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<市川文書に見える勘助の名前。この一書で勘助は再生した>
勘助誕生地。吉野家(「歴史読本所収」)
市川文書関連調査
市川姓について
市川イチカハ.市河と通じ用ふ。和名抄甲斐園巨摩郡に市川郷ありて「以知加波」と註す。此の地は残簡風土記に「市川公穀六百七十二束、かり假粟三百六十三丸、市川神社圭田五十六束三字田、敏達天皇元年十二月。
所祭大山祇也、」と見ゆ。
市川氏は此の地よリ超リしと云ふ者多けれど、出自に關しては異説頗る多し。猶ほ市川なる邑名は山城以下諸國に多ければ、必ずしも甲州発祥とのみ限るべきにあらざるなリ。
○桓武平氏城氏流
東鏡(あずまかがみ)治承四年八月條に市河別當行房見ゆ。安閏三郎、工藤庄司と共に鎌倉に住す。(建長中の記、市河六郎別當、市河前司)。其男五郎行重也。曾我物語に甲斐国の佳人市川党に別當太夫が次男別當次郎定光(異本に行房の二男次郎行光)見ゆ。此の市河氏に關しては、東鑑寛元二年七月廿圓條に「今日落含藏人泰宗、並に市河の女子藤原氏等(見西旧妻)一七衡日荏柄杜壇に参籠し、起請を書き進すべき由、対馬前司、同(河
勾)平右衛門尉等を奉行となし、之を仰せ付けらる。此上平右近入道寂阿、鎌田三郎入道西仏等を御使となし、検見を加ふべき由云々、是市河掃部允高光法師(法名見西)}藤原氏を訴申して云ふ、泰宗に密通するの由云々、女論じ申すの間此議に及ぶ云々」と。次いで同二年八月三日條に「市河女子藤原氏事、、荏柄杜に於て落合藏入泰宗と密通せざるの由起請文を書く、参籠せしむるの間、御使者寂阿西佛を.以て検見を加えらるふの処、七日七
夜其失なきの由、各之申す。仍て市河掃部助入道見訴へ申す処の信濃國般山内青沼村、伊勢国光吉名、甲斐国市河屋敷は氏女をして之を領掌せしむべく、市河屋敷に至っては兵女一期の後、見酉.子孫に給ふべきの由、今日之を定めらる。氏女は見西旧妻也。相嫁せし始め若し離別せば件の所々を知行せしむるの旨契約をなすの間、契状に任せ充賜ふべきの趣、兵女訴訟あるの時、泰宗と密通するの旨見西之を申す。之を闘かれ難きに佼て起請参籠等の沙汰に及ぶ云々、」と見ゆるにより、甲州市川より起りしや明白
と云ふべし。出自に関しては、甲斐国志に「「東鑑に市川別當行房あり、大石寺本曾我物語に一河蛾城太郡と記調せリ。按ずる城氏は平維信の後より出づ。然れば後の帝河氏と云者は本城氏にして、平姓なりしにや、」とあリo
○橘流(或は源姓)
前條市川と同一ならん。されど家譜には橘氏にして、代々甲斐国市川庄に佳せしにより家号とすと云ひ、寛政系譜には清和源氏義光流に収む。また家傳に秋山光朝の後なりと云ふ、昌忠よ系を起こす、家紋丸に松皮菱、支
流二あり、一葉楓。梅隠斎義長、宮内之介、備後守、七郎右衛門家光、十郎右衛門ら甲斐国志に見えたり。魯
○信州城氏流
この市川氏の家系に「市河籐若」なる人物が含まれているのか。
信濃園高井郡市川村市川城に依る。市川城は眞砂、水内郡に収む、箕作村上山にあリ、上杉幕下市川駿河定顕之に居る。信濃市川氏は東鑑寛元二年()1244八月篠に.「市河掃部助人道見酉所領、信濃國船山内青沼村、甲菱國市河屋敷」等見ゆるにより、甲菱國西八代郡市川氏と同族なるを知るべし。建武年間、市河刑部大夫助房、同舎弟左衛門九郎倫房、同左衛門十郎経助等あり。市河文文書ニに、信濃國市河左衛.門六郎助房、謹んで言上す。早く相伝知行の旨に任せ、安堵の國宜を下賜せられ、末代の亀鏡に備へんと欲す。信州高井郡中野西條内、田地参段、在家壱宇、並志久見郷総領職、賀志加澤村等事云々、元弘三年(1333)十月日と見えたり。
○信州安田流
信濃國佐久郡大澤村荒山城は市川和泉義信の居城にして、件野の属城なり。義信は件野刑都の姉婿に當る。此の市川氏は安田義定、総州松戸郷
市川に佳む。三男志摩太郎忠義、市川を氏とするに出づ。義定十六代源五郎長義和泉と號す、嫡子和泉義信也と伝ふ。
○武藏武田流
新編武藏風土記多摩郡四ツ谷村市川氏條に、「家伝に云、先祖市川別當太郎源忠隅入道梅印は、薪羅三郎義光の苗裔にて、甲斐国八代郡市川上の宮に佳す。困て市川を氏とす。武田氏に仕へて戦死す、二男を忠次と云、かれは故ありて小田原北条属し、武州神護寺の城主北傑陵奥守氏照の旗下となれり。北條家落去の後、兄右近と共に民間に潜み此地に來り佳し、其の所を上の宮と云り。本國の地名を取て名づけしとかや。寛永の初四ツ谷村洪水の爲に退転に及ベリ。因て其時の御代官守屋佐太夫の許容によりて再ぴ開墾をなせし由なり。しかるにこの家のものに、其時纔己と家来三人.各家居をなし、含せて四軒あリし故四屋村とはなづけしよしを書せり。是誤りなり、四屋の名それよ以前の称呼なり。
、末にのする守屋敷左太夫より渡せし文書、今にこの家に所持す。其文を見てしるべし。先祖内匠より今の三左衛門まで十一代に没べりといふ。馬鞍二・口を藏せり」と云ひ、また田中村市川氏條に「家系一巻を傳へたり。其祖先は新羅三郎義光の男市川別當刑部郷阿奢梨覚義なり。この人帯刀先生義賢の昧方として大藏の館に有しが、義賢討れし時、其家臣馬場兵衛次郎頼房・同源次郎頼直等七人と共に当所落ち來りて居住す。覚義の子二人あリ、長男は覚光と云ふ。甲斐国市川の別当と.なれり。二男小十郎射倶義は父と共に爰に住す。それより数代の後市正教光云し者、元弘二年新田義貞に属し、.鎌倉合戦の時由比ガ浜にて討ち死にす。其子五郎忠光は新田義興に従い、当国矢口の渡にて戦死せり。按に太平記等に教光がことは所見なし。五郎は延文元年十月十日,竹澤右京亮良衡等が為に、義興矢口の渡にて自殺せし時、從者十三人(或は十二人と云)の内なリ。此人及び土肥三郎衛門、南瀬口六郎三人は水底を潜り向の岸に至りて、敵多く討取、遂に戦死すとあり。また異本大平記には市川五郎右衛門と載たリ、忠光討死せしかば、其弟十郎正光父の家を継いで当所に佳す。此人より七代の後、重左衛門光清は甲斐国武田家.の旗下に属して其の国移住し、後に伊賀守を受領す。その子重左衛門も後伊賀守と云、信玄より一字を賜はり信治と名乗リ、天正三年同国韮崎にて戦死せりと云。
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