甲斐との交流 甲斐への足跡資料

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武川長介を探る武川衆について
 さて『飛騨屋久兵衛』の初祖武川長助の出自が甲斐源氏武川衆であると系図を掲げてある。ここでその武川衆について調べた事柄を記載する。結果から言えば、資料からは残念ながら武川長助は武川衆並びに武川姓との関係が希薄であると考えられる。武川衆の多くは武田終焉を迎える中で、いち早く徳川家康の甲斐制定に力を捧げ、その後も武蔵国(現埼玉)鉢形などへ移り活躍し、その中からかの有名な柳沢吉保や曲渕氏・山高氏などの武将を輩出している。武川地域は非常に広範囲で現在の北杜市・韮崎市それに甲斐市、中巨摩郡の一部を包含している。その為戦国時代やそれ以前の甲斐源氏の活動場所と古来より名馬を多出し、その後の「武田騎馬軍団」の主流となる。
永享五年(1433)四月二十九日 甲斐荒川合戦 戦死者(『一蓮寺過去帳』)
立阿弥陀仏   永享 五年 四月二十九日  柳沢  1433
受阿弥陀仏                 山寺
声阿弥陀仏                 牧原
重阿弥陀仏   永享 五年 十月二十四日  山高
『一蓮寺過去帳』(甲府市大田町)武川衆関係記載
成仏      文安 元年十一月  朔日  白州     1444
覚阿弥陀仏   宝徳 二年 五月  一日  山高     1450
老阿弥陀仏   長禄 元年十二月二十八日  白洲蔵人   1457
小河原合戦討死
臨阿弥陀仏   長禄 三年         白洲     1459
与阿弥陀仏   長禄 四年十二月二十七日  馬場三州   1460
唯阿弥陀仏   寛正 二年         白州     1461
也阿弥陀仏   寛正 三年         白須     1462
善阿弥陀仏   文政〜応仁         米倉     1466〜68
弥阿弥陀仏    々            馬場       々
浄阿弥陀仏   文明元〜四年        馬場民部   1469〜72
師阿弥陀仏    々            白砂       々
来阿弥陀仏    々            馬場中書     々
金阿弥陀仏    々            馬場小太郎    々
光一坊     文明 九年 十月 十八日  山高御子逆修 1477
臨阿弥陀仏   延徳 二年 九月 十八日  山高殿    1490
西一坊     延徳年間          山高     1489〜91   
妙欽禅尼    明応 四年 七月  一日  曲渕母儀逆修 1495
合一坊     文亀 四年 四月 十六日  山高房    1504
永安正光禅定門 天文 十年         青木     1541
依竹宗賢禅定門 慶長 十年 七月二十七日  入戸野善兵衛 1605
  
 筆註‥
   徳川家康は武田旧臣八九五人を遠江国秋葉神社社前に集め、起請文を提出させた。
   武川衆は早くから家康の臣下となっていたので、この起請文には含まれていない。
  武川衆下之郷記省文 武川衆…『武川村誌』「資料編」第一章 中世
  永禄十年(1567) 八月七日  上田市生島足島神社蔵文書
   (ウハ書)  八月七日  馬場小太郎信盈 (花押)
   青木与兵衛尉信秀(花押)
青木    山寺源三昌吉  (花押)
  上 山寺  六河衆    宮脇清三種友  (花押)
柳沢
   横手監物滿俊  (花押)
   青木兵部少輔重満(花押)
   柳沢壱岐守信勝 (花押)
   六郎次郎(武田信豊)
   天正十年(1582)武川衆への家康感状(『武川村誌』)
  七月十五日   米倉忠継  折井次昌
  八月十六日   青木信時  柳沢信俊
    十七日   折井次昌  名執清三
  九月 一日   山本忠房
 …   七日   折井次忠  小沢善大夫 米倉信継  米倉豊継
          米倉定継  青木信時 柳沢信俊  横手源七郎
          曲渕正吉
     九日   名執清三
     十日   山本忠房
   天正十年(1582)家康発給、
  『武川次衆定置注文』(『武川村誌』)
 曽雌藤助  米倉加左衛門尉  入戸野又兵衛  秋山但馬守   秋山内匠助
 秋山織部佑  秋山宮内助   功刀弥右衛門尉 戸島藤七郎   小沢善大夫
 小沢甚五兵衛  小沢縫右衛門尉  小沢與左衛門尉 金丸善右衛門尉 金丸新三
 伊藤新五  海瀬覚兵衛   樋口佐大夫   若尾杢左衛門尉 山本内蔵助
 石原善九郎  志村惣兵衛  山主民部丞 名執刑部右衛門尉  塩屋作右衛門尉 青木勘次郎   
   武川衆二十四士重恩之惣目録
 武川衆…『武川村誌』「資料編」第一章 中世
天正十八年(1590)正月二十七日
 馬場勘五郎  曲渕玄長  青木尾張  青木弥三左衛門 横田源七郎  米倉左大夫  米倉彦次郎  米倉加左衛門  米倉彦大夫  曲渕庄左衛門  曲渕助之丞  折井九郎次郎  青木弥七郎  伊藤新五郎  青木勘四郎  曽雌民部助  入戸野又兵衛  柳沢兵部少  山高将監  米倉六郎右衛門 山寺甚左衛門  折井市左衛門  米倉主計助  馬場小太郎
   武川衆の采地(『武川村誌』)
 武蔵鉢形領(大里) 埼玉県寄居町・小川町
山高信直  青木信時 折井次昌  米倉忠継 米倉豊継  米倉満継
山寺信昌  馬場信成 知見寺盛之 入戸野門宗 曲渕正吉  曽雌定政
柳沢信俊(この人が柳沢吉保のお祖父さん)
   相模足柄郡
曲渕吉景  米倉信継 下総匝瑳郡 折井次吉
   慶長 九年(1604)武川衆御重恩の覚え(『柳沢氏の研究』)
• 百二十石  柳沢兵部丞信俊
• 百十八石八斗 伊藤三右衛門尉重次
• 八十石  曲渕勝左衛門尉正吉
• 五十六石四斗弐升 曽根孫作
• 八十六石   曽雌民部定政
• 六十石  折井九郎三郎次吉
• 九十石  折井長治郎次正
• 百十石  曽雌新蔵定清
• 五十石  有泉忠蔵政信
• 七十五石 山高宮内少輔信直
• 八十石  青木与兵衛尉信安
• 二十石  青木清左衛門尉信政
•  百石  馬場右衛門尉信光
• 二百石  折井市左衛門次忠
   慶長十二年(1607)甲府城番武川十二騎(『武川村誌』)
 山高孫兵衛親重   馬場民部信成  青木与兵衛信安  米倉丹後守信継
 知見寺越前守盛之  折井仁左衛門次吉  入戸野又兵衛門光 山寺甚左衛門信光
 柳沢三左衛門    曲渕筑後守吉清  小尾彦左衛門重正 跡部十郎左衛門胤信
 さてここまで「武川衆」を調べてみたが、残念ながら「武川姓」は見つけ出せない。武川長助が生まれたのは『飛騨久兵衛』によれば、永禄三年(1660)頃とされているがかの有名な川中島の戦いの前年であり、その六年には恵林寺領検地帳が作成されている。 武川の地名はその頃は存在していなかった。前掲の中で武川の諸将は、山高・柳沢・馬場などで、その他宮脇や小沢それに牧原姓なども武川の出である。地名が武将の苗字となる例が多いことから見ても「武川衆」から「武川」の姓が生まれることは考えにくい。前述したように恵林寺に隣接する牧丘町の武川地から出た「武川」「竹川」から出た人が因縁深い僧侶とともに飛騨周辺に行き、その後初代「武川長助」となったとする方が自然と思われる。
  追加資料
   天正十年(1582)八月一日 甲信諸士起請文
   後典厩衆
 竹川與十郎 竹川新兵衛
   山縣三郎兵衛尉昌景衆
 武川市兵衛
   甘利左衛門尉衆
 竹川監物
   享保十三年(1728)甲府勤番士 百俵三人扶持
 竹川甚助
   牧丘町誌(山梨市と合併)
  第二章 古代と中世
 竹川氏 清和源氏義光流・武田支流の出自。『甲斐国志』に竹川但馬守、牧平を領し、積翠寺要害城に通ずる間道の要衛守衛に当たる。とある。いま恵林寺古墓碑銘により但馬守、諱を秀経、没年天正十年三月三日、法名雄光院殿真覚静本居士とする。その子信経は徳川家康に仕え、以後子孫幕臣になる。
 また『甲斐国志』に竹川監物のことがあるが、この信経より、経秀、信成、秀成に至る四代いすれも監物を称する。
 『天王壬午起請文』に甘利衆竹川監物とあるのは、信経、また甲府町奉行をつとめる監物は信成、(教安寺鐘銘は秀勝)とみられる。本町竹川氏は初代監物の二男の系統で、右衛門−権左衛門−彦七と続き、また代々紋右衛門(甲斐国志では門右衛門)を称する。なお但馬の子で天正三年の長篠合戦での戦死者があったが、六郎兵衛とあるのみで不明。
(資料集収集中、続編あり)

筆註………『岐阜県史』「資料編」古代・中世
 南泉寺(山形郡高富町大桑)
• (年月日不詳)   仁岫宗寿語録 別本仁岫録
• (年月日不詳)   仁岫宗寿・快川紹喜拈香・下火頌写
• (年月日不詳)   仁岫宗寿・快川紹喜・等法語録
• (年月日不詳)   快川紹喜頂相 自賛
• (年不詳)  暮春二三日   快川紹喜書状
 禅昌寺(益田郡萩原町中呂)
• (年月日不詳)   明叔慶浚等諸僧法語雑録
• (年月日不詳)   仁谷宗腆法語
• 永禄 九年(1556)六月十日   功叔宗輔撰三木直頼十三年忌拈香法語
• 天文 六年(1540)稔林鐘如意珠日  明叔慶浚道号二大竝頌
• 天文十八年(1549)六月如意珠日   明叔慶浚道号二大竝頌
• 天文二三年(1554)十月六日   後奈良天皇綸旨
• 永禄初穂 (1558)三月如意珠日   希菴玄密掟書
  (明覚山大円寺第七世)
崇福寺(岐阜県長良福光)
• 天正 七年(1579)小春如意珠日   快川紹喜筆天崇転位賀偈
• (年不詳)  小春初五日   快川紹喜書状
• (年不詳)  十月四日   武田信玄書状
大龍寺(岐阜市粟野)
• 永禄戌辰年(1568)仲春日   快川紹喜頂相
• 享禄 五年(1532)祀孟春   斎藤利安「宗真」画像 仁岫宗寿賛
• (年不詳)  九月二四日   仁岫宗寿書状案
愚渓寺(可児郡御崇町)
• 天文丁未年(1547)二月如意珠日   民職慶浚頂相 自賛
浄音寺(可児郡家兼山町)
• 天文己亥年(1539)八月如意珠日   斎藤大納言画像賛並序 明叔慶浚撰
 筆註………『山梨県の文化財』
甲斐恵林寺(塩山市後屋敷2280番地)
• (年不詳) 紙本着色渡唐天神像 快川紹喜賛
甲斐南松院(南巨摩郡身延町下山)
• (年不詳) 紙本着色渡唐天神像 策彦周良賛
甲斐南松院(南巨摩郡身延町下山)
• 永禄 九年(1566) 天桂玄長著賛 南松院什物
 筆註……‥『岩村氏郷土年表』
• 享禄 元年(1529) 三木直頼禅昌寺を再興し明叔を始祖とする。
• 天文 三年(1537) 明叔、大円寺に入寺再興。
•    十年(1541) 明叔、愚渓寺に転住。
• 弘治 元年(1555) 武田の臣秋山伯耆守春近、高遠城主伊那郡代に。
•    二年(1556) 希菴玄密、大円寺住し秋に禅昌寺に移る。
• 永禄 三年(1562) 希菴玄密正法山に住す。
• 永禄 五年(1564) 武田勝頼高遠城主となる。
•    十年(1567) 信長岐阜城に入る。
• 永禄十四年( ?  ) 明叔、尾州福泉寺住
• 元亀 元年(1570) 武田の臣秋山春近、東山勢を破る。
•    三年(1572) 信玄、三方河原に家康を破る。
            秋山春近、大円寺を焼き希菴玄密を殺す。
• 天正 元年(1573) 四月、武田信玄死去する。
•    十年(1582) 武田勝頼、信長に滅ぼされ、快川紹喜の焼滅す。
________________________________________

(お茶の水図書館蔵『快川法語』。快川国師顕彰会主宰の棚橋啓太郎氏教示) 
(略)『別本仁岫録』によれば、快川は永正元年(1504)の出生で、天正十年(1582)に七十九歳で亡くなったことになる。  
 (略)『禅林雑記』(松ヶ丘文庫)快川は天正九年(1581)九月に国師号を得ており、その翌春の作品と見れば、通説どおり八十一歳で亡くなったみることができる。
 (略)天文十年秋から十一年にかけては希庵の師である明叔慶浚が武田信玄の招かれて甲州恵林寺住山しており、つづいて明叔は今川義元に招かれて駿河の臨濟寺に住山した。
 (略)恵林寺へ移った後の天文二十四年(1555)の武藤氏・江月宗印信士予修下火法語に「前妙心現住恵林快川叟書焉」と署名している(『禅昌寺本明叔録』)。
(略)天文二十二年(1553)になって、快川は南泉寺を留守にしてしばらく甲斐の府中(甲府)に滞在した。七月三十日付で嵩福寺(五峰元叔)に宛てた希庵玄密の書状に(略)「快川法兄が甲府寓居中である」ことを書き留めている。天文二十一年(1552と推定される十二月九日付けで、大円寺(希庵玄密)へ出した快川の返書には、希庵の妙心寺出世を祝福すると共に、快川の甲州発足は雪中ゆえに思う留まり来年二月末に伸ばしたことを告げ、その折の道中支援を頼み、その為希庵の伊勢出立も二月松まで待ってほしいとある。    (東大印哲『異本葛藤集』)   
(略)天桂玄長は、信州木曽福島の龍源寺開山信叔紹允に入門し、天文初年頃に印可を得たらしい。そして、下諏訪の慈雲寺住職に招かれ、天文二十一年(1552)九月に武田信玄の招きで恵林寺へ入寺した。天文二十三年五月七日には、恵林の小比丘玄長の名で信玄の母大井夫人の三回忌に出席し、副師をつとめている。  (『天正玄公仏事法語』)
 翌年二十四年と思われる二月六日付で快川が飛騨国益田郡萩原の禅昌寺へ出した書状に
 「天桂は木曾の龍源寺、信州府中の慈雲寺、甲州恵林寺この三ケ寺の住持なり」
 と書いており(『禅昌寺本明叔録』)甲信両国に確たる地歩を築いた。その天桂の手引きであれば、快川は当然のことながら信玄に拝謁の機会を与えられたのであろう。
 快川のすぐれた素質に引かれた信玄は、天桂の後任として快川を恵林寺に招聘し、天文二十四年二月にそれが実現するのである。
三、恵林寺住山
 恵林寺に入寺した後に、恵林寺の風景などのうちから特徴的なことを選んで恵林寺十境として定められているもので、(略)これを収める『葛藤集』には「ときに甲の万乾徳山恵林寺に十境あり、その一は雑花という」との注が付されている。
(略)天文二十四年は途中で弘治元年と改元された。翌年の弘治二年(1556)五月には、甲府の東光寺住持持仁甫珠善が亡くなった。そこで恵林寺の快川は、仁甫の法嗣藍田に書を送って、哀悼の意を述べ(略)東光寺の後任としては藍田以外には無いので、少しでも早く招請状のとおり東光寺へ越されるようにと書いてある。
(略)弘治二年と推定される成就院(小石和郷、武田信重の菩提寺で、信玄が甲府に移し円光院と改めた)あての書状に「来年(弘治三年)三月には妙心寺で開山祖師の二百年忌が執り行なわれることになり、これを記念して居成りが三人勅許されることになった。美濃岩村大円寺の希庵玄密の推挙によって東光寺の仁甫が指名され、居成りの請書が京都から下着した。その結果、府君信玄は一万疋(銭百貫文)を奉加すると言われた。云々
  (『葛藤集』)
 『禅昌寺本明叔録』「妙心寺派語録」この書状中には、飛騨国の禅昌寺住持仁谷智腆が弘治二年九月二十一日に亡くなったとの知らせに快川は、十月二十五日付で手紙を三木氏の側近と思われる松雪斎宛に書き、仁谷の逝去を大いに悼むと共に、快川が一伝の遷化を受けて帰国を決意したことを報じた。信玄の許しを得てのことであろう。禅昌寺は当時下呂市萩原に在り(今は下呂市中呂)、南飛騨の雄族三木氏の菩提寺の一つであった。信玄は十二月十四日付で京都妙智院へ手紙を出し、院主の策彦に恵林寺・長興寺・継統院の三カ寺の住持として早急に御出発されるように懇請しているので(『明智院文書』)快川の帰国は確実となった。策彦を恵林寺の元旦に臨んで、
  日暦開端紀太平、叢規随例祝新正、恵林有箇少林笛、吹起万年歓旧声 
弘治三稔履端辰(一月元旦) 乾徳山長周良稿 
 これに対して快川は次のように和韻している。
  天下春帰嵩福海、華厳富貴輝吾前、窓啣西嶺千秋雪、門繋東呉万里船   
  快川(『葛藤集』)
(弘治三年の新春を、西方に万年雪をいただく富士山を望む所で迎えたが、門前に船をつないで出発を待つに等しいような準備が整い、嵩福寺へ帰ろう)
 筆註…
さてここまでの資料の中からも、禅昌寺と恵林寺、信玄と飛騨、僧侶の交遊の深さが理解できる。武川長助が天正十年、甲斐武田の滅亡の後に逃げ延びたというよりは、僧侶の交遊中に同道した人々の中に武川長助と名乗ようになった人物が居たのではないだろうか。「武川」の祖を甲斐源氏に結びつけたのかは後世の人の作とも思われる。「武川衆」という総称から「武川」の姓が出るとは考えにくい。
四、恵林寺の歴代住職
天文(1532)〜永禄(1570)期の恵林寺住職一覧
   (追加資料『山梨県の文化財』)
 住職名   在 住 期 間   
 明叔慶浚  天文 十年(1541)秋  〜天文十一年(1542)春
 鳳栖玄梁  天文十三年(1544)   〜天文十五年(1546) 
積翠寺和漢連句に名有
 天桂玄長  天文二一年(1552)九月〜天文二四年(1555)一月
 天文二四年、元日乾徳山主云胡
 快川紹喜  天文二四年(1555)  〜弘治 二年(1556)
 策彦周良  弘治 二年(1556)  〜弘治 三年(1557)
 策彦周良  (年月日不詳) 甲斐南松院 策彦周良賛
紙本着色渡唐天神像
 快川紹喜  弘治 三年(1557)一月下旬 嵩福寺住職就任
 快川紹喜  永禄 三年(1560)四月 斎藤義龍の子が死去、悼偈一篇を上呈。
 快川紹喜  永禄 五年(1562)十月十一日 斎藤義龍の葬儀に快川が導 師となる。
 希庵玄密  永禄 七年(1564)二月〜永禄 七年(1564)九月
       『葛藤集』 『禅昌寺本明叔録』
 快川紹喜  永禄 七年(1564)十月〜永禄 十年(1567)四月 美濃へ帰り法泉寺住山
 天桂玄長  永禄 九年(1566)    南松院什物    天桂玄長著賛
禅昌寺本明叔録』 
 快川紹喜  永禄 十年(1567)秋冬〜天正 十年(1582)   恵林寺
  山門上で火定
 快川紹喜  (年月日不詳)    甲斐恵林寺 紙本着色渡唐天神像 快川紹喜賛
 筆註…『甲斐国志』…恵林寺『乾徳山慧林寺』 巻之七十五
• 開基 夢窓国師   
• 二世 満翁道
• 三世 曇翁□
• 四世 無元
• 五世 省哲  
• 六世 瑞昭
• 七世 古先印元  
• 八世 明叟斎哲
• (?) 青山慈永
• (?) 龍湫周澤
• (?) 絶海中津
• (?) 通容宏感   
• (?) 曇芳周應    
• 三十一世 策彦周良  永禄七年信玄寄寺領三百貫文
 快川紹喜
 筆註………「恵林寺過去帳」…『武田信玄傳』(広瀬廣一氏著)
 明叔慶俊禅師  勅謚圓應大通禅師  天文二十一年八月二十一日(寂)(1552) 希庵玄密禅師    元亀元年十一月二十七日(寂) (1570) 鳳栖玄梁禅師  嗣 大宗弘
 月航玄津禅師  特陽普濟英宗禅師  天正十四年七月十一日(寂)  (1586) 天桂玄長禅師  嗣信叔(信叔紹充獨秀下仁岫の弟)
 以上五員関山派之尊宿也 快川国師已前住當山見古記
 再住妙心當山始祖特賜大通智勝国師快川大和尚
 濃州人土岐氏永禄七應玄公(信玄)三請住山
 天正十壬午四月三日寂   (1582)  (以下略) 

飛騨の大名 三木氏…(ホ−ムペ−ジ)
…三木氏について
 三木氏は、足利将軍から飛騨の守護として任命された京極氏の代官として、南飛騨(現益田郡辺り)を領した。云々
…桜洞城を築いた三木直頼の墓所
 三木直頼とは、自綱の祖父にあたる人で桜洞城を築いた人です。三木直頼の墓は、三木氏の菩提寺でもある「禅昌寺」に境内でもあります。
臨済禅妙心寺派の東海進出と大円寺(ホ−ムペ−ジ)
 …明叔慶浚長男。甲斐武田家に属す。姉小路家と合戦を続け、各居城を攻め明叔は、益田郡の人で三木直頼の兄である。直頼は飛騨の豪族で京極氏の)被官であったが、主家の滅亡後輝盛は上杉家に属そうとするが、時盛は武田家に属す道を選ぶ。これにより父子の関係は悪化、そのため謙信は時盛を降伏させている。
 永禄七年(1564)、武田家臣山県昌景に攻められ父子共に降伏。(武田の)飛騨攻め、越中攻めの先鋒となる。嫡子輝盛が上杉家への臣従を明らかにしたため廃嫡、家督を三男信盛に、信盛が固辞すると甥の慶盛に継がせようとした。これらの動きを警戒した輝盛により天正六年(1478)云々
大円寺(明覚山) 4、臨済禅妙心寺派の東海進出と大円寺(HP)
  …妙心寺竜泉派系譜…
 関山彗玄…(略)−雪江宗深−早川宗隆−景堂玄訥−明叔慶浚−希菴玄密
 明叔は益田郡の人で三木直頼の兄である。直頼は飛騨の豪族で京極氏の被官あったが、主家の滅亡後南飛の新勢力を得、禅昌、円通の仏舎を営み、恩威竝び行われた。
 明叔は幼年時代より家を出て、王龍寺も於て景堂和尚により戒を受けた。景堂を省し精一杯叩求した。かくてついに達得し、その法を嗣いだ。
 大永年間(1521〜27)遊歴して甲州に至り荒廃した恵林寺を中興した。また飛騨に帰り三木直頼の招きによって龍沢山禅昌寺を再興始祖となり翌二年京都に出て妙心寺に出世した。(略)天文十年(1541)愚渓寺に移り、尾州瑞泉寺、妙心寺さらに大心院おいて天文二十一年(1552)遷化した。
明叔慶浚 『延傳』「三十」…『武田信玄傳』(広瀬廣一氏著)
幻依累堂歳過志学雲遊東西博絲経策、−−堂命居大心院(妙心寺塔頭細川政元創立、幽斎中興)奉詔出世妙心、過三日 退鼓、遊甲之慧琳久荒落一□翕然、未幾百度共復舊觀、海衆推崇為中興之祖、移濃之愚渓度如慧琳、檀越景前 遠山氏  大円入寺上堂−−天文乙巳春住尾之瑞泉−−天文二 十一年(1552)八月二十一日化
円蔵院殿肖像記(恵林寺略由緒所載希庵玄密記)
  『武田信玄傳』(広瀬廣一氏著)
 (略)豆州太守(穴山信友)以甲州河内為食邑、天文辛丑(1541)之
 秋吾列機挽留之暫天輪精舎(天輪寺身延下山村、寂室元光開山穴山信介開
 基也)有日一日献倭歌需執師資之禮老漢授法諱日、義鐵且亦書劍江二大字
 雅其號、云々
三木家系図(桐山力所録)(飛騨遣乗合府史傳所載)
綱良
 源正頼−重頼 明叔和尚(禅昌寺住元重頼二男男濃愚渓寺開山)
直頼
禅昌寺
 三郡隣地明細帳に益田郡中呂村永和三巳年(1377)開基
 京都妙心寺末禅昌寺一除地 一町五反一畝二十二歩高三石二斗四升八合
 明叔録三巻あり、
   《 調査報告 》快川紹喜

快川紹喜について
 この快川紹喜国師の再度入山の前年、即ち、永禄六年に希菴玄密和尚が恵林寺住職として入山している。この希菴和尚は禅昌寺の第四代の住職である。希菴玄密和尚は、妙心寺三十八世となった名僧である。
 甲斐源氏長助倍紹は、希菴玄密和尚が恵林寺住職の頃は三歳である。それから二十年を過ぎて下呂へ来たことになるのであるが、その間の経緯や倍紹の祖先については、桐原氏も述べておられように定かではない。云々
《 調査報告 》 希菴玄密
   臨済禅妙心寺派の東海進出と大円寺(ホ−ムペ−ジ)一部改述
 京都の人で時に天文十二、三年頃、東濃愚渓寺に明叔禅師を尋ね、教えを求め、達得し法を嗣いだ。明叔の命により京都の妙心寺の塔頭大心院に住した。天文の末岩村城主遠山景前に迎えられ、大円寺に先師明叔の跡を嗣ぐ。
 弘治二年(1556)正月、希菴から甲州成就院にいた遠叔の許に送った書簡がある。
希菴はこの年の秋に飛騨の禅昌寺に移った。
 禅昌寺   禅昌寺は先師明叔の開創した寺で、
• 開創 明叔慶浚
• 二世 果天
• 三世 仁谷(弘治二年歿)
• 四世 希菴玄密
 希菴は四世として迎えられたのである。この時希菴が禅昌寺に入って書いた掟が現存している。希菴は永禄元年(1558)岩村城主遠山景前三年忌の法要を営んだ。永禄三年(1660)希菴は勅を奉じて妙心寺に出世した。それより大心院に居ながら妙心寺に入ること五回に及んだ。
 希菴の名声を聞き及んだ武田信玄は請じて恵林寺に迎えた。永禄七年(1564)希菴は恵林寺に於いて信玄の母大井氏の十三回忌を営んだ。
 希菴は短い在住で甲斐を去り、京都に出てまた大円寺に迎えられる。元亀元年(1570)に在り、信玄はその後再三恵林寺に迎えようと希菴に使者を送るが、固辞した。(略)信玄は要請を断る希菴に腹を立て、秋山春近に命じて、東野侵入の元亀三年(1572)十一月、刺客を向けて大円寺にあり希菴を覗わしめた。 希菴は逃れて飯羽に至ったが、刺客はこれを遂うて橋上に殺した。同時に大円寺も焼かれてしまった。現在もこの橋を希菴橋といい、その傍らの丘上に塞があり希菴塚という。
 『甲陽軍艦』末書九品之九
 関山宗の名和尚希菴と申すを、甲州へ御呼び候へども、御成なきて、信玄公、空き家名伯耆守に被お仰付け、御殺し候。元亀三年十一月二十六日に如比。伯耆守申付被出抜は伊那の松沢源五郎、小田切与介、林勘介是三人なり。
 何れも十五日の内に狂気さし、あるひは癲狂をかき落馬して死する。
 信玄公も其次の年天正元年四月十二日に御他界也。禅宗の名知識などに悪しく御あたり有るべからざる候。其のため有り様に書付申候也。云々
遠山氏(ホ−ムペ−ジ)『武家家伝』)
 ……やがて信濃の攻略を終えた信玄は、東美濃・三河方面への進出を画策し勢力の安泰を図った。弘治年間(1555〜)になると、織田信長は着々と尾張を制圧し、美濃では斉藤道三が嫡男義龍と戦って敗死した。この頃武田武将秋山信友が伊那郡代をつとめ、高遠城主となった。大円寺住職の希菴禅師は武田氏と遠山氏の間をとりなしたようで、希菴禅師が京都に去ると、にわかに事態は変化を見せることとなる。云々
『武田信玄傳』広瀬廣一氏著 「希庵玄密 明叔慶浚法嗣」
京兆妙心希庵玄密禅師、不詳姓氏、平安城入、拝建仁月谷岫剃髪受具、依雪嶺瑾甚久、翻然棄去明叔于濃之愚渓、平生学得底、一字不用著、従此発憤参究、杲徹言外、檀越藤景前請前聘住濃之明覚山。永禄初、奉勅住正法山、一住五回、名重輦下。信州大守源晴信招以甲之慧林、三請而應、不久遷大円上堂、師文亀元年十二月二十七日賊黨窺室加刄而去、委順而化。
《 調査報告 》 明叔慶浚

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