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快川国師…戦国期武田氏の京都外交−本山系寺院を中心に(ホ−ムぺ−ジ)
(略)三、臨済宗……鎌倉末に建長寺開山の蘭渓道隆が二度にわたって甲斐国に配流されたことや、南北朝期に夢窓疎石が塩山に恵林寺を創建したこと、さらに抜隊得勝が塩山の向岳寺を創建した。云々
(略)策彦を快川和尚が弘治二年(1556)美濃の嵩福寺へ帰った直後の住職とする従来の説には問題が残る。開山派の僧で最初に入甲したのは、信玄幼時の師僧、除髪の導師ともいわれている。その法兄の鳳栖玄梁が天文十三年(1544)に恵林寺住職となり同二十年(1551)に駿河の清見寺へ移った後、通説では月航玄津、天桂玄長とあいついで妙心寺僧が住持し、ついで前述した快川紹喜・策彦周良・希庵玄密をへて、永禄七年(1564)十月に快川和尚が再任したとされている。
(略)快川国師の場合、永禄十年(1567)十一月には織田信長に攻められて美濃を追われた斎藤竜興(一色義棟)と信玄の間を仲介しており、(略)恵林寺の快川和尚が、前年からの武田・斎藤同盟交渉の中心的な役割を果たしていたことは明らかである。
(略)天正九年(1581)八月には、衰退が歴然としてきた勝頼を援護するため、快川が働きかけて信長との和睦を画策している。この事実は『甲陽軍艦』(品五十七)や『信長公記』(巻十四)にもみえて、そこでは劣勢となっていた勝頼が信長の歓心を得るために、信玄の代から人質として、甲府に止めておいた五男の御坊丸(織田勝長)を安土に送り返したが、信長はそれを無視して甲州攻めを敢行したいう内容である。(略)
筆註…
諸資料から美濃と甲斐、信玄と禅僧それに、武川長助…快川紹喜…禅昌寺…恵林寺…山梨県牧丘竹川(武川)が線上に並びます。恵林寺と牧丘町は近接している。そこで禅昌寺にも恵林寺にも関わりをもつ快川紹喜について『禅文化』から抽出してみると、そこには新たなことが見えてくる。
快川国師の生涯
(『禅文化』所収 横山住雄氏著 濃尾歴史文化研究所主宰 抜粋)
一、従来の説
快川は美濃土岐氏の出身といわれている。これは『延宝伝灯録』という江戸前期の禅僧の略伝集に、「快川紹喜国師は源姓、土岐氏族なり、濃州の人なり」と書かれているのが出典らしい。云々 戦前から戦後にかけて、岐阜県の郷土史界で活躍した故佐藤弥太郎氏は、ある人の話として「加茂郡飯地村の生まれ」だと聞いた。佐藤氏もその人に聞いたところ、「恵那市飯地(旧加茂郡域)が快川出生地である」とのことだった。
(略)佐藤弥太郎氏の『笠松町史』に別説が掲載されているとして、「笠松町に門間に臨江山弘済寺があり、同寺の由緒では、天文六年(1537)に岐阜市長良の嵩福寺の快川和尚が創建したといい、快川は土岐氏の代官で北門間の道左京進の三男である」という。大正四年の『美濃国稲葉郡志』には「快川紹喜は土岐氏 の一族」、『岐阜市史』の嵩福寺の条で「三世は美濃土岐氏の出身で仁岫(にんしゅう)の法嗣、快川紹喜」とあり、その出自は土岐氏をとりものが多いとして出典をあげる。
快川の出自 出 典
• ▽ 土岐氏説 『美濃国稲葉郡志』・『延宝伝灯録』・『岐阜市史』
• ▽ 斉藤氏説 『嵩福寺由緒』 物堂和尚(延宝九年寂)筆
• ▽ 道家氏説 『笠松町史』・『弘濟寺過去帳』・『永禄七年恵林寺再住法語』
快川出生地 出 典
• ▽ 葉栗郡門間村 『笠松町史』・『弘濟寺過去帳』
• ▽ 葉栗郡足近村 『嵩福寺文書』「嵩福寺由緒」
• ▽ 加茂郡飯地村 八百津町和知出身の渡辺郁郎説
二、史料による出自
• ▽ 弘濟寺過去帳メモによる系図
道家左京進……… 弥太郎
快川紹喜
横山氏は「嵩福寺の物堂和尚が、快川を斉藤氏の出身としたのは、斉藤氏の重臣の出というのを誤聞したのではないかとも考えられる」としている。
快川紹喜の出生年次については、
『恵林寺略史』によれば、快川は文亀元年(1501)あるいは文亀二年の生まれとあり、天正九年二月に記した語録『見桃録』には「武田信玄母の心月珠泉大姉十七回忌の仏事法語(永禄十一年)」、天正九年(1581)跡部勝資に与えた道号とそれに因む法語が写し加えられている。云々
永禄七年(1564)十一月に快川が恵林寺へ再住した際の入寺法語には「黒き沈水となって五十二年」と自ら述べており、逆算すると永正一年(1513)にはじめて黒染めの衣を着て僧となったことが確認できる。明応六年(1497)の出生であれば、満十六歳での出家となり、少し遅い入門の感がある。従来の説では十二歳の入門となり、説得力もある。云々
『増上寺史料』によれば、「快川紹喜国師成の時書上」によれば「姓源氏尾陽人、幼而奇逸、七歳入濃陽之嵩福得度、三十而立、五十而奉先皇勅出世、云々」とあり、七歳で得度し永禄七年に五十九歳だったことになる。そして永正三年(1506)の出生で天正十年に七十七歳で亡くなったことになる。云々
『恵林寺略史』には「快川は諱を紹喜という、幼少時、美濃天衣(てんね) 寺の隠峰紹建について出家した。その後、永正十六年(1519)同門の雲外玄嶂とともに嵩福寺に入り仁岫のもとで修業に励んだ。云々(略)のち、雲外玄嶂が天正七年(1579)三月二日に亡くなり、府中(甲府市)へ来た客からこれを聞き及んだ快川は「雲外和尚の遷化を聞く」との一文を草している。文中で、若かりし頃のことを回顧して快川は、嵩福寺中興の仁岫が言うに、「ある人一人の僧が夢中に出てきて、水をたたえた盆に二匹の竜の子を載せていた」と。その翌日のこと、隠峰が玄嶂が玄峰と紹喜に、仁岫に付属すると告げた。間もなく隠峰 が示寂し、その数日後に仁岫が笑って二人に夢のことを話してくれた。そどて「汝らがミミズになるか僧龍になるかは努力次第である」ともいった。また、後に誰かが「雲外は美濃の南方にあってその門を盛んにし、快川は甲府の東北にあって宗を立てた」と言うのを聞いたと述べている。
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