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 警察力の無能

 第二に代官行政における警察力の無能ぶりである。
竹居安五郎通称吃安が、島破りして在所の武居村に戻ったのが、安政五年(1758)、彼が捕えられたのが文久二年(1863)である。島の名主を殺し島破りをした重大犯人
を、石和代官では実に九年間も逮捕することが出来なかったのである。
 それも吃安の用心棒で無頼の浪人を、過去の罪を帳消しにするからという約束で、代官
所の味方につけての末である。
 ここで当時の代官所の構成を述べておく。
 代官陣屋は、はじめは甲府、上飯田、石和、三陣屋だったが、天明年間(1781〜8
9)に上飯田が廃されて、代って市川大門に陣屋が建てられた。他に郡内地方の谷村に陣
屋があったが、これは石和代官所の役人が代行していた。また郡内の一部は、韮山の江川
代官所が行政権をもっていた。

 陣屋詰   谷村詰  江戸詰
  甲府代官所  13名  12名   25名
  石和代官所  12名 6名   8名   26名
  市川代官所  12名   9名   21名

この機構人員でも判る通り、約五万石前後の支配地を持つ代官所の役人では、とうてい集
団的な暴力や、多数の輩下をかかえる親分に対しては手も足も出なかった。
 だから一稗の無法地帯の観もある。全国各地から凶状持ちや、無宿者が陸続と流れこ
む。吃安を裏切った用心棒の犬上郡次郎も牢破りして甲州へ来た男である。大前出典五郎
の弟分の英次も、人殺しをした後甲州郡内の博徒の客分になっている。国定忠治も司直の
手をのがれて逃げこんでいる。
 文化から文久(1804〜1863)にかけてが、甲州博徒の全盛期で、各村誌や古老
の云い伝えを総合すると、吃安の子分二千人を筆頭に、一家をかまえた博徒一家が約四十
五、それらの児分を合算すると五万人近い博奕の大集団が構成される。
 これらに対して僅か十人や十一三人の代官所役人が、たとえ決死の覚悟で対したとして
も、事実上どうにもならない。しかも、当の代官は任地に顔を出さずに、専ら江戸の代官
屋敷で指揮をしているのだからなにをか云わんやである。
 だいたい五万石も六万石もとるような領地を、せいぜい三百石か多くて五百石どまりの
旗本に代官として支配させることが間違いだが、同時にまた彼らも、司政官というより甲
州へ島流しにされたような気分で、一日でも端役江戸へ戻るために、懸命にその成績をあ
げようととする。徴租高をふやし、勘定奉行に認められようとする以外に考えないという
代官が多い。勿論、警察権はもってはいるが手が足りない上、代官所の費用が決っている
ので、無駄な動きは一切やらぬのが上策と決めこむ。こんなのがかならず出世するのだか
ら、天領の民百姓はたまったものではない。
 例の「天保水滸伝」で有名な勢力宮五郎(佐助)逮補をみると、代官所ではどうにもな
らず八州廻りがようやく取りおさえたのだが、これとても弘化二年(1845)から嘉永
二年(1849)までかかっている。その間、勢力仕助は深編笠をかむリ、大脇差に鉄砲
といった武装で、子分を常に七八人引きつれて、自由に干潟八万石の間を歩きまわってい
る。逮捕のきっかけは将軍家慶が金原の仰鹿狩で旗本衆、御家人衆、その他約五万人が乗
込んでくるということで、結局隣接地の大名も動き出し、その協力でやっと勢力一党を召
しとったという。国定忠治の場合も同じで、これをみても、如何に当時の代官が非力であ
づたかがうかがえる。
こうした背良景に甲州博徒はそれぞれの縄張りをもった訳だが、当時の代官所では毒をも
って毒を制すという方針で、一種のなれ合い政治を行なっている。一つの例が目明しと称
して、十手とり縄をあずけて、代官所の手先を代行させる徒輩である。三井の卵古が甲州
では代表杓なものだ。博徒の親分兼捕吏である。だから吃安、勝蔵、文吉クラスの輩下
で、代貸しや火場所の責任者程度の中堅博徒が柑当数この目明し役を引うけている。これ
では強盗や火付ぐらいは逮捕出来ても、博徒の親分に縄をかけることは不可能に近い。
 ところで、いくら警察権の弱い天領でも、法度の博奕業というものは通らない。だから
本質的には専業博徒でも表向は職業を持っていた。
 竹居安九郎、黒駒の勝蔵、津向の文吉、天野開蔵、人斬長兵衛は農業、三井の卯古は料
亭主、その上半生近くは人別帳にのっていて、無宿におちたのは、牢入り、島送り以降の
場合が多い。
 さきに吃安子分二千、全盛期の博徒五万といったが、これはあくまで盃をもらった形式
的の子分の数で専業の子分は僅か二三人、多くて七八名どまりである。他は近在の百姓や
職人、お店者でれっきとした人別帳にのった素人が多い。勿論、親分の手前賭場にも顔を
出し、なにかの時には長脇差を腰にして駆けつけるのもいるが、おおかたは盃を貰ったこ
とで、白分の職場や、権利を保護して貰うための処世上の手段であった。
 理不尽なことをもちかけられたり、暴力でおどされたりする場合は、彼らは決して代官
所に訴え出ない。徴貢で精一ぱいの役人たちは、村のごたごたや、暴力沙汰にかまってい
るひまはない。なんといっても頼りになるのは盃を貰った親分である。
 親分も自分の在所は特別に気をつかって、非道な暴力沙汰は一さいしなかった。吃安も
勝蔵も文吉も長兵衛も、その出身地での悪評は殆ど聞かない。
 勿論、彼らはそれぞれ何人かの男を斬っている。だが決して自村や近くの素人衆ではな
い流れ者の無宿者が、自村の娘をいたずらしたとか、縄張り内で無断で盆を開いたとかと
いった理由である。
 こうした配慮がそのまま村の人々の心をつかみ、ある場合は一村あげて役人の手から守
り通すといった浪曲や講談で観られるような挿話が生まれるのである。
 だからといって、博奕の親分がみんなそれだとは限らない。元来が無頼の徒輩だ。非情
な暴挙や、理不尽な振舞いをする者が多い。しかし一家をかかえて大親分にのしあがるに
は、この世界でも決して暴力だけでは駄目だ。力だけに頼った者は、一時的にはのしあが
っても、後世に名を残す博徒にはなれない。
 親分になる条件にもう一つある。財力である。吃女を始め、勝蔵、長兵衛、開蔵など殆
どが名土の伜だ。文吉も資産豊かな百姓の伜だ。金がなければ親分にはなれないし、親分
になれば、各地の火場所からいくらでも金を映い上げられる。だから、親分は一趣の資本
家で、何某株式会社の社長である。

 

北杜市の横韮崎市

<山本周五郎の本籍地?>出生地は山梨県大月市

山梨文学講座 山本周五郎の出生地と本籍地 2

 前編に続いての資料、著作年月日がだいぶ経過しているが、資料収集が進んでいること
がわかる。

資料……  『山本周五郎』
 「新潮日本文学アルバム」
昭和59年(1984)
編者 評伝 木村久邇典

 山本周五郎(本名 清水三十六 しみずさとむ)は明治三十六年六月二十二日午後十一
時、山梨県北都留郡初狩村八十二番戸(現、大月市初狩町下初狩二百二十一番地)で、父
清水逸太郎、母「とく」の長男として出生しました。

 清水家はもともと北巨摩大草村若尾(現、韮崎市大草町若尾)の豪族で、先祖は武田家
の御倉奉行をつとめた清水大隅守政秀という武将であったとの伝承があり、清水一統はか
たくその言い伝えを信じ、誇りとしてきた。政秀は主家滅亡に際し、再興の軍資金を擁し
て武田発祥の地に近い若尾の里に帰農した……というのである。
 事実同家の土地台帳抹消簿によると、旧屋敷の面積は四百坪ちかく、邸内には苔むした
四基の五輪の塔が現存している。甲州では、五輪塔はしかるべき身分の家でなければ建て
ることを許されなかったとの由だから、豪族の末裔であるとの山本周五郎のプライドは、
必ずしも自己催眠的な架空の環境設定であったと否定し去るわけにはいかない。ただ郷党
の一部では、清水政秀の名は武田二十四将のなかにも見当たらず、清水家そのものが、近
隣に親類縁者の少ないことなどをあげて、生え抜きの若尾住人ではなく、他所からの「流
れ者」ではあるまいかと、とする人々もある。

 明治十年代、三十六の祖父伊三郎のころから次第に家運が傾き、つぎつぎに土地を手放
して、下初狩へ移住した。二十二年頃と推定されている。移転の理由についてもいくつか
の推測があるものの、伊三郎の姉の「まつ能」が当時、八田村(現南アルプス市)夫の周
作とともに初狩に移り住み、土地の素封家奥脇賢造方の長屋を借り、なんとか生計を立て
られる状態になっていたので、弟の伊三郎一家にも初狩移転をすすめたというのが、最も
説得性に富んでいるように思われる。奥脇家も世話好きの人柄で、斎藤まつ能と同番地に
ある長屋への入居を伊三郎に許した。

 ここでも伊三郎は、若尾時代と同じく繭(まゆ)の仲買いや諸小売り、馬喰などっを業
とした。奥脇家が機織りを営んでいたのも、伊三郎には好都合なことであったろう。

 三十六の父逸太郎は、伊三郎の長男で明治十一年の生まれである。初狩小学校を卒え、
父とともに家業にしたがううち、兄嫁と折り合いが悪かったため、山梨県龍王町(現甲斐
市)から奥脇家の機工場へ働きにきていた坂本とくと知り合い、たちまつ若い二人は恋に
落ち、とは三十六を身籠もった。逸太郎もとくも同年の二十五歳であった。しかし男女の
恋愛がふしだらとされた時代だったためだろう。伊三郎は両人の結婚をかたくなに認めず
とくを清水家に引き取ることも拒否した。
 
 伊三郎の姉「斎藤まつ能(の)」も奥脇の機工場で働いていて「とく」の気立てがよく
またしっかり者である点を買い、かねて親切に面倒をみてやった。彼女は伊三郎夫婦に結
婚を認めるようにとりなしたが、頑固に拒絶しつづけるので、とくを自宅に入れて出産さ
せることにした。だが伊三郎らへの気兼ねもあり、自家の物置きを応急の産室に当てがっ
たという。

 この事実を私が知ったのは三年前(昭和五十六年)龍王町(現甲斐市)居住斎藤三九馬
(まつ能の孫で、三十六とも親交があった)の談話からであるが、山本周五郎の晩年にお
けるキリスト教への激しい傾斜などを思い合わせ、異様な感動にとらえられたものであっ
た。

 いかに反対したとはいえ、血のなが孫が生まれてみると可愛いのが人間である。伊三郎
は直ちに赤児の入籍をみとめたし、家主の父奥脇愛五郎が、生年(明治三十六年)にちな
んで、三十六(さとむ)と命名した。

 現在清水家には、伊三郎、さく夫婦、逸太郎、とく夫婦の面影を伝える写真は一葉も遺
されていない。幕末から昭和初期までは、むやみに肖像を撮影すれば、かげが薄くなる
と、本当に信じ込む人のいた時代である。
 斎藤三九馬によれば、逸太郎の風貌は、晩年の周五郎によく似ており、周五郎のの回想
では、母のとくは現役時代の横綱佐田の山(現、出羽の海)にキリッとしたところが共通
していたという。

 明治四十年八月二十五日御前八時、下初狩地域一帯は、数日来の大雨による、寒場沢か
らの鉄砲水に襲われ、土砂は国鉄中央線の軌道をこえて押し寄せた。
 このため、奥脇家や付属の長屋も倒壊し、清水家では一瞬のうちに、祖父伊三郎、祖母
さく、叔父粂次郎、叔母せきを喪った。このとき逸太郎と「とく」三十六らは隣町の大月
町(現大月市)駅前の運送店の二階に別居していたので、幸いにも災厄を免れることがで
きた。

 だが伊三郎び歿後、清水家には奥脇家その他から借財326円がのこり、長男の逸太郎
は翌四十一年五月に完済している。当時の300円は大金で、三十歳の逸太郎にとっては
大変な負担であったに違いない。
 かれはまた火炉辛うじて洪水から救助された七歳の異母菊蔵を養育しなければならなか
った。逸太郎家の経済的な貧困はこれらの事情も重なってその死に至るまでつづき、三十
六(周五郎)もまた貧困の中に生長することになる。

 山本周五郎の回想によると、山津波のとき、父は女をつくって東京に出ていったとの話
だが、正確な時期は分明でない。

 山本周五郎の名前は、処女作『須磨寺付近』を投函するとき、居住・氏名を木挽町山本
周五郎方清水三十六と認(したた)めたのだが、事務上の手違いからか、作者名を「山本
周五郎」として公表されてしまったため、以後恩人の名をペンネ−ムとしたとの山本の直
話である。 云々

生涯を全うした津向の文吉

 列伝に移ろう。
 まず武居吃安五郎。これはかって本誌(『歴史読本』昭和四十二年二月号)に書いたの
で簡単に述べておく。
 吃女こと中村安五郎は東八代郡竹居村に、甚兵衛三男として文化八年(1811)四月
十五日に生まれている。生家中村家はこの地方きっての名家で、父は郡中総代名で、道中
許可馬壱頭を槍壱筋のの家柄である。文政八年(1825)近在の百姓徳右衛門の手首を
ささいなことから切り落としため、追放されて数年後、郡内谷村の人切長兵衛の身内とな
って博徒のスタートをきった。天保十年(1839)二十九歳の時、賭博常習犯として捕
えられ中追放。同十二年に再び捕えられ三宅島に流された。捕えた代官は韮山の江川代官
である。だがすぐに許されて韮山在で江川太郎左衛門の指押下で反射炉をつくった。安五
郎が新島送りになったのは嘉永四年(1851)二月、それから七年目に彼は島破りをし
て故郷に舞い戻った。それから五年目に捕えられて石和牢内で毒殺されている。
どもりで短気だが、それだけに曲ったことがきらいだったという。博徒のくせに曲ったこ
とがと云うのも妙だが、「どどっとどもれば人を斬る」はそうした性格をみせた云い伝え
である。素朴で甲州の風土を一番よくみせた男である。
 黒駒の勝蔵は天保二年(1832)吃安の隣村黒駒村に生まれた。これも名主小池古左
衛門の伜で、後年、吃安在島中に、竹居一家の子分になった。
 『次郎長伝』でみると、勝蔵はまったくの悪者になっているが、この原典の『東海遊侠
伝』は養子の天田五郎が次郎長の自慢話をを書いたものだけに、一方的なみかたである。才気があって情にもろい。喧嘩上手で横をみるに敏といったところが身上のようだ。後
年、吃安の仇犬上郡次郎を斬ってから急に名が出た。幕末に官軍に加わって赤報隊に所属したが、明治四年脱走の罪で捕えられ、甲府で処刑された。
 勝蔵のことについて、『次郎長伝』では勝蔵は黒駒党と称して、甲州は勿論、三州一帯
の一大勢力であったと大風呂敷になっているが、良く空調べてみると、せいぜい二十人の
身内で、その勢力下にあったという伊豆の大八以下の親分たちは、単なる朋輩に過ぎない
ようだ。
 祐天仙之助は三井の卯吉の子分で、勝昭一帯を縄張リにしていた男だが、後年新選組に
加入、山本仙之助となって八番隊の伍長になった男である。ところが同輩の隊士大村達夫
が、かつて甲州で殺された実父桑原雪助の仇と知り祐天は斬り殺されている。
 この祐天伝には、劇的ないくつかの挿話があって、なかなか面白い動きをみせた男であ
る。その行動や考え方に、博徒とは思えないような近代的な感覚がある。
 吃安、勝蔵、祐天を始め三甲州博徒の最期は毒殺、刑死、惨殺と悲惨である。だがその
なかで、妻子子分にあたたかくみとられながら死んだ大親分に津向文吉がある。
 彼は文化七年(1810)西八代郡津向村に生まれた。生家は宮沢姓で、現在、旧屋敷
跡があるが、それをみれば生家がかなりの旧家であり、経済的にも豊かだったことが推察
できる。
 『次郎長伝』では、甲州の博徒が全て無頼非道で、しかも蛮勇鬼畜のような男たちにな
っているが、こと津向の文吉のことだけは、一さいふれてはいない。
 文吉の曽孫孫伊藤映二氏の話によると、文吉が、八丈島から放免になった時は母の定が
(文吉の娘)が二十際の折で、迎えに来た次郎長の子分と一緒に、清水まで文吉を迎えに
いったそうだ。
 これをみても次郎長と文吉は、かなりの深い親交があったようだ。
 性格も気性ははげしかったようだが、博奕打、にはめずらしく思慮分別をわさまえた、
知的な臭いをただよわせた親分であった。現存している文吉の字も達筆であり、真疑はと
もかく辞世さえのこっている。
 讃州の日柳(さなぎ)燕石と文吉の二人、どうも定石通りの博徒とは云いきれない感じ
である。「渡世人は畳の上では往生出来ねえ」とイキがって妻帯しなかった吃安や、はっ
きりした正妻を迎えなかった勝蔵や祐天たちと違って、かれは三度も妻を迎え、沢山の子
供をつくった。
 史家の今川徳三氏の研究によると、文吉が八丈島に流されたのは嘉永二年(1849)
四月である。それ程苛酷な島の生活ではなかったようだ。原因は吃女との喧嘩と云われて
いるが、それより常習博奕打ちとしての召捕りであったらしい。今にのこる文奇異写真を
みると、細面で品のいい柔和な老人である。
 「湯向のの文吉鬼よりこわい。火事じゃ着物が焼け残る」
 といった俗謡仙があるそうだが、写真でみた限りではそんな男とも信じられない気がす
る。八丈島には在島実に十年で、明治の大赦で帰郷するまで、鳴かずとばずひっそりと暮
らしていたらしい。
 身延町の外科医の小林一男氏は、八丈島出身の患者が「津向の文話は、島の古老は誰で
も知っている」と話していたそうだ。
 島で云う水汲女を二度目の妻に迎えて、男女それぞれの子供をのこしている。
 もっとも八丈ショメ節というのに、
沖で見たとき鬼島と見たが
来て見りや八丈は情け島
  (家系図略)
 長男栄吉は画家に、定は嫁して一男五女の子をもうけた。文吉の孫にあたるこの子供た
ちはともに長寿で長女のよしが七十歳で没した以外に現在まで九十一歳を頭に八十代七十
代でそれぞれ元気である。
 まつの長男映二氏は、かつては山梨の戦後の新聞界に名をはせた実力者であり、栄吉の
孫に当る宮沢旭氏や、定の孫に当る宮沢一郎氏は県教育界の大先輩でもある。他に教育関
係者も何人かいて、文浩一家の流れは山梨県の教育文化に、多大の影響をもったとは、地
下の文吉親分も苦笑しているかも知れない。
 文古と祐天については、いずれくわしく別稿でとりあげたいうと思っている。(了)

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