12月のルミナリエに引き続き、今年も神戸1.17の集いに行ってきました。
関西に住んでるころは、この1.17の集いには毎年行ってたわけではないんですが、不思議なことに離れると思いが募るんですね。
23年前の早朝、家内の叫び声と激しい揺れで目を覚ましました。
前職の関係上、昼過ぎには神戸の中心部に入り、そこからの体験は生涯忘れるものではありません。
今思えば、現在静岡に住んでいるのも、あの震災が遠因であったのかもしれません。
今年のテーマは震災の記憶を伝えるという意味で「伝」です。
で、今回も「新丹後組」の新年会をやりました。
会場は友人が経営する築160年の古民家cafeです。
カニだけで腹いっぱいになるほど食べまくり、最後の雑炊で〆。
で、これ以外にも血中出汁濃度を上げるためにあれこれ食いました。
ま、最後の二枚の画像はサラッと流しまひょか(^O^)
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ぱらまたさん
おはようさん、ところで23年を迎えたあの震災は何と呼ばれているんですか?
東京新聞には阪神大震災とか載っていましたけど。
[ country-gentleman ]
2018/1/19(金) 午前 7:19
返信するぱらまたさん おはようございます。
私にとって、23年前の1月17日は忘れる事ができない日です。前の年の11月末に脳神経外科で椎間板ヘルニアの手術をして、仕事復帰に向けてリハビリをしていましたが、この日の前日から腰の痛みがひどくなり、手術を受けた病院で、診察を受ける為に待合室で待っているときに、神戸の震災の様子がテレビに映し出されていました。最初見たときは、映画かどこか別の国の様子かと思っていましたが、診察に呼ばれるまでの間に、それが神戸の今の姿とわかり、驚きました。この日は、MRIを撮って手術した医者と画像を見ながら、医者が問題なく治っている、痛いのかゆいのは本人の感覚だと言われ、大げんかをして、放り出されて、別の病医院に再入院した日でした。
私と腰との闘病はこの日から始まり、3年後2度目の腰の手術を行い、つらい痛みが少しは改善しましたが、障害者の認定を受ける体になってしまいました。
私には脳外科の待合室で阪神大震災の映像を見ていた驚き、この日からつらい闘病が始まった、忘れられない日です。
[ 如月 ]
2018/1/19(金) 午前 8:18
返信する> country-gentlemanさん
あの地震そのものの名称は兵庫県南部地震で、それによって発生した災害を「阪神淡路大震災」と呼ぶのですが、関西では「あの震災」とか「震災」 もしくは「阪神淡路」で通りますね。
で、ふと思ったのが、一般的に東日本大震災と呼んでるあの地震の正式名称をググってみると「東北地方太平洋沖地震」でした。
東京新聞の「阪神大震災」でも一般の人には伝わるでしょうが、関西人としては少し違和感がありますね。
淡路島も甚大な被害が出ており、北淡町の野島断層などの象徴的な震災記憶があるわけですから。
[ ぱらまた ]
2018/1/19(金) 午前 10:00
返信する> 如月さん
遠く離れた北海道で、この日が忘れられない日になったとは、これまた奇遇ですね。
私はその当時、父が末期がんで入退院を繰り返しており、1月13日から15日の3日間を私が付き添いで病院に泊まりました。
16日の夜は外せない仕事があったため母と交代し、夜中の3時ごろに帰宅して、疲れていたことも有り泥のように眠りました。
そして2時間ほど寝たころに地震が起きました。
母は自宅で寝ていたら倒れた家具の下敷きになっているところでしたが、病院にいたため無事でした。
私も椎間板ヘルニアがあるのですが、手術で改善したという話をほとんど聞かないため、整体に定期的に通っています。
[ ぱらまた ]
2018/1/19(金) 午前 10:15
返信する> ぱらまたさん
椎間板ヘルニアは専門の病院で手術すればほとんど、完治します。私の会社の部下たちも札幌の整形外科で手術をして完治しました。そこには本州からも患者が来ていたそうです。
私が帯広で2度目に行った、ヘルニアの手術は最初の手術を行った時には、その病院はまだできていませんでした。そこの医院長は、脊髄専門ですが、膝や手首・股関節などの手術の時には、その道の名医を呼んで手術ができる、とても大きな整形外科を作りました。北大や慈恵の医局からも教授や先生が来て診察、手術を行っていました。
それまでは整形の大きな手術はほとんど、帯広から札幌に転院して行っていましたが、その病院ができてから、ほとんどの整形外科の手術が帯広でできる様になりました。
私の場合最初の手術の前は、100mくらい歩きますと足がしびれて動けなくなる状態でしたので、整形より高度な医療技術を持っている脳神経外科で、手術しましたが、それが大間違いでした。2度目の手術をした後にそこの医院長に、最初の手術はとんでもない取り残しがあったと言われて、悔しい思いをしました。
[ 如月 ]
2018/1/19(金) 午後 5:34
返信するそれから、阪神大震災の2年くらい前に釧路沖地震があって、帯広は震度5強の地震に合いました。そのときは、家が潰れるかと言う揺れと、地鳴りと電信柱が倒れそうに揺れていました。そのときも確か1月中だったと覚えています。娘の手を引っ張って外に逃げ出した事を覚えています。
旭川にいて地震に遭遇したことは今まで1度だけです。十勝沖の大地震で高校の授業中に起きました。そのとき地震というものを初めて知りました。旭川に戻ってきて5年になりますが、まだ地震の揺れを感じた事はありません。
[ 如月 ]
2018/1/19(金) 午後 5:36
返信する> 如月さん
医者の「痛いのかゆいのは本人の感覚だ」はほんま腹立ちますね。
医学的に見て手術は成功してても、肝心なんは痛いかどうかでっさかいに。
癌の治療でも「癌は消滅しました」 でも患者の命も終りましたみたいなんがよくありますからね。
私の場合は2年おきぐらいに、疲れがたまってくると前兆が出始め、腰から太腿にかけて焼け火箸を刺し込まれたような痛みが走りますが、友人の鍼灸師や、たまたま知り合った整体師から、歳の割に筋肉がしっかりしてるから、切らないほうがいいと言われてます。
今のところ、前兆が出始めたら整体に通い、だいたい4.5回ぐらいで収まりますので、如月さんのそれよりは症状的に軽いんでしょうね。
如月さんの「娘の手を引っ張って外に逃げ出した」は父親としての当たり前の行動ですが、その「当たり前」が出来んかった人も多くいたみたいです。
近所のご主人は家族をほったらかして真っ先に家を飛び出し、揺れが収まった時には、越乃寒梅の一升瓶を抱えて裸足で家の前に立ってたそうです。(^O^)
[ ぱらまた ]
2018/1/19(金) 午後 6:02
返信する> ぱらまたさん
『近所のご主人は家族をほったらかして真っ先に家を飛び出し、揺れが収まった時には、越乃寒梅の一升瓶を抱えて裸足で家の前に立ってたそうです』は、なんとなくわかる様な気がします。私が遭遇した釧路沖の大地震の時は、たまたま息子が私の母親と温泉に湯治に行って、かえってくる途中でしたので(ほとんど帯広のバス停につく直前で、妻が家から長距離のバス停が遠い為に迎えに行っている時でした)小学生の娘と二人で留守番をしていました。娘はお兄ちゃんが帰ってきたらならそうともっていたクラッカ−を、外に出た時に、握り潰していました。そしてやや揺れが弱くなった時、娘が足が冷たいと言い出して、よく見ますと、娘は裸足でした。慌てて私は娘が止める声を振り切って、家の中に入って、靴を取ってきた事を覚えています。その後娘は地震が来ますと一番先に玄関で靴を履いて待機するようになりました。
[ 如月 ]
2018/1/20(土) 午前 9:14
返信するまた、靴を取りに入った家の中は戸棚が倒れ、金魚を飼っていた水槽が割れて、カ−ペットがずぶ濡れになっていました。幸い最近の灯油スト−ブは地震などの揺れで電磁弁が閉まり、消火されていましたが、部屋の中の後片付けと水槽にいた金魚たちを別の水槽に移して大変でした。
水槽が割れて飛び出した一番大きな金魚はその後地震が来る直前に、大きく跳ねたり、暴れたするようになり、地震金魚と名付けました。
[ 如月 ]
2018/1/20(土) 午前 9:16
返信する> 如月さん
私の知人も90cm水槽が何個も倒れ、階下の部屋が水浸しになってました。
日本は地震国ですので、いつどこに来てもおかしくないと思っていますが、それも阪神淡路を体験してからのことで、それまでは「関西には大地震は来ない」と高をくくっていました。
多くの関西人がそうであったと思います。
東日本大震災の直後に静岡に引っ越したのですが、海に近いエリアは空家や空室が多く、聞くと、震災後に津波を恐れて引っ越しする人が続出したそうです。
私はそんなことは気にしないので、とにかく富士山が見える物件を探していたので、浜から500メートルの現在の家を選びました。
しかし、人間は喉元過ぎれば忘れてしまうのか、あんなに空家が多かったこの地域も、入居率は震災前に戻っているようで、新築物件も増えてきました。(^O^)
[ ぱらまた ]
2018/1/20(土) 午後 11:43
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