山本勘助資料室

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勘助の実在を証明した『市河文書』について
さてこの勘助の実在を示す『市河文書』(重文指定)とは、昭和44年に北海道釧路市松浦町の市河良一氏は、信玄時代に活躍した北信濃豪族の豪族市河藤若の末裔で、明治になった頃北海道の開拓に渡った家柄である。この藤若については、後の信玄北信濃侵攻の際に触れたいと思っているが、ここではこの文書の持つ意味について、少し話して見たいと思う。
 私は仕事の合間に数ヶ月にかけて「市川文書」について調査してみた。
そして様々なことがわかってきた。文書は鎌倉以前のものから武田信玄・徳川家康にいたるまで積年のものが、長野県の小谷市川家に保存されていた。それが時代と共に数奇な運命を経て、現在は山形市の本間美術館に納まっている。しかしそれが文書の全てでなく、多くの文書は散逸したままである。そうした文書を含め、武田晴信が市川籐若宛に出した文書が三通あり、その発給年代は記載されていないのものを、「信濃史料」と「山梨県史」が弘治元年と弘治三年に推定挿入した。残りに十二月の文書には推定年令は書かれていない。先の二通の内の一通が下記の文書である。山梨日々新聞社連載の「山本勘助」では2通の文書を同じ時期のものとして編集されたが、これは大きな疑問が残る。その内容に不確かな箇所があるからである。(別記)
  
『市河文書』
  注進状披見。影虎至爾野沢之湯進陣
  其地へ可取懸模様、又雖入武略候、無同意、剰、
  備堅固故、長尾景虎無功爾飯山へ引退候哉、誠心地
  能候。何ニ今度其方擬頼母敷迄候。越中、野沢
  在陣之砌、中野筋後詰之義、預飛脚候き、則倉
  賀野へ越、上原与三左衛門尉、又当手之事も、塩田
  在城之足軽為始、原与左衛門尉五百余人、真田に
  指遣候処、既退散之上、不及是非候。全不可有
  無首尾候。向後者、兼存其旨、塩田在城衆ニ
  申付候間、従湯本注進次第ニ、当地へ不及申
  届、可出陣之趣、今日飯富兵部少輔へ成下知候
  条、可有御心易候。猶可有山本管助口上候。
   恐々謹言
     六月廿三日        晴信(花押)
    市河藤若殿
    
《読み下し》
 『市河文書』(山本勘助実像 別冊『歴史読本』1987年判)
 『甲陽軍艦』に登場する謎の武将・勘助の真の姿とは
 上野晴朗氏著より

注進の状披見す。よって影虎野沢の湯に至り陣を進め、その地へ取り かかるべき模様、また武略に入り候と雖も、同意なく、剰、備え堅固ゆえ長尾効なくして飯山へ引き候よし、誠に心地よく候。いずれも今度のその方のはかり頼母敷くまでに候。なかんづく野沢布陣の砌り、中野筋の後詰の儀、飛脚に預り候き。品即ち倉賀野へ越し、上原与三佐衛門尉、又当千の事の塩田在状の足軽を始めとして、原与左衛門尉五百余人、真田へ差し遣し候処、すでに退散の上是非に及ばず候。まったく無守備に有るべからず候。向後は兼てその旨を存じ、塩田の在城衆へ申しつけ候間、湯本より注進次第当地へ申し届けるに及ばず出陣すべきの趣、今日飯富兵部少輔の所へ下知をなし候條、御心易く有べく候。
{筆註―剰(あまつさえ)}
なお山本管助口上有るべく候。恐々謹言。
 六月二十三日    晴信 花押
《訳》
注進状を読んだ。景虎が野沢の湯に陣を進め、その方の地へ責めかかる様子を見せ、また、先遣隊などが攻撃をしかけたが、とりあわず、防備を堅固にしたので、長尾景虎は功なくして飯山へ退いたそうだが、誠に心地よいことである。景虎が野沢に布陣中、中野筋へ後詰めするように飛脚をもらった。そこで倉賀野にいる上原与左衛門尉に応援を命じ、塩田在城の足軽をはじめ、原与左衛門尉ら五百余人を真田幸隆の指揮下に入れ、後詰めに差し遣わそうとしたが、すでに景虎が退散したので、間にあわなかった。決して処置を怠ったわけではない。今後は塩田在城衆に申し付けておくから、湯本から注進があり次第、私にことわらずに出陣せよと、今日、飯富兵部少輔に命じておいたからご安心願いたい。
 なお、山本管助が口上で申し上げる。   
この『市河文書』は信玄の花押(かおう)もあり、調査に関わった長野県信濃史料編纂室の人々から真筆であると確認されたもので、それまでは「勘助実在疑惑」説が歴史界を覆っていたが、この文書の出現により、それまでの勘助に対する認識が改まる結果となり、それまで定説となっていた田中義成氏の「勘助は単なる武田家の一兵卒にすぎず、山縣三郎兵衛に所属していた」といったせつが定説となっていた。この文書で大切なのは、文面の内容が当時の弘治3年(1557)の戦況と一致しているかどうかである。これについては多くの先生方が合致していると言われている。ここで私が問題提起したいのは、この書状を勘助が持参しているということと、それ以前に市河藤若から信玄に注進状が届いていることである。
「山本管助が口上で申し上げる」の内容は伝わらないが、勘助はこの年、64歳であり、事実であれば、それは驚異的なことである。
 勘助は眼も手足も不具合であったいう。激しい戦況下で活動するには大変な事であり、こうした注進を伝える使者であったことなど信じられない。勘助は動かず軍師としての活躍のほうが似合っている。定説というものは「事実であるかどうか」より「誰が言ったかが」大切にされて、しかも歴史学界や考古学界の重鎮の言が効力ある。それが決定的に間違っているにも拘わらず、こうし類は多く伝わっている。
 
 この市川文書については調査報告があるので、参照してください。

山本勘助略歴(全て正しいとは限りません)
勘助の出自(生まれる)
    一本系図に勘助の先は駿州源氏の、吉野冠者の後胤(鎮守将軍源満政の裔、本田重賢の男、太郎重季、号吉野冠者、承久の乱京方にあり。蓋し是か。今富士郡山本村、吉野茂兵衛と云者の所蔵、天文・永禄の間、今川家文書数通、その他吉野氏の事間々見えたり)            
吉野浄雲入道貞倫累世山本村に住す。八幡宮の祝戸なり。
・ 貞倫の二男、弾正貞久、今川家に仕えあり。                       
・ 更氏云、山本兜の前立に八幡の神号を彫る。家紋三巴なり。    
・ 所領は山本の内三沢・石宮・参州加茂の内合三百貫   
・ 文明十年七月十二日戦死。于参州法名鉄関直入禅定。   
・ その男図書某(名欠)後改め弾正妻庵原安房守妹也。
・ (異本に山本弾正の女庵原の妻とあるは二代の安房守なるや)
勘助、養子になる。
・ 弾正の男数人あり。第四云、源助貞幸、年十二参州牛窪牧野右馬允の家令大林勘左衛門の養子となり、改名し勘助、年二十にして有故養家を辞す。勘助、諸国遍歴に出る。
とあるが、ここに昭和62年刊行の、『山本勘助』(山梨県出身の土橋治重先生著)の付録に「山本勘助略年表」と「系図」があるので紹介する。
 明応2年  1493  1歳  勘助、駿河富士郡山本村、山本弾正の四   男として生まれる。  一説によると、三河八名郡賀茂村に生まれたともいう。
 永正1年  1504 12歳  三河牛久保城主牧野氏の重臣、大林勘左                  衛門の養子となる。
 永正9年  1512 20歳  この年、養家大林家を辞して、修行の旅に出る。
 永正14年 1517 25歳  高野山にのぼり、摩利支天坊について兵法・軍法・城取りを修める。
 永正17年 1620 28歳  勘助、城取りの修行に出る。
*大永1年 1521 29歳  この年武田信玄が生まれる。 
 天文1年  1532 40歳  この年信玄の父、信虎甲斐を平定する。
天文4年  1535 43歳  勘助、今川家の庵原安房守忠房の厄介になり、駿河滞在は九年間に及ぶ。
*天文5年  1536 44歳 武田太郎(信玄)元服して「晴信」る。
*天文10年 1541 49歳 晴信(信玄)父、信虎を駿河に追放す。
天文11年 1542 50歳  勘助、武田家臣板垣信方に会う。
 天文12年 1543 51歳  勘助、晴信に仕える。食禄200石。
 天文14年 1545 53歳  勘助、晴信に従い伊那高遠に進軍する。
*天文15年 1546 54歳  晴信の子、武田勝頼生まれる。
 天文16年 1547 55歳  勘助、伊那高遠城を築く。
 天文18年 1549 57歳  勘助、諏訪高島城・箕輪城を築修する。
 天文19年 1550 58歳  勘助、戸石城攻撃に参加、偉勲をたてる。
 天文22年 1553 61歳  勘助、第一回川中島合戦参加。海津城築。
 天文23年 1554 62歳  勘助、小諸城を築く。
 弘治1年  1555 63歳  勘助、第二回川中島合戦に参加。
 弘治3年  1557 65歳  勘助 北信濃の豪族市川藤若へ使者として赴く。
 永禄4年  1561 69歳  勘助、第四回川中島合戦に於いて、奮戦虚しく戦死する。                  このときの勘助の年齢は56歳とも62歳ともいわれている。

「風林火山」について
 私は昭和二十五年二月に「闘牛」という作品で芥川賞を受け、翌二十六年五月に、それまで勤めていた毎日新聞社を退き、以後小説家として立っております。芥川賞を受けた二十五年から二十八、九年までの四、五年が、私の生涯で一番たくさん仕事を発表した時期であります。
 私はその頃、いわゆる純文学作品なるものも、中間小説も、娯楽小説も、さして区別することなしに書いていました。娯楽雑誌には娯楽小説を、文学雑誌には文学作品をと、需めに応じて小説を書いていたようなところがあります。折角、芥川賞作家として出発したのだから、純文学一本にしぼって仕事をして行くべきだと言ってくれる人もありましたが、しかし、中間小説は中間小説として、読物は読物として書いていて面白く、純文学の仕事とはまた異った魅力がありました。そういう点、私は余り窮屈には考えていませんでした。仕事への没入の仕方も同じであり、読物は読物で夢中になって取組んだものです。 長篇時代小説だけ拾っても、この時期に「戦国無頼」、「風と薯と砦」、「戦国城砦群」、「風林火山」などを書いております。今考えてみると、さして無理をしないでも、次から次へと作品最近この時期の作品を読み返す機会を持ちましたが、面白いことには概して読物雑誌や中間雑誌に発表したものの方が生き生きとしていて、作品として纏まっているものが多く、肩を張って書いた文学雑誌掲載作晶の方に失敗作が多いようです。三十年ほど経ってみると、文学作品にも、読物にもさして区別は感じられません。慌しく締切に迫られて書いたものでも生命あるものは生きており、正面から取組んで推敲に推敲を加えたものでも、生命ないものは、正直なものでむざんな屍を曝して横たわっていると思いました。
 ただ現在の私は、読物の形で小説を善くより、読者へのサービスをぬきにした形で小説を書く方に気持が向かっています。これは言うまでもなく年齢のためであって、私が老いたということでありましょうか。そういう意味では「戦国無頼」や「風林火山」などは、私の若かった日の作品であり、もう再び書くことのない、あるいは書くことのできない作品と言えましょう。読み返してみると、そうした眩しさを感じます。
 「風林火山」は二十八年から二十九年にかけて「小説新潮」に発表した作品で、いま読み返してみると、読者を楽しませると言うより、書いている作者自身がまず楽しんでいる作品と言えるかと思います。歴史を舞台にして、登場人物たちを物語の中に投げ込んで、それぞれの人生行路を歩ませています。主人公山本勘助に関する伝承や記述(「武田三代記」)はありますが果して山本勘助なる人物が実在したかどうかとなると、甚だ怪しいとしなければなりません。おそらく山本勘助という名を持った人物は武田の家臣の中にあったかもしれませんが、その性格や特異な風貌は「武田三代記」の作者の創作ではないかと、一般に見られています。
 私はその伝承の山本勘助を借りて、それを生きた歴史の中に投げ入れて、彼を自由に歩かせてみました。すると、彼をめぐって、到るところで歴史はざわざわと波立って来ました。その波立ちを一つ一つ拾って書いたのが、「風林火山」ということになろうかと思います。 昭和六十一年七月三日

「戦国城砦群」作者のことば
 私は戦国時代の地図を見るのが好きです。全国の、凡そ要害と呼び得る要害には必ず城が築かれるか、砦が設けられてありました。幾十幾百とも知れぬ城と砦の群れ! そしてその城砦の一つ一つには、悲惨と残虐、夢と野心と冒険1−そんな、いいものも悪いものもいっぱい詰まっていたわけです。私はこの時代をせいいっぱい生きた一人の若い武士を描いてみたいと思います。彼の持った烈しい性格は、彼に幾つかの城砦を経廻らせ、彼を幾つかの合戦に登場させます。作者は、いま、この戦国の若者に、いかなる場合も、怯者でないことを希うのみです。                     (昭和二十八年九月)

「風林火山」の劇化
 こんど私の小説「風林火山」が新国劇で劇化されることになった。小説「風林火山」は一種の騎士道物語であり、戦国女性の持つ運命の哀歓を主題にしたものである。しかし、これをいろいろの約束を持つ芝居の形にうつすことは、正直に言って、まず望めないのではないかと思っている。私は平生、小説は小説、映画は映画、演劇は演劇と考えている。殊に小説と演劇との関係は複雑である。こんどの新国劇の「風林火山」も恐らく私の小説とはかなり昇ったものになるであろうし・またなって当然である。
 原作者として、私は私の作品をどのようにでも料理して下さいと脚色者池波正太郎氏にお任せした。私は、小説「風林火山」がいかに新国劇調ゆたかな名演し物として、あざやかに変貌するかに寧ろ期待している。                   (昭和三十二年十月)

「風林火山」は書いていて楽しかった。作家にとって、小説を書くことは、大抵苦しい作業であり、私も亦、自作のどれを取り上げても、それを書いている時の苦しさだけが思い出されて来るが、「風林火山」の場合は少し違っている。楽しい思い出だけが蘇って来る。勘助、由布姫が自分から勝手に動いてくれて、うっかりすると筆が走り過ぎ、書き過ぎた箇処をあとから削るようなことが多かった。そのくらいだから、私自身、勘助も由布姫も信玄も好きである。取材のために何回か甲斐から信州へ旅行をした。勘助が馬を駈けさせたところは、どこへでも行った。自動車をとばしたり、自分の足で歩いたりした。このように、作者の私にとってこの作品が楽しかったのは、山本勘助が実在の人物ではなかったためであろうと思う。と言って、全く架空な人物かと言うと、そうとも言えない。たれでも山本勘助という名を知っているように伝承の中に生きていた人物である。実在の人物ではないが、人々の心の中に生きている人物である。
「風林火山」は前に新国劇で上演されているので、舞台にのるのは今度で二度目である。その意味では幸運な作品である。新派の方達の演ずる「風林火山」がどのようなものになるか、それを見るのが楽しみである。                  (昭和三十八年九月)

「風林火山」の映画化
私の作品の中で1風林火山」ほど映画化の申込みを受けたものはない。併し、何回映画化の話はあっても、そのいずれもが何となく立ち消えになる運命を持った。それがこんど稲垣さんと三船さんの手で、本当に映画化されるという幸運に見舞われた。しかも堂々と正面から組んだ本格的な映画化である・1風林火山」は今日まで待った甲斐があって、漸くにしてゆたかな大きな春に廻り会えたのである。
 稲垣さんと三船さんには以前1戦国無頼」を映画にして戴いたことがある。私の作品の最初の映画化であった。それから十何年経っている・最近稲垣さんと三船さんにお目にかかって感慨深いものがあった。1風林火山」は長い間稲垣さんと三船さんが手を差し出してくるのを待っていたのだと思った。それに違いないのである。                   (昭和四十四年二月)

「風林火山」と新国劇

「風林火山」は昭和二十八年から二十九年にかけて『小説新潮』に連載した小説です。発表当時、多少の反響はありましたが、現在のように.風林火山″という四字は一般的なものではぁりませんでした。時代というものは面白いもので、いかなる風の吹き回しか一昨年あたりから、「風林火山」という作品が再び多勢の人に読まれ始め、テレビに劇化されたり、映画化されたりする機運にめぐりあいました。作者の私も驚いていますが、一番驚いたのは主人公山本勘助であろうと思います。彼の作戦家としての慧眼を以てしても、自分がいまになって脚光を浴びようと予想はできなかったことであろうと思います。次に驚いたのは劇団「新国劇」の首脳部の方々ではなかろうかと思います。新国劇によって「風林火山」が最初に拾い上げられたのは昭和三十二年のことですから、十二年ほど前のことです。脚色、演出の池波正太郎氏も、島田、辰巳両氏も、「風林火山」の名が今日一般化したことで、すっかり驚いておられるのではないかと思います。
 併し、作者の私は多少異った考え方を持っています。風林火山」の名が多勢の人に知られるようになったそもそものきっせて下さったためであります。十二年前上演していただいたお蔭で、「風林火山」は今日のように有名になることができたとお礼を申し上げたい気特です。 こんどその新国劇の「風林火山」が再び舞台にのることになりました。作者としては懐かしさでいっぱいです。(昭和四十四年九月)

井上靖と風林火山
 余りにも寂しい。現在NHKで放映されている「風林火山」の原作者は井上靖である。そして彼の生誕100年を記念して、採り上げたと聞き及んでいた。しかしその周辺は主人公の山本勘助や、大型観光の展開で明け暮れ、肝心の井上靖について触れたり、紹介してものが少ない。井上文学を紐解いてみるのもいい機会だと思われるのに、残念でならない。勘助が一人歩きを始めた。何処へ行くのであろうか。

井上靖が甲斐を訪れた時の文章を紹介したい。
   「井上靖全集より」

早春の甲斐・信濃
 東京に初めて早春らしい陽の射した日、『周と雲と砦』の舞台である甲斐信濃地方に出掛けた。
 甲府に下車し、現在は武田神社の社域になっている武田信玄の居館の跡をみる。ここはいまは甲府市に編入され、古府中町となっているが、併し、市の中心地帯からは半里程隔たっている。信玄が城を築かなかったことは有名な話である。軍鑑に「信玄公御一代甲州四郡の内に城郭をかまへず、堀一重の御館に御座候」とある。信玄の居館跡は、なるほど城とは呼べないこぢんまりした地域でその四周の埠と、更にそれをめぐる内濠だけが残っている。樫、樺の老木が多い。当時の住居の正門は、現在の神社の正門とは違って東方の門がそれである。外濠の周囲には勿論近年植えたものだが、桜樹が多く、四月はさぞ見事であろうと思われる。
 信玄はここに住み、一朝有事の際のために、半里程北方の丘陵に山城を作っている。これも軍産に、「居館より二十町ばかりの地に、石水寺の要害とて山城あり、−塀もかけず候へ共先づ本城の様なるもの也」とある。さして大きい山ではないが、急峻な山である。この山には十二の段階ができて居り、各々百坪位の広さを持ち、現在、所々に石畳が残っている。国志には「本丸の長三治七間、広拾九間二ノ丸、三ノ丸と言ふあり」とあるから、城の樟構だけは備えていたらしい。山頂には井戸があり、馬場の跡も見られる。
 甲府を出て列車で一時間程行くと、韮崎に新府城の址がある。車窓から、信玄の死後勝頼が築いた城址が見える。ここは見るからに要害堅固な山であり、その城址のある山の向うに、雪を戴いた大きい山脈がのしかかるように見えている。武田勝頼は天正九年この城を築いて間もなく翌十年織田軍に攻められ、この城にも拠れなくなり、所謂天目山の悲劇へと逆おとしに突入している。
 併し『風と雲と砦』は、信玄の穀後から長篠の合戦までの三年間に物語を想定している。従って小説の世界では、まだ新府の城が出来ていない頃である。
 現在、小説の中では、俵三蔵がひめ及びその配下と共に天竜川を遡っている。三蔵は天竜川の源まで、遡って行く考えらしい二二蔵は天竜川の流れが、甲斐へ入るか、信濃へ入るか、あるいは三河の方へ折れ曲っているか知らないので、ただやたらに流れに沿って上って行きつつあるが、勿論作者はその水が信濃の諏訪湖から流れ出していることを知っている。尤も天竜川の源は大昔は甲斐に発していたらしいが、戦国時代には今と同じように既に諏訪湖から流れ出していた。その天竜川の流出ロを見たいので、諏訪湖の周囲を自動車で一巡する。湖は、例年より少し早く氷が解けたと言うことで、周囲五里の湖面のどこも氷結していない。水ぬるむと言った色ではなく、まだ黒っぼい冬の水の色ではあるが、どこかに氷の解けた許りの吻とした表情を持っている。岸辺にわかさぎを釣る人の姿が見える。
 天竜川の流出口のある地点は、丁度上諏訪の対岸に当るところで現在は勿論自然に流れ出すことを許さず、水門が造られてあり、釜石水門管理所が、その流出量を調節している。この管理所に於けるただ一人の所員は、午前八時と午後四時の二回、諏訪湖の水位を調べ、水門の鉄の門扉に依って流出量を加減する仕事を受け持っている。訊いてみると、現在の水位は標高(海抜)七五九メートル前後とのこと。その管理所の小さい事務所の窓から見ると、対岸に雪を戴いた八ヶ岳の連峰が見える。
 伊那電鉄で、天竜川に沿って下る。天竜峡までは川に沿っていないが、そこから中部天竜駅までの二時間程は、曲りくねった天竜川の流れが電車の窓から見降ろせる。風景はまさに絶佳である。その間川の両岸は切り立った絶壁をなし、その中腹のところどころに、十軒二十軒の小さい家が危っかしく建てられている。
 伊那の渓谷は、その山の色も、天竜の青黒い流れも、まだ深々と冬の中に睡り込んでいる感じだが、点々と見える梅の白い花だけが、僅かに早春を告げている。 戦国の頃、甲斐から東海地方に出るには、富士川に沿って下るか、でなければ、信濃へ出て、この天竜の渓谷を下ったわけである。野田城の攻撃中、病を発した信玄が、西上の企画を変更し、甲斐に軍を返したのも今頃である。伊那渓谷に点々と嘆いている梅の花は、雄図を翻した武人の眼に、どのように映っていたことであろうか。 (昭和二十八年三月)
私の夢

 風林火山」は昭和二十八年から二十九年にかけて『小説新潮』に連載した小説です・第一回の原稿を渡した時、担当記者のM君が1風林火山」という題名に首をひねりました。いかなることを意味しているか、よく解らないので、小説の題名としては損ではないかということでした。そう言われると、作者の私も自信はありませんでした。しかし、他に適当な題も思いつかないままに二日ほど考えてみようということになりました。
 結局のところ、1風林火山」で押し切ることになりました。風林火山」が新国劇によって最初に上演されたのは、昭和三十二年のことでした。それまで1風林火山」という題名は多少わちつ奮落着がない印象を人に与えていたのではないかと思いますが、これが舞台に取り上げられたことで、すっかり安定したものになり、堂々と世間に通るようになったかと思います。この最初の上演からいつか今日までに十七年の歳月が経過しています。作者の私も十七の年齢を加え、新国劇も亦、劇団として十七の年齢を加えたわけであります。その間に「風林火山」は何回か上演され、その度に、より完全なものとして好評名漬しものの一つになったことは・原作者として何より嬉しいことであります。お陰で風林火山」もすっかり有名になり、その題名に首をひねるような人はなくなってしまいました。こんど何回目かの上演を前にして、それこれ思い合せると、まことに感慨深いものがあります。

風林火山」の主人公は武田信玄の軍師山本勘助であります。山本勘助が史上実在の人物であったかどうかほ甚だ怪しいとされていますが、そうしたことは作者にとってはどうでもいいことであります・その存在に対してさえも甚だ韓晦的である一人の軍師に、私は自分の青春の夢を託しています。勘助は短躯で,指は欠け、眼はすがめで、頗る異相の人物であります。私はこうした山本勘助に生命をかけて高貴なものへ奉仕する精神を注入してみたかったのです。夢と言えば、信玄も作者の夢であり、由布姫も作者の夢であり・作中人物のすべてが作者の夢と言えましょう。それぞれに、まだ若かった私の夢がはいっています。(昭和四十九年五月)

<資料>
甲斐国志・山本勘助記載事項

山本勘助(諸録名晴幸に作ル未考)軍鑑に天文十二年三月板垣借方ノ挙二由リテ、勘助ヲ駿州ヨリ招ク。勘助ガ為人垣黒抄眼手足不具ナリ。晴信見テ大二悦ヒテ云容貌如是ニシテ盛名アリ。其能可知トテ百貢ノ契約ナレドモ加倍之属卒二十五人、足軽隊将ト為ス。又、増五百貨卒五十人、旗本ノ足軽隊将原・小幡等ト列シ、五人衆ト称ス。
後信玄ト同シク除髪シテ号、道鬼斎。
知略絶倫兵法ノ微妙二達ス凡ソ後世武田家ノ兵法ヲ言フ者必ス勘助ヲ宗トス事ハ載諸録テ詳ナリ。
永録四酉年九月十日河中島二戦死ス。年六十九。身千八十六創アリ。知行八百貰二至ル。参州牛窪ノ人ナリト云。
按二勘助ノ死所ハ河中島八幡原トテ、八幡ノ小祠アル処ナリ。碑高畑村二在シガ、千曲河ノ涯崩レテ、今ハ芝村大宝寺二移シ、弥陀堂ノ傍二建ツ。旧物ニハ非ズ。山本入道鬼居士ト刻ス。銘文ハ略之。又、杵淵村輿厩寺ノ牌子ニハ神山道鬼居士トアリ。
一本系図二勘助ノ先験州源氏吉野冠者ノ後胤(鎮守将軍源満政ノ裔、本田重賢ノ男太郎重季号吉野冠者承久ノ乱二京方二在り。蓋シ是力。
今富士郡山本村吉野茂兵衛ト云者ノ所蔵天文永禄ノ間、今川家文書数通其外吉野氏ノ事間々見エクリ)
吉野浄雲入道貞倫累世山本村二住ス。八幡宮ノ祝戸ナリ。貞倫ノ二男弾正貞久、今川家二仕へ功アリ。更氏云、山本料ノ前立二八幡ノ神号ヲ彫ル家堅三巴ナリ。所領ハ山本ノ内三沢、石宮、参州加茂ノ内合三百貫、文明十戌年七月十二日戦死干参州「法名鉄関直入禅定門」、其男図書某(名亡)後改禅正妻庵原安房守妹也。
(異本ニ山本弾正ノ女庵原ノ妻トアルハ二代ノ安房守ナルヤ)
弾正ノ男数人アリ第四云源助貞幸年十二参州牛窪牧野看馬允ノ家令大林勘左衛門ノ養子トナリ改名勘助年二十二シテ、有故養家ヲ辞ス。諸州二偏歴スル事三十余年、後武田家=仕へ賜、諱字義晴幸時年五十二(戦死ノ事同前)
法名鉄岩這一禅定門、
駿州富士郡山本村宗持禅院二牌アリ。
北越軍談二勘助ノ父ハ牛窪ノ牧野新二郎成定ノ被官勘右衛門某也(又云半九郎)伯父山本帯刀左衝門成氏ニ従ヒ学兵法、又同州寺部ノ鈴木日向守重辰ニ兵法ノ奥秘ヲ伝へ参州加
茂都二帰り、今川ノ家老庵原安房守忠胤ニ倚ルトアリ。軍鑑ニモ庵原二倚居ス云。上京(但シ今川家二奉公ヲ望ミ庵原二頼ミ九年間駿州二在り云云。ト記シタルハ非ナリ。勘介原駿州ノ人庵原ノ近族ナル事ヲ知ラス。歯莽上玉へキ耳)
○ 山本某
○ 勘助ノ男ナリ名未詳。一本系図作二勘蔵信供。天正壬午ノ後云云ノ事アリ。軍鑑云子息両度場数モ有リシカト長篠ニテ討死ナリ(伝解源蔵二作ル)
源三郎ハ三国志ニモ見ユ幕府二奉仕壬午ノ起請文二同主殿助卜二人武田ノ近習衆トアリ、未夕勘助ノ男子ナリヤ否ヲ知ラス。又一系二饗場越前剰長ノ次男十左衛門頼元云者勘助ノ娘ヲ妻トシ山本氏ト改メ其男権平仕二永井信濃守森二山本勘助一上玉府中妙音寺過去帳二寛文十一亥正月二日
本覚院智証日意(山本勘助母)トアリ
○ 山本土佐守 
○ 所祖未詳。羞シ本州二旧ク伝ハル氏ナルへシ土佐ハ武河南営二住セシト言ウ。彼士庶部ニモ記セリ。軍鑑ニ小人頭十人ノ列、横目付衆ナリ場数十一度ノ証文アリ一本系図二土佐ノ男弥右衛門、弥三左衛門、三看衛門
(壬午ノ起請文二小人頭山本孫看衛門昼屏アリ大坂軍記等二千本槍甲陽ノ旧臣云云山本弥五右衛門ト記セリ何レカ誤写ナラン)
弥右衛門ノ女嫁石坂金左衛門其子為山本嗣云、弥鵜衛門子孫武州八王子二在り。又一本二土佐守政道ノ男山本与次左衝門政法ヨリ系スル者アリ
○山本大琳 軍鑑二伽衆トアリ医師ナリ幕府二奉仕ノ子孫有り

○山本帯刀成行
○山本帯刀成行 始ヨリ幕府二仕フ烈祖成績云、永禄十一年辰三月命帯刀修築城郭改引間日浜松 (徳川歴代云帯刀甲州人勘介弟名重頼今従二松栄記事一)
参河風土記二帯刀ノ事載ス。始名ハ新四郎在越後、即チ勘助ノ弟ニテ兵学二達セシ由ナリ。後二幕府二奉仕シ賜五千石、但シ名頼重二作ル本州ニハ曽テ所聞ナシ。

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