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三、飛騨屋久兵衛、特別展示資料より
◎ 武川家の祖
武川家の祖、武川長助倍紹(たけかわちょうすけますあき)が戦国時代の雄、武田氏の家臣でしたが、武田氏が織田・徳川連合軍に破れたため、1583(天正11年)、下呂郷湯之島(現在の下呂町湯之島)に逃れました。
倍紹は甲斐国の釜無川上流にあった武川郷(現在の山梨県北巨摩郡武川村の内)の出身でしたので、武川を姓とする事を条件に、湯之島の庄屋であった中島家の養子となり武川家を興しました。武川家は現代で十四代を数えています。
武川・竹川の調査報告(山梨県側の資料による)
一、『甲斐国志』…文化十三年刊
…巻之二十二 山川部第三「西部川」(カナを平仮名にしてある)
奥仙上の中発源して大澤川(略)乃其の他渓水七八道相渡り、南流して北原より牧平に出つ。上流を漆川と云う。牧平村の下に至り赤芝川に会して、東流し中村、下村、倉科を過ぎ窪平、隼村の間にて笛吹川に入る。川筋帳に云う、御普請所長六十六町余、此川牧平にて武川(たけかわ)と称する事は、古蹟部に詳にす。(略)橋梁四所、武川橋(牧平村にあり。長さ八間、幅八尺 云々)
…巻之三十八 古蹟部第一「小田山城蹟」(西部下村−にしぶしもむら)
墟は下村、中村の中間よに在る御料山なり。此處は残簡風土記に巨摩郡東限に小田谷とありて、山内広く境を巨摩郡に接す。古時は西部四村(中村・下村・北原、牧平)一体に小田谷と呼びたるを、中世牧庄を置き牧場となし、馬城(とりこめば)に由りて中牧、武河、西保(略)等の支名出来ると見えたり。云々
…巻之三十八 古蹟部第一−「武河牧」(たけかわ)
東鑑(あづまかがみ)建久五年(1194)三月十三日、甲斐武河(たけかわ)牧、駒八疋参着(略)、牧平村にて漆河、赤芝川合して竹川と名つく。即ち西部河なり。竹川橋と云うは本御普請所なり。石水寺の要害より切差(きりさす)を歴て、雁坂口に出づる通路なり。金峰、御岳の方へも路あり。
竹川監物の宅蹟(竹川の事は士庶部に出す)是は警護の役せし士なりと云う。東鑑に武河と書たる故に、巨摩郡の武河に混じたり。此處は高岳より流れ下る河なれは、猛烈の義にて、「タケ」と訓すべし。「竹」「武」二字共に仮字なり。牧荘の内一般の馬城(とりこめば)とみえたり。
…巻之百 人物部第九−竹川監物(たけかわけんもつ)
天正壬午(十年/1582)の起請文に甘利衆(竹川監物は)。同(竹川)新三郎は典厩(武田信虎の二男/信玄の弟)衆なり。竹川の舊址は万力筋にあり。岩間村、竹川金佐衛門。西部村、竹川門右衛門。小笠原村、竹川縫殿進の由緒書を校するに、竹川但馬守、其の子六郎兵衛、武田の時、長篠に戦死す。其の子彌九郎、監物を称す。監物は天正壬午の後幕府に仕え奉じ、町奉行と為る。渡辺と相役にて数世監物を家名として相承けて、之を勤める。
正保四年(1647)五月、教安寺の鐘銘に、願主竹川監物丞秀勝とある是なり。甲府殿領知の時は、高八十八石(今福村の内)百四十俵を賜ふ、役料与力、同心等、渡辺氏と同じ。
…巻之百 人物部第九−甲府宰相綱豊卿 町奉行二人
渡辺禰兵衛(二百石) 竹川監物 八十八石に百四十俵二人の者、天正中より役之、前に詳かなり。
• 万力筋……現、山梨市万力
• 岩間村……現、西八代郡六郷町岩間
• 西部村……現、山梨市牧丘町西部 (旧、東山梨郡牧丘町西部)
• 小笠原村…現、南アルプス市小笠原(旧、中巨摩郡櫛形町小笠原)
…巻之百五 士庶部第四−石原彌五右衛門−一宮村
苗字帯刀の浪人なり。家乗に壬午の時、石原又左衛門と云う者本村に蟄居すと云う。延宝九年(1681)六月五日由緒書を上る。案文一章を蔵む。此時は五郎右衛門と云う。竹川監物の婿なり。
…巻之百十三−士庶部第十二 巨摩郡武川筋 武川左馬助
一蓮寺過去帳に、文明十四(1469)正月十五日、蓮阿とあり。壬午の時武川市兵衛と云う者、幕府に奉仕す。子胤なりや否(但し竹川氏又作二武川一者あり。相混せり。同氏なるべし。竹川は万力筋に記す。
…巻之百十四−士庶部第十三 巨摩郡西郡筋
樋泉主膳(小笠原村)名字帯刀の浪人なり。其之先は源右衛門長元壬午(天正十年)以後本村の蟄居、男子無し竹川監物の兄三右衛門の子を養ふ。名は長泰、長泰の子長武皆源右衛門と云、其子八之丞方武即ち主膳長矩の父なり。
竹川縫殿之助(小笠原村)浪人のなり竹川監物の後より出つ。二人累世殷富にして多く田畑を抱ゆる法密なるざる故あり多き時は必ず斃ると古より州人の云う所なり。二人田畠を千石に及び奢侈を好み他に訓戒する者なく、数年にして宝暦の末に至り財産盡き糊口の業を知らす、子孫散亡せしと云。
…巻之百三−士庶部第二 山梨郡万力筋 竹川但馬守−牧平村
其男を監物と云う。壬午起請文に甘利衆とあり。同典厩衆に竹川新三郎と云うものあり。牧平村に宅跡あり。因て本村にては西保河を竹川と云ひ、橋を竹川橋と云う。古は公役にて架したりし由、此道は積翠寺要害台より雁坂口へ山越の間道なれば、左もありしならんと。監物の二男右衛門は大坂の役に死して子、権左衛門本村に蟄居す。其の子を彦七と云う。宝永四亥年(1717)浪人親類書の稿一通を伝ふ。今に至りて三世共に門右衛門と称す。里長なり。同族今幕府乃西郡(にしごおり)小笠原村、東河内岩間村にもあり。
監物の事は人物部に委し、同主膳本村に慈眼寺を創す。古墓あり。仏寺部に記す。
…巻之七十四−仏寺部 山梨郡万力筋 長石山西光寺 牧平村
伝云う、同村に竹川山竜泉寺とて、竹川氏の墳寺ありき、今は廃して観音堂のみ在す。日向畔と云処に五輪石塔二墓あり。
…巻之七十五−仏寺部 山梨郡栗原筋 乾徳山慧林寺(恵林寺)
藤木、小屋敷、三日市場三村の界に在り。古時牧庄の内なり。臨済宗開山派妙心寺末、御朱印寺領五十九石五斗余。寺内三万六千四百坪、山林万壱里、 外に除地七石九升六合(樹木屋敷と云う)云々
…巻之百十三−士庶部第十二 武川衆
(甲斐源氏)武田石和五郎信光の末男六郎信長と云う者、忠頼の家蹟を継きて一条氏と号す。其の子八郎信経、東鑑にも見えたり。信経の男一条源八と称し、甲斐の守護職に任せらる。男子十数輩あり、武川筋の村里に分封して各々其地名を氏号とす。
ホ−ムぺ−ジ『武田家臣団』穴山梅雪被官
竹川金左衛門
禅昌寺と恵林寺(『飛騨屋久兵衛』 追記 三、禅昌寺と恵林寺)
下呂温泉寺住職、桐原東叔が、本文、第六章、武川家菩提寺について、の中で記載されている、勅願字龍澤山禅昌寺と、山梨県塩山、笛吹川のほとりにある名刹、乾徳山恵林寺との関連について、恵林寺資料第三巻によって付記したい。(略)
快川国師は、弘治三年(1555)から弘治二年(?)まで、恵林寺の住職を務め、後永禄七年(1567)再び恵林寺に入り、天正十年(1582)までの十八年間、武田家菩提寺の住職として、武田家並びにその家臣の禅道の教導に努めていたわけである。
筆註…前文中傍線部分は、
快川国師は、弘治二年(1554)から弘治三年(1555)まで、か
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