山本勘助資料室

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☆第四回川中島合戦☆(吉田豊氏訳・『甲陽軍艦』)

【訳】永禄四年辛西八月十六日、信州川中島から甲府に伝令が来て申しあげるには、上杉輝虎が出動して、海津の向かい、西条山に陣をとり、ぜひとも海津城を攻め落とそうとしている。その兵力は一万三千ほどとのことであった。
 そこで信玄公は、同月十八日、甲府を出発されて、同月二十四日に川中島へお着きになった。そして、謙信の陣営である西条山のこちら側、雨の宮の渡しを占拠し、そこに陣をはられた。このため謙信の側では、越後への退路を断たれ、あたかも袋にとじこめられたようになったと心配したが、謙信は少しも心配する様子はなかった。
 こうして信玄公は、五日間、その場所に陣をはられ、六日目の二十九日に、広瀬の渡しを越して海津の城におはいりになった。しかし謙信は、家老の意見も聞かず、それまでとおり西条山におられる。
 ここで、信玄公に対し飯富兵部が、ここぞという決戦をなさいますようにと、おすすめ申しあげた。また信玄公は馬場民部助を召されてご相談になったところ、馬場も決戦をなさるようにと申しあげる。
 信玄公は「当家の武勇すぐれた侍大将たちのうち、小幡山城はこの六月に病死、原美濃もこの夏、信州わりか嶽城攻めにおいて、十三カ所の負傷で、まだその傷が治らぬため、今何は召し連れなかった」と仰せられて、山本勘助を召され、馬場民部助と相談の上、明日の合戦の配備を定めよと仰せつけられた。
 山本勘助はそこで、
「二万の兵力のうち、一万二千を謙信が陣をかまえる西条山に向けて、明日の卯の刻(午前五時ごろ)から合戦を始めれば、越後勢はやがて、勝っても、負けても、川を越えて引揚げるでありましょうから、そこを御旗本組、第二陣の部隊によって前後からはさみ討ちにして、討ちとめなさるように」と申しあげた。それによって、高坂弾正、飯富兵部少輔、馬場民部、小山田備中、甘利左衛門尉、真田一徳斎、相木、芹山下野、郡内の小山田弥三郎、小幡尾張守、この十隊は西条山に向かって卯の刻から合戦を始める。一方、御旗本組としては、中央に飯富三郎兵衛、左に典厩信繁殿、穴山信吉殿、右は内藤修理、諸角豊後の各隊。
 御旗本組脇備として、左に原隼人、逍遥軒信廉殿、右に太郎義信殿二十四歳、望月の各隊。御旗本組後備として跡部大炊助、今福善九郎、浅利式部丞の各隊、以上十二隊、御旗本とともに八千の兵力が、今夜の七つ寅の刻(午前三時ごろ)に出発して広瀬の渡しを越して陣を布き、敵が川を越えて退くときに戦闘を始めると定められた。
 ところが謙信公は、武田勢の先鋒と旗本の部隊との炊事の煙が立つ様子を、西条山の上からご覧になり、上杉方の侍大将全員を集めて、
「十五年前、未の年の秋に、信玄二十七歳、謙信十八歳のとき、争いを始めて以来、たびたびの含戦をしてきたが、信玄の布陣にはつねに手落ちがなく、結局のところ戦場の主導権を信玄に握られて、謙信はつねに敗れたかのような有様であった。明日は合戦と思われるが、信玄の作戦としては、兵力を二手に分け、半分をこの陣に向けて合戦を始め、謙信の旗本が川を越して退こうとするところを、あと半分の兵力によって討ちとろうとの計略を立てていることが、鏡にうつるかのように察しられる。ここはひとつ、謙信もその裏をかいて、ただちに川を越えてそこで夜を明かし、日が出たならば攻めかけて合戦を始め、信玄の先鋒が駆けつけぬうちに、武田勢を切り崩し、信玄の旗本と、わが旗本とで一戦をとげ、信玄と自分とが取り組み合い、組みふせて、刺し違えるなり、
またはそのときの様子で和睦するなりとしよう。いずれにせよ、明日は二つに一つの合戦ぞ」といわれた。
 輝虎は甲骨に身を固め、九月九日の亥の刻(午後九時ごろ)に西条山を出発して雨の宮の渡しを越え、対岸に移られたが、一万三千もの兵力でありながら、音も間こえなかった。これは、越後勢が、戦のときは一人に三人分ずつ、朝食を用意させておく軍律となっているため、夜になって人馬の食物をつくることがなく、火を焼く色が見えなかったためである。以上。
 こうして九月十日のあけぼの、信玄公は広瀬の渡しを越し、八千余の兵力で陣を布き、先鋒からの報告をお待ちになっていたが、日が昇り、霧がすっかり晴れわたると、輝虎勢が一万三千の部隊で、まことに近々と陣をしいているではないか。
 謙信は強敵、対等の兵力であってさえ危い合戦だというのに、信玄公は八千、謙信は、一万三千である。たとえ勝利できたとしても、味方には多くの討死が出るであろうと、武田方の人びとが考えたのも当然であった。
 信玄公に、信州侍の浦野という武勇すぐれた武士を召されて、斥候に出された。
 浦野は見て戻り、御前にかしこまって「輝虎は退きました」と申しあげる。信玄公は判断力にすぐれた大将であるだけに、「謙信ほどの者が、宵から川を越し、そこで夜を明かしていながら 空しく引き取ることがあろうか。では、退き方はどのようであったか」とおききになった。
 浦野は、「謙信は、味方の陣を辻回しては前にふさがり、幾度もそのようにしながら、犀川のほうへと向かってまいりました」と申しあげる。
 信玄公はこれを聞かれて、「なんと、浦野らしくもないことを申すではないか。それは車がかりといって、いくまわり目かに、わが旗本と敵の旗本とを打ち合わせ、合戦をするための戦術である。謙信はきょうを限りと覚悟の見えた」と仰せられて、陣を立て直された。
 謙信は、甘糟近江守という剛勇の侍大将の雑兵とも千人の部隊をはるか後方に置き、二千の兵を持つ直江という侍大将に小荷駄奉行を申しつけ、白らは一万の軍勢を指揮して、柿埼という侍大将を先鋒に、第二陣に輝虎が立ち、旗を傾けて無二無三に攻めかかり、一気に合戦を始めた。
 その問に、謙信の旗本の一隊は、信玄公の備の右側にまわり、義信公の旗本五十騎、雑兵四百あまりの部隊を追い立てて、信玄公の旗本めがけて斬りかかる。
 敵味方合わせて三千六、七百の軍兵が入り乱れ、突きつ突かれつ、斬りつ斬られつ、互いに鎧の肩をつかみ合って、組み合って転ぶもの、頸を取って立ちあがるもの、その頸はわが主人のものと名乗って槍で突きふせるもの、それを見ては、またそれを斬りふせるものという有様、甲州勢も目の前の戦いにまぎれて、信玄公がどこにおられるかもわからず、また越後勢もそのとおりであった。
 このとき、萌黄色の胴肩衣を着た武者が白手拭で頭を包み、月毛の馬に乗って、三尺ほどの刀を抜身に持ち、信玄公が牀机の上におられるところへ、真一文字に乗りよせて、三太刀切りかかったが、その切っ先ははずれ、仁文公は軍配団扇でこれを受け止められた。あとで見たところ、団扇に八カ所の刀傷があった。
 さて、ご中間頭、二十人衆頭など二十騎は、いずれも剛勇の武者たちだったので、奮戦しながら信玄公を敵味方からわからぬように取りかこみ、近寄ろうとする者を斬り払う。そのとき、ご中間頭の原大隅が、青貝の柄のお槍をとって、月毛の鱒に乗った萌黄緞子の胴肩衣を着た武者を突いたが、突き損したため、鎧の肩をめがけて打ったところ、鎧の背をたたいたため、馬は竿立ちになって走り去っていった。
 あとで聞けば、この武者こそ輝虎であったという。
信玄公卿旗本組のうち、飯富三郎兵衛の部隊は、越後方先鋒第一陣の柿崎隊を追い崩し、三町ほども迫撃する。穴山殿の部隊も、謙信勢の,柴田隊を四町ほど迫撃する。
信玄公はお中間頭二十人のほかは、土屋平八、直田喜兵衛ら、十七、八のお小姓たちだけを従えられて、本営の御牀机のところから少しもお立退きにならなかった。
 だが、甲州勢のそのほかの九部隊は、太郎義信公の隊をはじめすべて敗れ、千曲川の広瀬の渡しに向けて追撃されつゝ退いていった。なかでも、典厩信繁殿討死、諾角豊後守討死、旗本足軽大将の中では山本勘助入道道鬼、初鹿源五郎の両人が討死、信玄公もお腕に二カ所の軽傷を負われ、太郎義信公も二カ所の負傷をされた。
 かくしての合戦は、ほとんど信玄公のお負けかと見えたところへ、西条山に向かっていた先鋒の十隊が謙信に出しぬかれ、鉄砲の音、ときの声を聞いて、われがちに千曲川を越して、越後勢の後方から攻めかかり、追撃戦を開始した。
 さすがの謙信も、和田喜兵衛という侍ただ一人をつれ、名高い放生月毛の馬をも放して、家老の乗りかえ馬に乗り、主従わずか二騎、高梨山をめざして退かれた。
 典厩殿のお頸は、ご家来の山寺という武士が敵方から奪い返し、しかもその相手を討ちとめて、典厭殿のお頸にそえて持ち帰った。諸角豊後の頸は、諸角輩下の石黒五郎兵衛と三河牢人の成瀬という武士の両人で取り返し、越後方の頸を取って戻ってきた。
 この合戦は、卯の刻に始まった前半は、ほぼ越後輝虎方の勝利、巳の刻に始まった後半は信玄公のご勝利であった。越後勢を討ち取った数は雑兵ともに三千百十七、その頸帳をしたためて、同日申の刻(午後三時ごろ)にかちどきをあげられた。お太刀持ちは
馬場民部助、弓矢取りは信州侍の諸賀であった。
永禄四年辛西九日十日、信州川中島合戦とはこのことである。
 この合戦以後、輝虎は信州に侵攻しなくなった。すでに諏訪頼重、伊奈の人びと、木曽義康は降参、深志の小笠原長時と葛尾の村上義清に輝虎が加わって年々の戦いがあったのだが、合わせて二十四年にして、ようやく信州は平定された。
信玄公の合戦ぶりは、信州の諸勢との戦いによって巧妙,になられたのである。以上。
(後略)(「甲陽軍艦」品第三十二)

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市川文書の仝撮影
   カビネ版で二百数十枚
「信濃」第十一号
出羽の大富豪本間家所蔵
酔古生著
 出羽酒田の富豪である本間家に市川史書の所威されて居る事を発見されてから殆んど満二ヶ年になる。丁度その当時は、同家の代換りの時で、新戸主の公正氏は、学生々活から一躍大世帯の主人になった事とで、自分の家ながら、一向に様子が判らず、その上彼家の内規として、主人以外には絶対に出入を禁じられて居る土蔵が、二棟存在し、文書類其他の重宝ものなどは、概ね其中にあり、そこへ新主人公の不案内と来て居たから始末が悪い。鈴木知事から依頼状まで出して貰い、寓眞乾板も三十ダースも持参に及んだのだけれど、其俵退却の余儀なきに至った次第であった。
 昨年も亦、米澤へ出張の帰る道すがら立寄った。その時も亦未発見とあって、すごすご退却。更にニケ年間に手紙で問合せした事は何十回。或は故伊佐早先生の令嗣、信氏を煩はした事もあった。返答は当主公正氏からも数回、分家の本間氏からも、該家細管の圃書館長白崎光弥氏からも、その時々に来て居るので、何れも少し待ってくれとの事だから、怒るにも怒れない。
本年になっても亦数回の伺いを立てたのであったが、最終の八月初めの手紙の返事が、月の十三日に到着した。それが、思はずも吉報であったのである。
 山形県史料の殆んど最終の探訪ともいうべき出張に兼ねて、本間家にはまだ外にも伊佐早史料がある等だから、それの探訪をも兼ねて、米澤から酒田へと同来したのは、九月十一日。早速、あこがれの市河文書といふものを正確を見せてもらうことになった。省みれば、其一部分を米澤の伊佐早先生の机下で拝ませてもらった時から、二十年後を過ぎて居る。あるは、あるは、藍色の紙の琴訂をした巻ものが、三十巻もあるのである。
 文書の教が百四十七通、下高井郡中野小峯校で印刷したパンフレット式市河文書は、信濃史料叢書かたとったものであるが、あれよりは三通少ないのである。維新後、市河家の保存された時は、もつと沢山あつたに相違ない事は、伊佐早先生の常に語られたところであり、且また應永三十年前が、首四十六通であって、此間百四十年を飛んで永禄十二年のものが一通、寄生虫のようについて居るも不審、実は戦国期のものはまだ出ない史料も、四五点散在して居り、文章だけ判って居る史料も少なくない。平安朝からのものを保存した程の家柄だもの、戦国期のものが存在せぬ筈はない。此鮎か考へても、應永末年から永聴十二年迄の百四十余年間のものは、少なくとも二十通や三十通は存在したるべく.現に越後高田の謙信文庫には、應永より前の至徳三年の市河文連が一通現存するのである。かような語だから、現在此文書から紛失して居る部分は、恐らく、一半以上であろうと思う事を禁じ得ぬ。詳細は、該写真に附録として貼附する証明書に書くつもり、そして、公開する積りであるから、その時を期して貰う事とし、云はば、現存の市河文書といふものは、應永以前のものであるといふ事が、最も特色の一つであるというべきであろう。
一口に應永といっても、五百三十年の昔である。その前の文書が、百四余通もあり、殊に鎌倉前のものもあり、義仲もあり、頼朝の弟阿野全成のものもあり、北條氏などは、時政以後、殆んど歴代の花押を有して居訳であるから、諸家文書中でも珍とするのは当然である。殊にその諸家中でも、市河家といふものは、大名でなくて、徹頭徹尾、信濃国境の小名であったといふことが、珍中の珍といふ澤にもなる。
何となれば、その結果としての文書も亦、徹頭徹尾、郷土的であるからである。そして、その上に、中央舞台の上に役立って居る事の如何に多きかは、苛も大日本史料を見た者の百も承知の事であろう。
 又前記三通の不足については、中野学校印刷の市河文書その前に本間家へ送って置いたから、私より十日程前に偶然該文書を一見した帝大の伊木寿一氏(史料編纂官〕一行も、中野校本杖として研究した際に発見し、帝大と本間家との貸借時代の返却洩れではないかとの疑問も.発生し、其疑問を留保されてあったが、併し、私の所有する故伊佐早先生の古文書目録は、直ちにこれを他の中に発見したのである。
即ち、其三通は、
一、應永七年十月五日
      足利義満の感状
 二、同年四月二十九日
     小笠原長秀安堵状
 三、(應永中)七月二十六日
       細川慈忠書状
 であって、前二文書は、大塔合戦に市河氏が小笠原氏の部下として血戦した時の関係書類であるのであるが、勿論此三文書も市河文書中にあったに相違ないけれど、維新後逸散の後、拾はれた時に、別々であった為に、伊先生の分類中に於いても、微古墨宝といふ乾坤二冊ある中の乾の方に牧蒐されて居たのであって、それだから、今現在の市河文書中には、補遺されて居なかったのである。といふ様な事は、調べてから判った事であるが、とに角、此文書を見た時には、何となく感慨無量なるものがあった。八百年来把握されて居た此文書が、市河家から押流された維新の怒涛の如何に大きかったかといふような事、これらを三円の月給の時、一文書十銭位に蒐集された伊佐早先生の篤学、ては、我等の郷土に、今から三軍一手年前までは、小氏人と市川文書の会撮影.銅棒室からして、鏡をつけられた練に国境を守り、巣鷹を守って、四五百年間連綿とした市河氏の事ども、それらが、此三十巻の藍色の巻物と同時に頭に走馬燈のように描き出された影画であった。
 披見につれて、更に更に驚いた事は、どの文書も、どの文書も、とても汚れて居ないといふ一事である。殊に鎌倉時代のものは、日本の他の残存文書と共に、重に訴訟の文書であるが、其書体などは、どれを見ても、一つ一つ、骨習字の手本となるような楷行の問の名筆である事、共文書の文章が、判決文としても、詳細を極めて居る事などである。以て、鎌倉時代の民がのびやかで、穏健で。
民衆的であった事まで連想を禁じ得ない程だ。
 その他にしても、何としても、一家で、各時代を串通しにして居る話だから、各時代の文書相の一通りを僻へて居る点は、古文書学の上からしても一つの規範的のものと云い得よう。
下文、副下文、下知状、奉書、書状、譲文、訴訟、置文、注進、応宣、申状、所牌、着到状、軍忠状、感状、預ケ状.安堵状、契約状、宛行状、行渡状、定書、などの種類を、如宝に見るように感得出来る点に於いて尊い。光丘文庫の二階を臨時写場暗室等に借用して、約六日間で、此文書の穐影を終了した。文書の裏に影書きの花押もあれば、文書もある。これらは、主として鎌倉時代のものであって、文書上の特色でもある。凡て是等迄も写了したのである。
 その外にも、本間家及び酒田の古文書殆んど仝部を歴訪したが、信濃関係のものが、三十お近く存在したからこれらも概ねレンズに入れた訳である。
 終りに写真技術者の事についても、一言し置かればならない事がある。県内の史料撮影には、長野市荒木の篠原文雄氏が犠牲的に徒事して居ると同様に、山形県の資料撮影影には、米澤市の神保一臣氏が、四五年来を通じて、単に撮影ばかりでなく、史料蒐集の手助としても、殆んど、献身的に努力してくれられた一事は、是非此際報告し置きたい処である。今度の市河文書の撮影に関しても、同様であった事は云う迄もない。
 此雑誌の出る頃は、多分写真が配布される時であろうと思うが、この催しを最初から替助された更級、上下水内、上下高井郡の教育部含、及び加盟助達につとめられた諸法人に対しても、謹しんで、謝意を表して置く。
國賓市川文書の外貌


 史料として史学界に高い位置を占めてる市川文書は、今春二月國賓に指定された。今日は、東北きっての大富豪、酒田本間家の所藏に帰して居るが、明治初年迄は、米澤藩の大身、市川家の傳家の重賓であつた事は云ふ迄もない。

 そして、其市川家なるものは、鎌倉初期頃、甲州から、信濃へ移佳した氏人であつて、中野氏と併立して、下高井郡越後國境、樒山(堺村志久見)の地頭となり、南北朝後は中野氏を追つて爾來、.徳川初期長慶三年三月、上杉景勝の部下として會津方面へ移る迄、四百年内外は、日本の最深降雲地たる件の志久見、叉は箕作(堺村)に連綿居佳した氏人であつた。

 そして、所謂「市川文書』は、此四百年間、彼家及ぴ親戚中野家へ到來した重要の文書を指して云ふのである。維薪後は、云はば、古文書は生活に直接闘係ない物になつてしまつた爲に、嘗ては生命にも代へ難かつた此重賓も、紙屑として流れ出す運命になつてしまつた。

 偶、歴史研究の興昧から、之を買集められたのが、地方史料界の大家、故伊佐早謙先生であつた。先生の御話によると、當時是等文書の価格は一枚十銭以下だつたと云ふのである。

 何れにしても、先生の様な篤學者の手に入ったればこそ、是等の大史料も今目迄無事に傳へられたと云ふべきであらう。尤も既に流れ出したものもあったと見え、高田市の謙信文庫内に至徳年間の一通が存在してゐる。が、大体は保存されたと見てよからう。

 去る昭和六年、先生の物故さるるや、筆者は六郡教育界の御援を得て、其行衛を捜索する事三ヶ年。概く昭和八年に、本間家に移つて居る事を発見し、同家に請ひて、全部撮影の宿願を果した次第であつた。玻璃版は、即ら其文書の張られてある巻軸の外形である。大体、かやうに巻軸にされた時代は戦風末であるらしいけれど、附箋は相當前のものであるらしい。叉此巻軸は、戦國期に特製された革蟹に入れてあつたのであるが、撮影當時の本間家には無かつたのを、伊佐早先生の令嗣信氏(下關地方裁剣所長)の好意から、本間家へ贈られる事になつた。凡ての事は思ひ出しても感概無量なるものがある。

六月十六日
晴信、市川籐若宛書状(「信濃史料叢書」 謙信公御代御書集』)
急いで客僧をもってお伝えします。そもそも長尾景虎が六月十一日に飯山に陣を移した様子で、風聞では高梨政頼がそちらへの融和工作をしているようですが、いうまでもなく、誓約の旨のとおりこちらの心底は残らず申し届けてあるとおりです。幸いに当方の陣は警固であり、さらに来る十八日には、上州勢がことごとく加勢にこちらのほうへ出張し、上田方面には北条綱成が着陣する予定です。越後勢は日を追って滅ぶでしょう。それが晴信の本意であることを知ってください。早々に軍備の調えを切に頼むこと、相変わらずの忠節を望むところです。なお、追って使者を送り一部始終を申し上げます。恐々謹言
     六月十六日                 晴信(花押)
市川籐若殿
(山日新聞による)










☆六月廿三日
晴信、市川籐若宛書状
●六月廿三日、深志城の武田晴信、使番山本菅(勘)助を市河藤若に遣し、救援出陣を手配したと告げる。
★山本勘助★信州塩田に布陣の晴信が、水内郡市河に在城の市河藤若にあて、塩田城主飯富虎昌が川中島に進出する計画のあることを、山本菅(勘)助を使番として報じる。                (北海道、市河良一家文書)

注進状披見。仍つて景虎、野沢の湯に至り陣を進め、其の地
へ取り懸かるべき模様、又武略に入り候と雖も、同意無く、
剰え備堅固故、長尾功無くして飯山へ引退き候由誠に心地よく候。何れも今度、其の方の擬たものしき迄に候。なかんずく野沢在陣のみぎり、中野筋後詰の義、飛脚に預り候き。すなわち倉賀野へ越し上原与三左衛門尉、又当年の事も塩田在城の足軽を始めとして、原与三左衛門尉五百余人、真田へ指し遣はし候処、既に退散の上是非に及ばず候。全く無首尾有るべからず候。向後は兼て其の旨を存じ、塩田の在城衆へ申し付け候間、湯本より注進次第に当地へ申し届けるに及ばず出陣すべきの趣、今日飯富兵部少輔の所へ下地を成し候の条、御心易く有るべく候。猶山本管助口上有るべく候。
恐々謹言。
       六月廿三日   晴信(花押)
市河藤若殿










●七月三日、是より先水内郡飯山城将高梨政頼、越後春日山城将直江實綱を音
 文する。                         (高梨文書)

●七月五日、武田軍、長尾方安曇郡小谷(おたり)城を攻め落とす。

●七月五日、武田晴信感状。
   於于去五日信州安曇郡小谷之城、最善攻登、頸壱討捕、剰被疵二ヶ所候
条、戦功感入候、弥可抽忠信者也。仍如件。
     七月十一日  晴信(龍朱印)
        溝口
(信濃史料)
●七月五日、武田晴信の軍、安曇郡小谷に長尾景虎の軍と戦う。尋いで、晴信、
諸士の功を賞する。
 於于去五日信州安曇郡小谷之城、最善攻登、頸壱討捕之條、忠節感入候、
弥可抽戦巧者者也。仍如件。
弘治三年七月十一日        晴信(朱印)
 小平木工丞殿
 筆註  
☆ 同様の文書が多数ある。(「信濃史料」『諸州古文書』)
 岩波六郎左衛門殿・篠原藤十郎殿・三井助七郎殿・小井弖藤四郎殿
 岩波藤五郎殿・大村与右衛門殿

● 「千野文書」諏訪市本町 千野俊次氏所蔵 抜粋
  小谷城御本意の時分、構際に於いて弓を涯分仕り候。板垣具に言上故、高
白斎を以って深志の御対面所へ召し出し、此の類なく相挊ぐの由、御褒美
候事。

● 七月廿三日、武田晴信、大須賀久兵衛に、埴科郡坂木南条の地を宛行い、検使を派遣して所領を渡すと告げる。

☆ 八月、信玄公は途中であった上野の信濃守の居城箕輪城を攻めた。十月中旬に信玄公は帰る。                    (甲陽軍艦)

●八月六日、武田晴信、安曇郡山田左近をして、本領を安堵せしむ。(山田文書)

●八月廿九日、長尾景虎、政景の軍、武田軍を水内郡上野原に破り、この日戦功を賞する。(第三回川中島合戦)
   今度於信州上野原(水内郡)一戦、働無比類次第ニ候、向後弥挊之事肝
   心に儀。謹言。
   (弘治三年)八月廿九日             景虎
     南雲治良了右衛門とのへ
(同様の文書の宛先 大橋弥次郎殿)

● 九月二十日、越後方の大将、長尾政景の感状
   信州上野原に於いて、晴信に対して、合戦を遂げ、勝利を得候砌、神妙
の働き比類なく候。向後いよいよ稼がるべきこと専要(大切)に候。
謹言。
      九月廿日              政景
下平弥七郎殿

● (「川中島の戦い」小林計一郎氏)


●十月九日、武田晴信、安曇郡千国谷に高札を掲げ、谷中の乱妨狼籍を禁止する。

●十月十六日、馬入。窪川孫二郎討死。【王代】

● 11月六日、武田家奉行衆、小尾藤七良に対し、京進面付として五百六十文の納入を命ずる。(正親町天皇即位に伴う経費の捻出か)
   就京進面付之事(略)
    弘治三年十一月六日
      長坂筑後虎房 (花押)
      三枝右衛門尉 (花押)
      室住豊後守虎光(花押)
    小尾藤七良代
(「須玉町誌」史料編第一巻)

●此年、将軍足利義輝、長尾景虎上洛のため景虎、武田晴信の和睦をはかり、聖護院道澄を派遣する。

●弘治元年(1555)閏十月の甲越和睦は、その後の信濃侵略によって、有名無実となり、翌二年八月には春野望が景虎の家臣の大熊朝秀を内応させたことから、再び両者の関係は悪化した。この年の二月十五日、晴信は景虎の機先を制して川中島へ兵を送り、善光寺の南の葛山城を攻落させた。
 (甲府市史)

●此年、武田晴信、善光寺の仏像・仏具を小県郡彌津に移す。信濃善光寺とその門前町が寂れる。
●弘治年間、武田晴信、伊那郡に小野川・波合関所を設ける。この頃、清内路・帯川・心川関所も置く。

《参考》川中島の戦い。『川中島五箇度合戦記』

第一回 天文廿二年八月(1553)
第二回 天文廿四年四月(1555) 百五十日間
第三回 弘治 三年  (1557)
第四回 永禄 四年九月(1561)
第五回 永禄 七年八月(1564)

弘治 三年 1557
《信虎―64歳・信玄―37歳・勝頼―12歳》
●一月廿日、長尾景虎、更級郡八幡宮に、武田晴信の討滅を祈願する。願文に晴信の信濃制服の暴虐を記す。               (長野県史)
(前文略)
ここに武田晴信と号する侫臣ありて、かの信州に乱入し、住国の諸氏悉
く滅亡を遂げ、神社仏塔を破壊し、国の悲嘆累年に及ぶ。何ぞ晴信に対
し、景虎闘諍を決すべき遺恨なからん。よって隣州の国主として、或い
は恨を後代鬼人に誓い、或いは眼前に棄てがたき好あり、故に近年助成
に及ぶ。国の安全のため軍功を励むところ他事なし。神は非礼を受けず。
縦へ晴信渇仰の志ありと雖も、既に国務を奪はんがため、ゆえなく諸家
をして罪なく脳乱せしむ。万民争(いかで)かその感応に預からん。
云々

●一月廿一日、武田晴信、伊那郡諸郷に夫役を課す。    (信濃史料叢書)

●二月十二日、
   山田領之貴賎、就致降参者、身命不可有相違者也。仍如件。
     弘治三年二月十二日
    原左京亮殿

●二月十五日、武田の将馬場信房、長尾方落合氏らの本拠水内郡葛山城を攻略する。葛山衆の多くは武田方の属し存続する。        (長野県史)

○二月十五日、武田晴信の兵、長尾景虎の属城信州水内郡葛山城を攻めて、之を陥る。尋いで、景虎、色部勝長等の参陣を求めて、晴信の軍に備ふ。
                           (信濃史料叢書)
○  於于去二月十五日、信州水内郡葛山地、頸壱被討補條戦功無比類候、
   弥忠信可為神妙者也。謹言
    弘治三年三月十日            晴信(朱印)
      内田監物殿
         (「信濃史料叢書 内田文書 山形県吉川吉蔵氏所蔵」)

○  於于去二月十五日、信州水内郡葛山地、頸壱被討補條戦功無比類候、
   弥忠信可為神妙者也。恐々謹言
    弘治三年三月十日            晴信(朱印)
      諏訪清三殿
       (「信濃史料叢書」 三澤文書 諏訪市本町 三澤清美氏旧蔵)

● 二月十五日、武田晴信、信州葛山城合戦に於ける窪川宮内丞の戦功を賞する。
   去る二十五日、信州水内郡葛山の地に於いて、頸壱つ討ち捕る条、戦功の至り感じ入り候。いよいよ忠信を抽んずべきものなり。仍って件のごとし。
    弘治三年三月十日            晴信(龍朱印)
窪川宮内丞殿
   





 同様の文書の宛先
小井弖藤四郎殿。千野靭負殿。溝口殿。篠原藤十郎。土橋対馬殿。内田善三殿。程原左衛門尉五郎。岩下藤三郎殿。三井助七郎殿。小林新兵衛殿。志村禅左衛門殿。室賀兵部大輔殿。春日甚之丞。諏訪清三殿。
溝口宛。

●二月十六日
   信州鉾楯の儀、去々年駿府のご意見を以って、無事に属し候き。然れど
もその後の例式晴信の刷曲なき儀どもに候と雖も、神慮といひ、駿州御
刷といひ、この方より手出し致すべきに非ず候條、堪忍に及び置き候。
今度晴信出張し、落合方家中引き破り候故、葛山の地落居、これにより
島津方も大蔵の地へ先ず以って相移られ候。この上のことは是非に及ば
ず候間、爰元の人数悉くかの口へ合せしめ、景虎も中途に至り出陣候。
雪中御大儀たるべく候と雖も、夜を以って日に継ぎ、御着陣待ち入り候。
信州味方中滅亡の上は、当国の備安からず候。今般に至っては、一廉の
人数以下相嗜まれ、御稼この時候。恐々謹言
     二月六日     長尾弾正少弼 景虎
色部弥三郎殿 御宿所
(「信濃史料」色部家文書)
筆註
鉾楯= むじゅん   刷曲=かいつくろい

●二月十七日、武田晴信、内応した高井郡山田左京亮に、本領同郡山田を安堵し、大熊郷を宛行う。                     (長野県史)
   今度最前に降参、祝着に候、仍本領五百貫之地、不可有相違、又為新恩
大熊郷七百貫文之所出置候、弥忠節肝要二候者也。仍如件。
  丁巳三年二月十七日 晴信
 山田左京亮殿
(「山梨県史」中世ニ 県外文書 東京都の部)

●二月廿一日、後奈良天皇伊那郡文永寺再興を山城醍醐寺理性院に令する。ついで文永寺厳詢、信濃に下り、武田晴信に文永寺再興を訴える。(長野県史)



●二月廿五日、武田晴信、越後軍の高井郡中野への移動を報じた原左京亮・木島出雲守に答え、城を固めさせる。ついで原・木島、越後軍の出陣を晴信に報じる。                         (長野県史)

●三月九日、晴信、神長(守矢頼眞)宛文書
急度一筆を染め候意趣は、当社御頭役近年怠慢のみに候か。然らば一国
平均の上、百年已前の如く、祭礼勤めさすべきの由存じ候のところに、
十五箇年已来兵戈止むを得ざるにより、土民百姓困窮す。殊には嶋津・
高梨等今に令に応ぜず候間、諸事思慮の旨あって、これを黙止し畢せぬ。
必ず嶋津・高梨当手に属せば、某素願の如くその役を勤むべきの趣催促
に及び、難渋の族に至っては、先忠を論ぜず、成敗を加ふべく候。云々
     三月九日       晴信
      神長殿

●三月十四日、是より先、木島出雲守等、長尾景虎の兵の信濃に入るを、武田晴信に報ず、是日晴信、信濃に出陣せんとし、その旨を出雲守に報ず。
   宛  木島出雲守・原左京亮殿
   (長野市長門町 県立長野図書館所蔵   信濃史料叢書 丸山史料)

●三月十八日、
   信州口の儀に就いて、態御切紙祝着千萬に候。再三啓し候如く、今度の
儀は、是非行に及ぶべき覚悟に候間、今般の儀候間、如何とも早速の御
働待ち入り存じ候。景虎ことも漸く出陣せしめ候。ご用意本望たるべき
間、それ以来かの口の儀、相替りたる子細これなく候。御心安かるべく、
万々面上を以って申し承はるべく候。恐々謹言
   二月十八日         長尾弾正少弼 景虎
   色部弥三郎殿 御返報
(「信濃史料叢書」色部家文書)

●三月廿三日、武田軍、高梨政頼を飯山城に攻める。政頼、落城の危機を訴え、長尾景虎政景に救援を請う。この日景虎、越後長尾政景に出兵の決意を告げ出陣を促す。                       (長野県史)

   信州の儀に就いて、度々啓せしむる如く、この度に至っても更によんど
ころなき子細候間、見検致すべきにあらず候。さりながら、出陣の日限
等のこと、かたがた申し談じ進むべく候ところ、景虎出馬遅々に候へば、
高刑飯山の地を打ち明くべきの由、頻りと申し越され候。左様にこれあ
らば、いよいよ節義を失い候条、明日(二十四日)籠もり立ち候。毎度
申し宣ぶる如く、いよいよ御大儀たるべく候。早速の御着陣簡要に候。
恐々謹言
      三月二十三日           弾正少弼 景虎
越前守殿(長尾政景)
        (「信濃史料叢書」 県立長野県図書館所蔵文書)

●葛山城を攻落した後、武田軍は川中島一帯の長尾方の一掃を続行していた。景虎は雪の為に出陣することができず、晴信も三月十四日には、まだ甲府いた。そこへ川中島より注進状が届き、越国衆が出陣するのとの報に接し、自らも出馬すると伝えている。                (甲府市史)

●三月廿五日、甘利信州立。     (王代記 山梨県大井大俣神社旧蔵及)

●三月二十五日、甘利(昌忠)、信州へ立、十月十六日馬入、窪川孫次郎討死。
廿三日、是より先、武田晴信の軍高梨政頼を水内郡飯山城に攻むるにより、政頼、長尾景虎に救援を請い、この日、景虎出兵せんとし、同政景の出陣を促す。

●三月二十五日、是より先、長尾景虎、善光寺に兵を進め、高井郡やまだ要害・福島等を鎮定す。是日、景虎、水内郡旭山要害を再興し、晴信の軍に備ふ。
      色部弥三郎殿   長尾景虎(花押)
(「信濃資料」色部家文書)

弘治 二年 1556】

☆六月中旬、信玄公、伊那へ出馬。七月・八月・九月と合わせて四ヶ月間で伊那を平定する。成敗した武将は、溝口殿・松島殿・黒河内殿・波部殿・小田切殿・伊那部殿・殿島殿・宮田殿。               (甲陽軍艦)


●三月十一日、武田晴信、水内郡静松寺住持に葛山衆の盟主落合一族を切り崩し、武田方へつかせた功を賞する。              (長野県史)

● 五月十二日、香坂筑前守宛書状
   八郎丸之郷百貫之内、定所務六十五貫四百文之分出置候、相残所者、速
可奉納者也。仍如件。
     弘治二年五月十二日
    香坂筑前守殿
(「山梨県史」資料編中世ニ 県外文書 長野県の部 上水内郡牟礼村 高野家文書)

● 六月二日、武田晴信判物写。
   綿内領之内、隠居免三百五拾貫文之所進置候、恐々謹言
     弘治弐年六月二日  晴信(花押影)
    井上左衛門尉殿
(「山梨県史」資料編中世ニ 県外文書 長野県の部)


 市河文書 年不詳 武田家感状写 (北佐久郡浅科村、市川育英氏所蔵)
●六月廿七日、
   小幡尾州へ津金修理亮を遣はし候、そこ許に於いて諸事馳走肝要に候なり。謹言
       六月廿七日             晴信(花押)
     市川右馬助殿
     同 右近助殿          
読み下し (信濃史料叢書)
  

●六月廿八日、武田晴信、大須賀久兵衛尉に、欠落(かけおち)した被官人を還住させる。                       (長野県史)

● 六月二十八日、長尾弾正少弼(しょうひつ)入道宗心、
長慶寺衣鉢(いぶ)侍者禅師(天室光行)宛文書
   ―――景虎出奔―――   
(前文略)
  信州は隣国であることは勿論ですが、村上方をはじめとして井上・須田・
嶋津・栗田その他の人々が私を頼ってきました。ことに高梨家とはとりわけ親しくしている仲ですから、そのまま見捨てておくわけにもいかず、すでに信州が過半晴信のの手に入り、もうじき信州全部が晴信にとられそうなようすもあったので、両度出陣し、去年(弘治元年)は、旭山城に向かって附城を造り、旭山城をとりこにした上、晴信と興亡をかけた大決戦をしようとしたところ、負けそうになった武田方は和睦を申し出、駿河の今川義元に頼んで誓詞や講和条件などを示してきたので、いろいろ差し障りがあったが、それを承知し、旭山城を壊し、兵を引きました。そこで信州の味方は今も無事に暮らしています。
(弘治二年)六月二十八日
長尾弾正少弼入道宗心
長慶寺衣鉢(いぶ)侍者禅師
(「川中島の戦」小林計一郎氏著)

● 八月十七日、謙信、政景あて文書
   私が隠居を決意したのは決して偽りではないが、あなたをはじめ国中の人々が自分を止めてくれる心を振り捨てるわけにもいかず、また私が戦争を怖がって隠居するのだといわれるのも心外だから、あなたの意見にまかせて隠居を思い止ります。
(「川中島の戦」小林計一郎氏著)











市河文書
●七月十九日
○別而可抽忠信之由、承候間、安田遺跡出置者也、恐々謹言
    弘治二年七月十九日   晴信(花押)
  市川孫三郎殿

●八月二日、武田晴信、水科修理亮に、善光寺と甲府の行き来につき、一カ月馬二疋ずつの諸役を命じる。                 (長野県史)

●八月八日、武田晴信、真田幸隆に東条氏の埴科郡雨飾城の攻略を促す。ついで幸隆、同城を落とす。                   (長野県史)

● 東条普請の儀、頼み入り候旨一輪を染め候ところに、すなはちその意に応ぜられ、自身着城あり、辛労の至、ことさら去年以来還附未だ安居あるべからず候ところに、かくの如きの儀、誠に以って謝するところを知らず候。いよいよ相挊がるるに就いては、快悦たるべく候、恐々謹言
    八月廿五日                晴信(花押)
   西条殿           (長野史料叢書 山形県西条信武氏所蔵)

●九月吉日、武田晴信願文(「山梨県史」中世資料県外文書 山形県の部)


☆市河文書 年不詳 武田家感状写 (北佐久郡浅科村、市川育英氏所蔵)
●十月廿七日、
(武田晴信)朱印
   其方俵物借用之人、無相違可弁済候、有難渋之族者、可有注進候也。仍
如件。
        十月廿七日
☆ 十月下旬、秋山伯キ守の相備え、坂西(ばんざい)・市野瀬・知久・春近衆合わせて二百騎が秋山の与力。秋山の城は高遠城に置く。
☆ 飯富三郎兵衛の相備え伊那衆、松尾百騎、下条百五十騎・松岡五十騎と武功に優れたもの五十騎を加え、三郎兵衛の二百騎と合わせて五百騎。
☆ 小山田備中は尼飾城(長野市松代町 越後に逃げた東条氏の居城)
☆ 春日弾正は海津城。和田・余里・布下・楽岩寺から武功の優れた三百騎、当初からの百五十騎を合わせて四百五十騎。
信州の香坂の苗字を受けて春日から高坂弾正となる。
川中島衆の西条・清野・芋川などが高坂の相備えとなる。
☆ 二の郭は足軽大将、小幡山城の子息又兵衛

●十二月二十三日、武田晴信、岩波八郎右衛門尉に諏訪郡金子・栗林の地を充
行する。                  (信濃資料叢書 岩波文書)

● 十二月二十四日、是より先、武田晴信西条知部少輔をして、水内郡小田切方川北の本領を安堵せしむ、是日、晴信更に更級郡、原・今里の地を充行ふ。
(信濃資料叢書 西条文書)
   原・今里の儀について、香坂入道より様々承る旨之条、当分相違覚悟の
外に候、何時に候とも、小田切方川北の本領一両箇所安堵に至っては、
先判の旨に任せ、原・今里相渡すべく候。この趣先書に染むといえ雖も、
若し疑心あるべきの由、校量せしめ候間、重ねて書き出すところなり、
仍って件の如し。
    弘治二年十二月二十四日       (朱印)
      西条治部少輔殿

☆市河文書(市川育英氏所蔵)
●十二月二十六日、武田晴信、市河右馬助に、兵糧米の保管を保証する。
   其方所持之粮、預置信州佐久郡之処、悪党巳下威敗之砌紛失之候間、於自今以後不可有相違候条、可被存心易者也。仍如件
        弘治二年十二月廿六日    晴信(花押)
    市河右馬助殿
     同右近助殿

   その方所持の粮米、信州佐久郡に預け置くのところ悪党巳下成敗の由に
候の間、今より以後に於いて相違べからず候条、心易く存ぜられるべき
ものなり。仍って件の如し。

筆註
 同様の文書が「山梨県史」資料編5 中世ニ 県外文書 長野県の部に「武田家朱印状」p717に掲載されている。(龍朱印)で晴信花押は見えない。
           

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