後に下って上杉景勝を頼り、以後景勝につき従って越後から会津、
会津から沢へと移り、その子孫が米沢にあって今日に至っている。結局、信玄公の男系と
して今日まで続いているのは、竜芳系のという当家と米沢の信清系だけである。そこで、
竜芳の血をひく武田信保(系譜参照)が正系であるか、あるいは、信清系統の山形の武田
茂氏が正系であるか、二者選一の問題となった。
 そこで山梨県庁ではこの間題を再び東大史料料綿纂所へその調査を依頼した。
 編纂所では武田研究の権威渡辺世祐博士(故人)がその任にあたり、当家伝来の系図に
基いて、竜方の子孫を正統なりと確認するに至った。ここに至るまでには、山梨県市川大
門の武田研究家村松蘆洲翁の御尽力を忘れることはてきない。山梨県下に武田の正系なし
ということで、位記宜命の下付が米沢の武田家へ決りかけた時、翁は米沢の武田家も信玄
の子孫にはちがいないが、系統の順位からして、信玄の二男竜芳の血をひく後裔こそ正系
ではないかと、当家が正系であることを大いに主張して下さったのである。
 かくして、贈位問題が起こってから十二年を経た昭和十二年(1937)に、従三位の
公式書状が私の父信保に下附されたのである。
これと同時に、当家を子爵に叙爵する旨の沙汰があったか、父、信保はこれを拝辞してし
まった。その理由は、川中島の好敵手である上杉家が伯爵であるのに、武田家が子爵とい
うのは釈然としないというのである。ところが、この叙爵の決定を下した、時の宮内大臣
・松平恒雄氏(現秩父宮妃殿下の父君)の奥様は鍋島侯爵家の長女の方で、その妹の方
が私の父の兄の柳沢保承伯爵の妻であったから、当家と松平安とは縁がつながることにな
り、そのため子爵を拝辞することは相当の心労であったと、よく母(母・綱は柳生子爵の
出身)はいっている。

  流浪する武田家

ここでひとまず、武田家の系譜をたどってみると、二世竜芳は信玄の二男で名を信親(の
ぶちか)といい、母は信玄の正室三条左大臣公頼の息女てある。長子義信の死亡後、竜芳
が後を継ぐべきところ、眼疾を患ったので、永録四年(1561)信州海野の家を継いで
て海野二郎と名乗った。通称を聖道(しょうとう)様といわれた。



 武田家滅亡の際

 勝頼が新府城を去って東進する時、法流山入明寺山主の栄順師(信虎を諫めて自殺した
内藤相模守の子)は竜芳の身を案じて寺へ迎えいれたが、勝頼が天目山に滅ぶの報が入る
と、竜芳はその夜、寺内に於て南自刃した。この時、竜芳のこ信道は、武田の血筋の絶え
るのを心配した入明寺の栄順および長延寺(甲府市)の実了のはからいによって、長延寺
領の信州伊那犬飼村に難を避け、織田方の虎口を脱することができた。

 その後、徳川家康が甲州へ入国し、長延寺の再興を詐したので信道は実了の後をついで
長延寺第二世となり、法名を顕了道快と称した。ところが、信道が長延寺に住すること三
十年に及んだ時、突然思わぬ災難がふりかかって来る。

 信道・信正親子、伊豆大島に流される。

 それは、当時関東郡代であった大久保長安が武田家遺族を保護し、それを利用して大名
になろうという野心をもっていたことが、彼の死後判明し、信道もこれに連坐することに
なったのである。大久保家に、武田家の花菱紋があったことがその証拠とされ、信道はそ
の子の信正とともに上州笠間の城主松平丹波守康長の下に預けられることになった。
次いで元和元年(1615)、入明寺の栄順や旧縁の人達の弁護にも拘らず、幕府は信道
父子を伊豆大島配流(はいる)してしまった。
 この遠流には信道の妻「ままの局」をはじめ、譜代の臣九名が随従している。
 大島での一行の生活の、辛苦はば申すまでもなく、信道は憂悶のうちに寛永二十年(1
643)三月五日に、七十歳で他界され、次いで局も後を迫われた。この間の断腸の思い
いを書き連ねて入明寺ヘ寄せられた局の玉章(たまずさ)は入明寺の寺宝となっている。
 なお、信道の大島での館や墓は戦後発見され、東京都史蹟となっている。
 この後も、御子信正は,なおもゆるされず、さびしい月日を大島で過していたところ、
信道の旧臣臣の奔走により、寛文二年(2663)、幕府から晴れて赦免の沙汰があっ
た。四十九年の歳月を寂しい孤島で難苦をなめた信正主従は喜び勇んで江戸へ帰ってき
た。ところが、もと国事に関する犯罪の嫌疑者であるので、幕府に気兼ねして、唯一人進
んで彼等を世話するものがない。

  助けてくれた内藤忠興夫人

 そこへただひとり奥州岩城平の城主内藤忠興夫人が手をさしのべてきた。この夫人こそ
天正十年三月、武田勝頼にに反して天目山に款を織田信長に通じ、勝頼をして天目山に最
期を遂げさせた、武田一族の小山田信茂の養女である。

 実は信玄の孫と伝えられ、早くから家康に侍って、女ながら戦陣の間に従い、その寵を蒙っていたが、後に家康が忠興に嫁せしめたものである。この後、信正は忠興の女を妻とした。時に信正七十歳、その妻は十七歳であった。そこに生まれたのが五世信興である。 この五世信興の時、重ねて幸運がやってきた。

 筆註 不思議な因縁である。子の内藤忠興の子風流大名内藤風虎は、「目には青葉」の山
口素堂が江戸藩邸に出入りし、松尾芭蕉との出会いもこの藩邸であったとする書も    ある。


  柳沢家との関係

 当時、将軍綱吉に登用せられて威権並ぶものがない柳沢吉保の斡旋により元禄十三年
(1700)甲斐八代郡に武田家が新知五百石を以て封ぜられたのである。しかも、表高
家たることを命ぜられ、幸橋門外に新たに宅地を与えられた。以後、明治維新まで幕臣で
あった。
 柳沢吉保と武田家との因縁は、吉保の祖父信俊が武田家の庶流で、武田家滅亡と共に、
家康に仕えたのである。さきの内藤家の夫人といい、柳沢吉保といい、まことに不思議な
因縁である。特に柳沢家と武田家はこれ以後も相互に、養子縁組をとり交し、深いにしえ
を結んでいる。

  信虎追放のこと

当家に伝わる家宝としては二十点ばかりあり、そのうち亀甲槍、鎧、古文書は正系決定の
折に、武田神社(山梨県甲府市)に奉納した。また信虎、信玄、勝頼三公の真筆は戦時中
入明寺に疎開させていたところ、入明寺が空襲を受けたため惜しくも焼失してしまった。
 ただ、武田神社に寄進した宝物は戦火にあわず、無事に残っている。亀甲槍というの
は、信親が海野城へ赴く際に、母君が信玄公に依頼して与えられた品で、宝物中第一のも
のである。それで、代々、この槍秘蔵のことは口外を禁ぜられ、正系決定の日まで秘めら
れていたといういわくつきのものである。また、竜芳の夫人以来、当主の夫人に代々伝え
られた懐剣が一口残っており、これだけは今も我家にある。j

最後に、最近の戦国ブームに際して武田氏正系として信玄公とその父信虎公との関係につ
いて一言してたい。この両者の関係については、信玄公が信虎公を駿河に追放しだという
のが通説となっているが、実際はそうではない。信虎公の領民に対、する暴虐な行ないが
多くなるにつれ、家臣達の信は次第に信虎公を離れ、信玄公につくようになったのを知っ
て、信虎公は自ら納得づくで駿河に退隠したのである。

生涯を全うした津向の文吉

 列伝に移ろう。
 まず武居吃安五郎。これはかって本誌(『歴史読本』昭和四十二年二月号)に書いたの
で簡単に述べておく。
 吃女こと中村安五郎は東八代郡竹居村に、甚兵衛三男として文化八年(1811)四月
十五日に生まれている。生家中村家はこの地方きっての名家で、父は郡中総代名で、道中
許可馬壱頭を槍壱筋のの家柄である。文政八年(1825)近在の百姓徳右衛門の手首を
ささいなことから切り落としため、追放されて数年後、郡内谷村の人切長兵衛の身内とな
って博徒のスタートをきった。天保十年(1839)二十九歳の時、賭博常習犯として捕
えられ中追放。同十二年に再び捕えられ三宅島に流された。捕えた代官は韮山の江川代官
である。だがすぐに許されて韮山在で江川太郎左衛門の指押下で反射炉をつくった。安五
郎が新島送りになったのは嘉永四年(1851)二月、それから七年目に彼は島破りをし
て故郷に舞い戻った。それから五年目に捕えられて石和牢内で毒殺されている。
どもりで短気だが、それだけに曲ったことがきらいだったという。博徒のくせに曲ったこ
とがと云うのも妙だが、「どどっとどもれば人を斬る」はそうした性格をみせた云い伝え
である。素朴で甲州の風土を一番よくみせた男である。
 黒駒の勝蔵は天保二年(1832)吃安の隣村黒駒村に生まれた。これも名主小池古左
衛門の伜で、後年、吃安在島中に、竹居一家の子分になった。
 『次郎長伝』でみると、勝蔵はまったくの悪者になっているが、この原典の『東海遊侠
伝』は養子の天田五郎が次郎長の自慢話をを書いたものだけに、一方的なみかたである。才気があって情にもろい。喧嘩上手で横をみるに敏といったところが身上のようだ。後
年、吃安の仇犬上郡次郎を斬ってから急に名が出た。幕末に官軍に加わって赤報隊に所属したが、明治四年脱走の罪で捕えられ、甲府で処刑された。
 勝蔵のことについて、『次郎長伝』では勝蔵は黒駒党と称して、甲州は勿論、三州一帯
の一大勢力であったと大風呂敷になっているが、良く空調べてみると、せいぜい二十人の
身内で、その勢力下にあったという伊豆の大八以下の親分たちは、単なる朋輩に過ぎない
ようだ。
 祐天仙之助は三井の卯吉の子分で、勝昭一帯を縄張リにしていた男だが、後年新選組に
加入、山本仙之助となって八番隊の伍長になった男である。ところが同輩の隊士大村達夫
が、かつて甲州で殺された実父桑原雪助の仇と知り祐天は斬り殺されている。
 この祐天伝には、劇的ないくつかの挿話があって、なかなか面白い動きをみせた男であ
る。その行動や考え方に、博徒とは思えないような近代的な感覚がある。
 吃安、勝蔵、祐天を始め三甲州博徒の最期は毒殺、刑死、惨殺と悲惨である。だがその
なかで、妻子子分にあたたかくみとられながら死んだ大親分に津向文吉がある。
 彼は文化七年(1810)西八代郡津向村に生まれた。生家は宮沢姓で、現在、旧屋敷
跡があるが、それをみれば生家がかなりの旧家であり、経済的にも豊かだったことが推察
できる。
 『次郎長伝』では、甲州の博徒が全て無頼非道で、しかも蛮勇鬼畜のような男たちにな
っているが、こと津向の文吉のことだけは、一さいふれてはいない。
 文吉の曽孫孫伊藤映二氏の話によると、文吉が、八丈島から放免になった時は母の定が
(文吉の娘)が二十際の折で、迎えに来た次郎長の子分と一緒に、清水まで文吉を迎えに
いったそうだ。
 これをみても次郎長と文吉は、かなりの深い親交があったようだ。
 性格も気性ははげしかったようだが、博奕打、にはめずらしく思慮分別をわさまえた、
知的な臭いをただよわせた親分であった。現存している文吉の字も達筆であり、真疑はと
もかく辞世さえのこっている。
 讃州の日柳(さなぎ)燕石と文吉の二人、どうも定石通りの博徒とは云いきれない感じ
である。「渡世人は畳の上では往生出来ねえ」とイキがって妻帯しなかった吃安や、はっ
きりした正妻を迎えなかった勝蔵や祐天たちと違って、かれは三度も妻を迎え、沢山の子
供をつくった。
 史家の今川徳三氏の研究によると、文吉が八丈島に流されたのは嘉永二年(1849)
四月である。それ程苛酷な島の生活ではなかったようだ。原因は吃女との喧嘩と云われて
いるが、それより常習博奕打ちとしての召捕りであったらしい。今にのこる文奇異写真を
みると、細面で品のいい柔和な老人である。
 「湯向のの文吉鬼よりこわい。火事じゃ着物が焼け残る」
 といった俗謡仙があるそうだが、写真でみた限りではそんな男とも信じられない気がす
る。八丈島には在島実に十年で、明治の大赦で帰郷するまで、鳴かずとばずひっそりと暮
らしていたらしい。
 身延町の外科医の小林一男氏は、八丈島出身の患者が「津向の文話は、島の古老は誰で
も知っている」と話していたそうだ。
 島で云う水汲女を二度目の妻に迎えて、男女それぞれの子供をのこしている。
 もっとも八丈ショメ節というのに、
沖で見たとき鬼島と見たが
来て見りや八丈は情け島
  (家系図略)
 長男栄吉は画家に、定は嫁して一男五女の子をもうけた。文吉の孫にあたるこの子供た
ちはともに長寿で長女のよしが七十歳で没した以外に現在まで九十一歳を頭に八十代七十
代でそれぞれ元気である。
 まつの長男映二氏は、かつては山梨の戦後の新聞界に名をはせた実力者であり、栄吉の
孫に当る宮沢旭氏や、定の孫に当る宮沢一郎氏は県教育界の大先輩でもある。他に教育関
係者も何人かいて、文浩一家の流れは山梨県の教育文化に、多大の影響をもったとは、地
下の文吉親分も苦笑しているかも知れない。
 文古と祐天については、いずれくわしく別稿でとりあげたいうと思っている。(了)

<参考文献>
 山梨侠客講座
   史料 「甲州やくざ考」
    侠客のメッカといわれる甲州の風
  そこから輩出した侠客の実態


  参考資料『歴史読本』特集 幕末任侠伝
   昭和46年3月特別号 所収
 竹内勇太郎先生著

 幼年期の見聞

 大正の末期の話である。当時、私の家は甲州の東山梨郡七里村下塩後(山梨県塩山市下
塩後)という処に住んでいた。蒸気機関車の停車する中央線塩山駅から、西に約三キロ、
純然たる農村地帯の一部落である。
 この部落に楠次郎という老人がいた。深い皺を日焼した顔いっぱいにみせて、枯木のよ
うになえた近在の老人と違って、色白で堂々たる恰幅の上に、柔和のうちにも気品のよう
なものがその顔にあった。
 道などですれ違った幼い頃の私などに、楠老人は親しみのある微笑をうかぺて、くった
くなく話しかけたものだ。服装も常に絹か上質のつむぎの着流しで、たまさか野良着にな
って畑に出ても、終日働くという訳ではない。趣味の農作業といった感じである。家屋敷
も堂々としていて、ずしんとした感じの屋根瓦の母屋は、当時としては名家らしい格式の
なかに、モダンな風雅さというものを感じさせた。
 楠家は名家であることも事実で、現社会党の代議士の小林信一氏も、たしかこの家と縁
続きになっているはずである。この楠老人に対する村人たちの態度は畏敬の一言に尽き
る。村長でも村議でもないこの老人に対して、村人たちは素朴な尊敬と信頼のようなもの
をみせて、冠婚葬祭や村のもめごとなどのたびに、この老人のもとを訪れていた。
 村人たちはこの老人のことを「親分」と呼んでいた。勿論、地方農村における地主対小
作人、あるいは旧本家に対する分家などによるマキとして親分子分のそれとは異質であ
る。つまり、博徒の「親分」としての呼称が、楠老人に奉られていた訳である。
 この老人が明治の末期から大正の始め頃にかけて、甲州きっての大親分であったこと
を、ずっと後年になって私は知った。もっとも私が老人に接した頃は、一家を解散して悠
々自適の晩年だったが、この楠老人の印象は、「凶暴無頼の博徒」というものを、別の観
点からみつめようとする姿勢を私に与えたような気がする。
 ところで、その頃、私の隣家に、日原某という繭の仲買人が住んでいた。なかなかの好
男子で、あいそのいい腰のひくい人だった。妻君の方も粋な感じの美人で、幼い頃の私が
お使いになど行くと、当時としては高級のカステラなどを半紙にくるんでくれた。
 ある午後、私が家の前で遊びほうけていると、突然、十二三人の刑事がこの日原家を襲
った。事情が判らずあきれかえってみて、いる私の前に、次々に近在の農夫や、商店主た
ちが、後手にくくりつけられて出て来た。日原夫婦も勿論である。寨博突の現行犯として
の逮捕である。
 それから二三ケ月たって、塩山駅の近く菅田天神社の横で、殺人事件が起きた。賭場で
イカサマがばれての、博徒同士の喧嘩の呆てである。大正末期、私が幼年期に暫く住んで
いた甲州七里村の一時期の見聞録である。
 これをみても、いかに甲州という土地柄が、博架あるいは博徒に深いかかわりを持ぢ、
つい先頃までその命脈が保たれていたがが判ると思う。

  博奕を利用した信玄

甲州の博突の歴史を考えてみると、相当古い時代までさかのぼらなければならない。
 『吾妻鑑』に双六は武士だけは許可するが、下臈は禁止するということがあるが、当時
の記録には陸奥、常陸、下総が最も盛んで、他に甲州、美濃、上野がこれに次ぐとされて
いる。最も当時の博突は、双六局(盤)に中央に一条の道を設け、その左右に十二目をつ
くって、これにおのおの白黒の駒(馬という)をならべ、筒に入れた釆二個を投げて、そ
れによって駒を動かして勝負を決したというのだから、賽の目に命を張ったといった殺気
をみせる賭場風景ではなく、遊去の一つの形式でもあったようだ。甲州で博突を一つの目
的として利用した人に、乱世の英雄武田信玄がいる。勿論、武田信玄が特に博突を好み、
率先して行なったという訳ではない。あくまでも戦略的にこれを利用したにすぎない。
 乱世の武将が戦略上その謀諜機関として、所謂忍者というものを最大限に利用したのは
周知の事実である。
 北条の風馬党、上杉の素波、そして武田の乱波。
 もっとも信玄直属の忍者には、世に云う乱波以外に三ツ者と呼ばれる一団があった。乱
波は所謂山岳民「山窩」を中心に組織する直截的なスパイ団であり、三ッ者は士分や農民
でも多分に知的な才覚のある知能集団である。
 …博突を弄して敵の腹中に入る…
 というスパイ術が、この三ッ者の手段であった。映画やテレビでみる忍者は、男装束に
黒覆面、かずかずの忍び道具を持って現れるが、現実のスパイ活動は、とてもそんな芝居
ごとでは出来ない。旅の塩売、薬売、旅医者や旅芸人や山伏など極めて平凡な市井の徒輩
としての肝常活動が、結果的にその謀諜目的に結びつくのである。当時の武将の家臣団の
組織は、親族衆や譜代の被官が直属、その下に有力家臣団があり、その家臣団の鉗地にあ
る農民が卒として参加している。この農民兵に,接近した三ッ者が、短期間に深い親交を
持つ手,段に賽の目が利用された訳だ。
 寺銭という言葉は、荘園地代に寺社が主催して、公然と賭場を開いて場銭をとったこと
がその語源だが、それでも判るように、戦国時代は全国的に博突が行なわれていた。
 『北条五代記』などをみると、乱波と忍者と博徒が同意義にとらえられている。
 現代でも得意先の接待や、上役のご機嫌とりに麻雀の卓を囲むが、賭ごとを通じての交
わりとうものは二不思議に相手の警戒心をとり去って、一種の仲間意識をかきたてる。
 こうして武田忍者たちは、給指揮官、「諸国後使者衆」の指令のもとに、雑兵を相手に
三寸三分に切った竹筒に賽を投げこんで、三河や美濃、信濃や相模に巧妙なスパイ活動を
続けた訳である。

 博徒輩出の原因

乱世が終り、徳川幕府の全国統一となったが、この頃からようやく全国的に本格的な賭場
や、準専業の博突うちが輩出して来た。勿論、甲州でも盛況を極めたのは当然だが、これ
に輿する古文書が殆どないので、江戸初期から中期にか一けての、甲州博徒の動静や個々
の人物像などは定かでない。
 ただ慶長年間(1596〜1615)江戸随一の顔役だった大鳥逸平が鈴ケ森で刑死し
たのち、全国的に大鳥党の大検挙があり、甲州でも二十余人の博徒が捕えられたという記
録がある。また侠客などといわれている口入業の博徒幡随院長兵衛の子分で篠原の佐兵衛
というのがあるが、「出生は甲州西郡在云々」というので、多分今の中臣摩郡竜王町篠原
出身らしい。
 この時代には専業の博徒という者はいない。職人とか仲間とか百姓とかが職業の余特に
所謂博奕を打つという程度で、またそれだげに何某一家の大親分というような人物は出て
いない。これは江戸幕府の権威が、名実ともに備わって、法度に対する摘発や断罪がかな
りきびしく行なわれた結果である。
 甲州博徒の大親分ガ輩出拙しはじめたのは、幕府の行政がようやく行き詰った天保年間
(1716〜26)以降である。明治初年に出された「近世侠客有名鏡」をみると関東を
中心とした博奕百五十名が勢ぞろいしている。東大関が信夫の常吉、西方が丹波屋清兵
衛、以下関脇が大庭の久八と大前田英五郎、前頭筆頭が国定忠治と小金井小次郎といった
ぐあいで、甲州出身者は前頭三枚目に武居の安五郎、五枚目に身延の半五郎、それに続い
て黒駒の勝戯、祐天仙之助、少し下って甲府の玉五郎、伊沢の万五郎、三井の卯古、伊沢
の虎五郎、鬼神の喜之助、小天狗の亀吉と続く。ともに甲州の親分は百五十人中上位であ
る。・更に別格で清水の次郎長とならんで甲州谷村の人切長兵衛がある。もっとも新門辰
五郎や幡随院長兵衛が同じく別格で顔をならべているので、時代的のズレを無視した一種
の人気番付とみられる。
 上州とならんで博奕の大親分が、どうして甲州にかくも台頭したのかということだが、
これは一にも二にも、曲り角にきた幕府の権威の失墜とその無力にある。
 天保十二年(1824)徳川幕府の歳出入を見ると、歳入百十万千四百四十五両、歳出
百六十三万五千三百八十八両で、差引約五十二万四千両の赤字である。勿論、赤字はこの
年に始った訳ではないから、累積赤字は何千万両にも及んでいた訳だ。当然なことだが譜
代、外様に限らず国持大名もその台所は火の車だ。名目をつけて金を大名からということ
も不可能である。しぜん、そのしわ寄せは幕府の支配地、所謂天領に向けられた。
 景も天領の宿命とでも云うのか、領民第一に考える国持大名と異って、代官行政はとか
く代官自身の点取主義、出世主義におちいるので苛酷な貢租の取立が行なわれる。
 延宝九年(1681)七月に大野村、神沢村、石村では地頭の山上五郎左衛門の非道ぶ
りを訴えている。この時の本年貢のかけ方をみると、

   御取カ五ツ六分ニテ御座侯トコロニ
   五郎左衛門御壱人年々御高免二仰セ
   付ケラレ九ツ三分二召上ゲラレ…

 側取カは、御取箇で租額、五ツ六分というのは租率で、「免幾ッ何分何厘何毛」と唱え
る。つまり免一ツは石高一石に対して租米一斗を意味する。石高は村高ともいわれて、検
地の結果によって決定されるが、この石高に免の率を乗じて御取箇が決定されるのであ
る。江戸中期天領にれける租率は、最高六ツ三分、最低一ツ五分、平均三ツ四分で、享保
以降は普通四ツであった。ところが文意をみると、
 五郎左衛門は御高率で(高厘)で九ツ三分(九公一民)という驚くべき高率をかけてき
たのである。(上野靖朗『甲州風土記』)。
 この時も逃散百姓が多く出たが、これらは再度帰農は許されなかった。
 これが幕末になると更に酷くな、って、各地で苛酷な石代のために逃散、娘売り、出稼
ぎ勿論、中井清太夫のような名代官も出たが、もともと幕政官体が財政的に追いこまれて
いたので、余程のことでないと天領民の訴えに耳をかそうとしなかった。
 元来が甲州は地味の豊かでない痩地である。山岳が多く当然ながら、田畑の一戸当所有
率も少い。だから二男三男は、他家に婿入りするか、一生生家で居候として作男同然に暮
すしか生きる手段はない。行政権の行届いた大名領を追われた無頼の無宿者が、代官行政
の警察力の弱い天領に流れこむのは当然である。これらの無宿者と、圧政下にあえぐ百姓
業にみきりをつけた二男三男の徒輩が結びついた。
 貢租を収めかねて逃散した百姓たちも、同時に無宿者となった。
 だから甲州博徒の隆昌は、こうした幕府の末期的な行政の在り方にその因を発したとみ
ていい。


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