ここから本文です
ぱらまたの雑記帳
ブログ未開設や捨てハンでの書き込み、初来訪で挨拶も無しの書き込みは削除します。

書庫追憶・オートバイ

記事検索
検索

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 次のページ ]

16歳でオートバイの免許を取って、それ以来何台のオートバイに乗ってきたんやろ?
レースや仕事で乗ったものまで含めたらものすごい数になるんやろな。
今回はそんなオートバイの中で、自分の名義で所有したナンバー付きのオートバイの中から、もう一度乗ってみたいと思う物を何台か紹介します。
画像はネット上でパクってきたものです。(^O^)

イメージ 1
1973年型カワサキF11、一般的には250TRですね。
2サイクルピストンリードバルブで、0-100kmは友人のCB500よりも速かったですね。
このオートバイで自分のライディングの基礎の部分が出来たと思っています。

イメージ 2
1975年型カワサキ750RS、いわゆるZⅡですね。
コーナーでオーバーステア気味に頭が入り、それに合わせてリヤをスライドさせて逆ハン気味にコーナーを立ち上がる感覚がサイコーでした。

イメージ 3
1978年型スズキGS750
ヨシムラの850ccキットやハイカムを組んでかなり改造しました。
初レースもこの車でした。

イメージ 4
1980年型ヤマハRZ250  輸出名RD250LC
80年代から90年代のバイクブームの火付け役となった名車中の名車。 
今もプレミアがつくほどの人気車です。

イメージ 5
1983年型ヤマハDT200R 37F
2台乗り継ぎました。
軽くて速くて、エンデューロレースから獣道アタックまで大活躍してくれました。

イメージ 6
1988年型ヤマハTDR250
デュアルパーパスの車体にTZR250のパラレルツインエンジンを積んだ、実にヤタケチなモデル。
こんなアホなオートバイは二度と出んでしょう。
とにかく乗ってて楽しかった。
なんやかんやで三台所有しました。

イメージ 7
1995年型ヤマハTRX850
パリダカ用のteneleから発展した850cc270度クランクのツインエンジンを搭載。
不等間爆発によるリヤタイヤが路面をかきむしるようなトラクションがサイコーでした。
しなやかなスチール製トラスフレームと軽い車体で、リッタースポーツを追い回す楽しさは忘れられません。

これら以外にも多くのオートバイに乗りました。
もちろんその中にはこれらよりも総合的には優れたものもたくさんあるのですが、「面白さ」といった点、そしてもう一度乗ってみたいとなると今回の7台ですね。

時空を超えて

久しぶりにバイク関連の本を買った。
友人から「ぱらまたさんも写ってますよ」と教えられていたので、家内のリハビリがてらの散歩の途中に本屋に立ち寄った。
イメージ 1
モーターマガジン社発行の「バイク界の逸話」
同社のネット版[WEBオートバイ]で紹介されていた記事を本にまとめたもので、手に取ってみると、「バイク編」と「人物編」の二部構成で、70年代から80年代にかけてのバイクや人物の懐かしいエピソードが溢れている。
私が写っているのは、人物編の「須田 高正」の記事で、これに関してはこのブログの過去記事の
にライダー側から見た内容で書いていますが、この本の内容はジャーナリスト側からマシンビルダーの須田高正氏にスポットを当てています。

イメージ 2
表彰台を独占したドクターSUDAチームのライダー6名、一番右端が私です。

この記事以外にも、懐かしいバイクや人物が多く登場しており、中でも70年代から80年代にかけて、カリスマ的な存在であった女性ライダーの堀 ひろ子さん。
そして、ひろ子さんと耐久で二回ペアを組み、その後二人でサハラ横断に挑戦した腰山 峰子さん(旧姓今里)のお二人。
峰子さんとは今も親交があり、先日も過去記事の
の件で連絡を取り合い、色々と尽力していただきました。
イメージ 3
81年鈴鹿4時間耐久、スタート直前の掘 ひろ子さん(左)と今里 峰子さん。

まだパラパラっとしか読んでないのですが、およそ40年ほどの時空を超えて、あのころの空気や匂い、そして音までが脳裏に蘇ってきます。
一気に読むと、自分の記憶や思い出が交錯し頭の中が混乱しそうなんで、毎晩1~2編ずつ、コーヒーでも飲みながらゆっくりと読んで、思い出に浸ることにします。


お気に入り

バイクに乗り出してから、いったいこれまでに何個のヘルメットを被ってきたんやろ?
脳震盪を起こすような強い衝撃を与えたら即廃棄やし、何も無くても3年ぐらいで衝撃吸収材が劣化するから買い替えるんで、たぶん2〜30個ではきかんやろな。

イメージ 1
92年のオーストラリアンサファリ仕様。
古くてもう被られへんけど、ロードレース時代からラリー時代を通して、一番お気に入りのヘルメットヽ(^o^)丿 

イメージ 2
   オーストラリアの夕陽をモチーフにペイントしてもらった。

イメージ 3
      この画像は夕陽ではなく朝焼けなんですが、左が私。



砂漠のパチンコ屋

piyotan姐さんとcountry-gentleman大兄のリクエストにお応えして、前記事のコメント欄に書いた「砂漠のパチンコ屋」について書きますね。

さて、人生や日ごろの生活においても色々な形で限界・極限はやってきますが、ここではかつて参加したラリーで、私自身が経験した、もしくは垣間見た精神的限界と肉体的限界とその具体的症状について書いてみます。

オーストラリアのシドニーからダーウィンまでの6500キロを10日間で走る「オーストラリアン・サファリラリー」は、85年に初開催され、当時はパリダカやファラオラリーとともに世界三大ラリーのひとつでした。
私はこのラリーに3回出場したのですが、実に内容の濃い経験をしました。
6500キロを10日間となると、平均しても一日に650キロを走るわけで、それも舗装路ではなく砂漠や荒れ地を走るわけです。

ラリーは毎年8月に開催されるので、彼の地の季節は真冬。
朝のスタート時には水筒の水がシャーベットになることもあります。
対して日中の気温は40℃を超えるため、寒暖の差が激しく、これが体力をそぎ落としてくれます。
このような過酷な状況の中、毎日テント生活をしながらゴールを目指すわけですが、この10日間の中で実におもろいことが多く起こります。
今回の記事は私自身が初参加の89年http://blogs.yahoo.co.jp/kitanotamotu/2183008.htmlに経験したことです。

イメージ 1
これは朝スタートを切ってしばらく走ったところで、過去記事http://blogs.yahoo.co.jp/kitanotamotu/23019351.htmlに登場する随筆家の茂木ふみか女史が撮影してくれたもので、向かって左が私です。※画像は94年のものです。
このようにラリーは毎日暗いうちにスタートし、西に向かって走っているので背後から朝日が昇ってきます。

イメージ 5
明るくなるとこんなかんじです。 チェックポイントで小休止中。
鼻をかんでるのが私。 ※バイク雑誌からの切り抜きで、94年のものです。

イメージ 2
朝スタートした時に登った太陽が、地平線のむこうに沈んでいきます。

大陸に沈む夕日は息をのむような美しさと迫力で、空全体にグラデーションがかかり、赤い大地と一体となり、まさに大自然のショータイムです。

イメージ 4
私の92年のヘルメットは、この夕陽をイメージしたカラーリングです。

トップクラスの選手はだいたい日没前後にキャンプ地へゴールできるのですが、私を含め多くの選手はここからナイトステージへと突入します。
さて、ここからが問題の時間帯なんです。
昼間は360度地平線が見えるような茫漠とした砂漠や大平原なんですが、陽が暮れると漆黒の闇で、見えるのは自分のヘッドライトの光軸の範囲だけです。

この漆黒の闇の中を走っていると、最初に先ず妙な錯覚が襲ってきます。
左側が山肌で、右側は谷のような感覚になるのです。
そして、延々とまっすぐ走っていることに不安を感じ出し、「そろそろカーブが出てくるはずや」と思いはじめ、すると100メートルほど先にカーブが出現します。
ところが近づくとそのカーブは消滅します。
イメージ 3
実際に走っているのは概ねこのような場所で、山も谷もありません。
これは恐らく、まだ砂漠の風景が脳に擦り込まれておらず、暗闇で見えないために
走り慣れた日本の林道を脳がイメージしているものと思われます。

スタートから数日後、私は午前中に大きくミスコースし、気づいて引き返す時に大転倒しました。
というか、ヘリの音で目が覚めたのですが、どうやら転倒して脳震盪を起こしたのでしょう。
ヘリにはラリードクターが乗っており、ドクターストップがかかってはまずいと、大慌てでマシンを起こし、ヘリが着陸する寸前に再スタートしました。
これでかなりの時間と体力を消耗し、ほぼドンケツでナイトステージに突入する羽目となりました。

暗闇の砂漠を一人でナイトランしていた最中、砂漠に忽然とパチンコ屋のネオンが出現しました。
私は「あ〜 あそこに行けば温かい缶コーヒーが飲める♪」と大喜びしました。
そうとう疲れて寒かったんでしょうね・・・
そのパチンコ屋のネオンに見えたものは、自分のマシンのライトが反射した缶詰の空き缶でした。
そして、しばらくたったころに今度は「踏切」が出現しました。
銀色の電車が走っており、私は遮断機の前で停車しています。
ところが、いつまでたっても電車は走り過ぎません。
「えらい長い電車やのう・・・」と思って、ふと我に返ると・・・
牧場の有刺鉄線の前で停車している自分がいましたヽ(^o^)丿
遮断機や電車に見えたのは太い有刺鉄線やったんです。
でも、その時はカンカンカンと踏切の警報音も聞こえていたような気が・・・
あまりの疲労と寒さや睡眠不足によって、走りながら夢を見てたのか幻覚なのか・・・?
恐らく、走り慣れた日本とはあまりに違う環境に加え、夜の闇で周囲の状況が掴めないため、自らの脳内でそのような人工物や、自分が欲してるものを作り出してしまったんでしょうね。
このような経験は他の選手も口にしており、92年に初参加したチームメイトが後に語った体験としては、走っている最中に私とチームリーダーのS氏の話し声がずっと聞こえてたと言うのです。
私も聞いたことも無い音楽がエンドレステープのように鳴っていたことがあり、そのメロディーは今も覚えています。
また、私の前年に出場した「炎の午」http://blogs.yahoo.co.jp/kitanotamotu/32458055.htmlのK君は、砂漠の真ん中で力尽きて倒れていた時、数十本のバオバブの木が、歩いて近づいてきて自分の周りを取り囲み「こいつはもうすぐ死ぬぞ、死んだらみんなで食べようね」と言ったらしいです。^_^;

ナイトステージを経験した多くのライダーが口にするのですが、遥か彼方にキャンプ地の灯りが見え「あ〜 やっと今日のゴールや・・・♪」と思ったら、それはすぐに見えなくなり、果てしなく闇が広がっている・・・
これも恐らく自分の脳の中で作り出した幻なんでしょうね。
昔からよく言う「旅人が狐にばかされた」っちゅうのはこのような現象やったんやないかと思うんです。
姐さん、大兄、 ま、こんな感じなんですが、ご感想は?^_^;

宿舎の思い出

本日は休みで明日は仕事。
昨日から引き続きアルバムのスキャンをしています。
懐かしい画像が次々に出てくるので、作業が遅々として進みません。^_^;

前記事で紹介したオーストラリアン・サファリには、私は3回、チームとしては5回出場しているのですが、レースのスタート地点とゴール地点では準備や後片付けがあるため、それぞれに1〜2週間ほど宿舎を用意します。
宿舎を選定する基準としては、利便性以外に、その年に参加するメンバーの中で、一番貧乏な奴に合せるというのがチームの基本方針となっております。

イメージ 1
92年の宿舎に選んだのは過去記事のhttp://blogs.yahoo.co.jp/kitanotamotu/31353359.htmlにもあるシドニー中心部から少し離れたClovellyの安モーテルです。
このモーテルは私たちが泊まった数か月後には、『シドニー花嫁失踪事件』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%82%A2%E8%8A%B1%E5%AB%81%E5%A4%B1%E8%B8%AA%E9%A8%92%E3%81%8E#.E7.99.BA.E8.A6.8Bの舞台として日本でも一躍脚光を浴びました。^_^;

イメージ 2
部屋の中は大量のスペアタイヤやパーツで足の踏み場もないほどです。

イメージ 3
各フロアに共同のキッチンが有り、自炊して経費節減に努めます。
この日は天ぷらと溶き卵の吸い物、米はジャポニカ種のサンホワイトです。

イメージ 4
スタート前夜、レース前の最終ミーティングです。
メカニックとの打ち合わせや、チーム内での決め事を最終確認します。
奥のベッドに座ってる奴はこの時点で風邪をひいて発熱してます。ヽ(^o^)丿

イメージ 5
翌朝にはシドニー郊外のアマル―パークスピードウェイからスタートです。
ここから10日間6500キロの闘いが始まります。
この年の私のゼッケンは58番。
この時点では晴れていましたが、1時間後には地獄が待ち受けていました・・・\(◎o◎)/!

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 次のページ ]

本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事