ここから本文です
ぱらまたの雑記帳
ブログ未開設や捨てハンでの書き込み、初来訪で挨拶も無しの書き込みは削除します。

書庫追憶・オートバイ

記事検索
検索

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 前のページ | 次のページ ]

DAJARRA

かつて出場したオーストラリアン・サファリラリー
シドニーからダーウィンまでの6500キロを10日間で走るこのラリーは、給油などで途中でいくつかの集落に立ち寄ります。
オーストラリアは沿岸部に人口の大半が住んでおり、内陸部にはほとんど人家はありません。
住んでいるのも先住民のアボリジニが多く、今回の記事のタイトルであるDAJARRA(ダジャーラ)もそのような集落です。
イメージ 1

私を含む日本人選手4人と白人選手3人で給油していたら、村の子供たちが遠巻きに私たちを見ています。

イメージ 2
年長らしき男の子が、偵察するように自転車で微妙な距離をとって私たちの近くを横切ります。
私が手招きすると少し恥ずかしそうな様子で近寄ってきました。
私がウエストバッグからお菓子を出して手渡すと、次々に他の子供も出てきて、10人ほど集まりました。
フェイスマスク姿は過去記事http://blogs.yahoo.co.jp/kitanotamotu/32713428.htmlに登場するS氏です。
しばらくすると民家からでっかいおっさんが出てきました。
どうやらこの集落のリーダー的な人物で、名前を名乗り、来訪を歓迎すると握手を求めてきました。
しかしそれは私たち日本人に対してだけで、白人とは目線を合わそうともしません。
白人もまた彼とは目を合わさず、お互いを無視しています。
きっと彼は同じ有色人種の私たちだけを歓迎したのでしょう。
私たちと同じ黒い瞳をした子供たちも私たちだけになつきます。

その日の夜、キャンプ地にゴールしてから、オーストラリア人選手にあの給油地点でのことを聞くと、多くを語ろうとはしません。

豪大陸発見から開拓時代にかけて、またその後の白豪主義の中で、この国で何があったのかはある程度予備知識があったものの、実際にその場に立つと過去の負の遺産みたいなものがいかに大きいかを実感しました。
白人は贖罪の意識と、今も根底にある差別意識との狭間にあり、アボリジニは現在の補助金漬けの生活と過去の記憶の中で日々を送っているのか・・・
タスマニア島のアボリジニは毒入りのジャガイモや小麦を配給されて絶滅したと聞いた。
白人入植当初はアボリジニを人間とは思っておらず、猿が進化したもの程度に考えていたとも聞いた。
僅か200年ほど前のことで、いかに白人が我々有色人種を人間扱いしていなかったかが判る。
その日の夜はそんなことを考えながらテントの中で眠りに落ちていったことを、今日アルバムをスキャンしていて思い出した次第です。

これってお宝?

嫁はんのお宝です。
82年の8耐の折に、ヘルパーを務めてくれてた当時の彼女(現嫁はん)がデンソーのキャツプにウエス・クーリーとデビッド・アルダナのサインを貰いました。

イメージ 1

サインを貰ってるシーンです。 手前がデビッド・アルダナ、奥がウエス・クーリーです。
イメージ 2

これってお宝?嫁はんはずっと大事にしてるけど・・・

以前の記事に小林の鉄製マフラーhttp://blogs.yahoo.co.jp/kitanotamotu/archive/2010/08/29の記事をアップしたころから訪問者履歴いのまんさんといわれる方がお見えになっていた。
昨夜、氏のブログにお邪魔してみたところ、なんと懐かしいスズキGS750の記事がいっぱいです。
このバイクは私も若かりしころに乗っていまして、つい嬉しくなって記事を深夜まで読んでしまい、今朝はかなり眠い思いをしました。(-_-;)
日本の750ccのバイクはホンダのCB750から始まり、その後はスズキのGT750やカワサキのH2(750SS)の2サイクルがこれに続きましたが、第一次オイルショックなどにより時代は既に4サイクルへと向かっていました。
カワサキのZ2が大人気で、ヤマハも二気筒のTX750を発表、またミドルクラスにも4サイクル化の波が押し寄せる中、唯一4サイクルモデルを持っていなかったスズキが1977年に満を持して世に送り出したのがこのGS750でした。

※本記事は私の度重なる脳震盪によるパンチドランカー的記憶に基づいていますので、多少のええかげんさはご容赦ください。m(__)m

スズキは4サイクル後発メーカーだけに、当時かなりのマージンを見越してのその造り込みは、あのPOP吉村が「Z2は過剰品質だがこいつは超過剰品質だ」と言わしめたほどのものでした。

Z2でぶっ転んで入院していた当時21歳の私も、病院のベッドの上でバイク雑誌を見ながら「次期主力戦闘機」にこいつを選びました。(
Z2は全損(T_T))
購入と同時に改造を始め、当時は身だしなみでもあったヨシムラの集合管はもちろんのこと、同社のハイカムや強化スプリングや850ccキットやらを組み込み、新御堂筋や鈴鹿なんかを走り回りました。
で・・・
いのまんさんの記事に懐かしさを覚えて、昔のアルバムを見てみると・・・
1977年の「鈴鹿6時間耐久レース」の写真が出てきたのでアップします。
このレースはオイルショックなどで中断していた鈴鹿の耐久レースが復活した記念すべき大会です。
翌年には8時間となり、あのヨシムラのGS1000がW・クーリー&M・ボールドゥインのライディングでホンダのRCB艦隊をいてこまして優勝した伝説の大会の布石ともなった大会でした。

この年はヨシムラはスイス製のエグリフレームにカワサキZ1のエンジンを搭載した「ヨシムラエグリ」で出場!
ライダーは故・加藤昇平選手、、 ペアは誰やったかな・・・?
№18はTZ350、市販レーサーはおろかファクトリーマシンや市販車まで、排気量も250から1000超まで、要するになんでもありでした。

イメージ 1


このレースの優勝マシン、HRCの前身であるRSC製のホンダCB500改を駆る故・木山賢吾選手
イメージ 2

ヘアピンの進入付近です。
№32の青色GS750は浜松チームタイタンの山名選手か袴田選手やと思う・・・ 間違ってたらごめんなさいm(__)m
№22は月木レーシングから出場の武庫レーシング所属の長谷敏行選手。
ゼッケンの色の違いはレーサークラスとノーマルクラスの違いです。 赤はレーサー、もしくは改造度合いの高いもので、白は限りなくノーマルに近い状態です。

イメージ 3

市販レーサーのTZ350を追い詰めるカワサキZ650ザッパー! たぶん神戸スーパースポーツからのエントリーやったと思います。 いや、浜寺レーシングの徳野選手かな・・・?
イメージ 7


ヘアピン立ち上がり。
№32のGS750、マフラーもノーマルです。
走っててもサーキットでは他のマシンの音にかき消されてほぼ無音状態、ある意味異様なほどの静かさが印象的でした。

イメージ 4

最終コーナー立ち上がり、前から3番目がGS750。
ここでもノーマルクラスは集団で走っててもチェーンの回転する「シャァー」って音しか聞こえません。静か〜(^。^)

イメージ 5

で・・・
最後に私のGS750です。
鈴鹿のパドックで、練習走行の時かな・・・
たしかこの時、練習が終わってから友人にマシンを預けて一足先に近鉄電車で大阪に帰ったのですが、眠りこけて座席からずり落ちてたみたいで、終点の上本町で車掌も見落としたらしく、気がつけば真っ暗な車庫の中・・・\(◎o◎)/!
ほんまえらい目に遭いました・・・

イメージ 6



須田社長ブログ補足版

前回の記事の続きです。
6月の鈴鹿200キロレースは耐久の前哨戦のため、かなりの数のエントリーがありました。
中でもFⅢクラスは何組かに分けて予選が組まれるほどの盛況ぶり。
小林君も自ら製作したRZ250ベースのマシンを持ち込んできたのですが、このマシンを最初に見たときの印象は「な、なんやこれは? 変態みたいなエンジンやな・・・」でした。
どんなエンジンかというと、RZに乾式クラッチが装着されており、聞くと80年以前のTZのケースなどを流用したとのこと。
このときに某有名ショップのオーナーやメカニックがしげしげとこのマシンを観察しており、後にこの組み合わせはRZ改造の常套手段となるのだが、この時点では恐らく日本で初の試みであったと思われ、当時まだ二十歳そこそこの小僧がこれを作ったのには驚きです。

話が少し後戻りしてしまいました・・・
鈴鹿200キロレースで手ごたえを掴んだ我々は、7月上旬から本番へ向けての最終調整に入り、三台のマシンのライダーの組み合わせも決定しました。

本番まであと2週間を切った最後の練習日・・・ 午前中の走行でその恐怖の現象は起こりました。
当時まだシケインの無かった最終コーナー、全開で駆け下りる私のマシンのフロントが小刻みに震えだしたかと思った次の瞬間、それは一気に増幅しマシンから振り落とされそうになりました。
速度は恐らく180キロ辺り、振られはストレート部分まで続き、なんとか転倒は免れたものの路面に歪な「ハの字」のブラックマークがつくほどの振られ方で、心臓が口から飛び出るかと思うぐらいの恐怖でした。
この様子はピットからも目視できたほどで、見ていたメカニックたちから「よくあれで転ばなかったな〜」と声を掛けられました。
そして午後の走行に入るとあとの二台にも同じ現象が起こり始め、同日中に6人のライダー全員がこの現象を体験する事体に・・・
発生状況の特徴としてはコーナー立ち上がりのフロント荷重が抜け気味の時に発生し、振られている最中にびびってアクセルを戻せば更に増幅するといった始末の悪いものでした。
なぜこの現象がこの日に突然のように発生したかというと、路面温度の上昇によるグリップ力の増加、ライダー全員のタイムアップなどによりフロントフォークやステアリングポスト周りにかかる負担が一気に増したことが原因と考えられます。
逆に言えばそれらの部分の絶対的な剛性不足なのですが、時間的にも対策部品やフレーム補強は難しく、更に路面温度上昇が予測される本番に向けて大きな不安材料を残す最後の練習日となりました。

7月末の水曜日、鈴鹿はいよいよ耐久レースウイークに入りました。
三台のマシンを走らせるチームDr須田も必勝の思いを胸に鈴鹿入りです。
チームDr須田の生え抜きの後藤選手以外の5名は全て他チームからの参入で、関東・中部・関西と地域もバラバラ。
それぞれのライダーが自分が普段所属するチームのメカニックやヘルパーを伴っての20名以上の混成チームの出来上がりです。
ピット内は東京弁に名古屋弁に関西弁が入り乱れなんとも賑やかです。
総監督はもちろん須田社長、チーフメカはマシン製作に当初より携わり社長と苦労を共にしてきた小林君でした。
このとき小林君はまだ21歳、6名のライダーや他のメカニックの誰よりも若く、私以外のライダーはガラも悪く、その点でも苦労はあったと思います。
問題の振られ対策としては、スタビライザー効果を期待してフロントフェンダーをFRPから鉄に変更し、三叉ロアブリッジを溶接で二枚重ねにするといった、重量増を無視した苦肉の策です。
あとは「振られたらもっと開けろ!」の根性ライディングで対応することに・・・ヽ(^o^)丿  (ToT)/~~~
木・金のフリー走行と公式練習を終えた感想としては、対策は少しは効いてるかな・・・程度(-_-;)
200キロレースとは違い本番では純レーサーのTZ250が相手です。
ところが社長入魂のエンジンのパワーは驚くべきものがありました。
練習段階で解かったことは、80年型のTZ250とはストレートスピードがとんとん。
81年型にはジワジワと離される程度、これなら長丁場の決勝ならじゅうぶんに勝負出来ると感じました。
予選は須田社長の指示もあり少々抑え気味で走ったものの、三台ともが上位で通過することが出来ました。
予選結果を待つ間に、ピットイン→ガスチャージ→ライダー交代の練習を終え、ライダーは翌日の決勝に備えて早めにホテルに引き上げ、メカニックはピットで徹夜の最終調整作業です。

イメージ 1
①スタート直前、横浜から貸し切りバスで駆けつけたドク須田応援ツアーの皆さんにライダー6人でポーズ!
②レース終了直後、暫定1位の報に、コース上で思わずビールを飲み干す須田社長。 右側の白つなぎがK君です。
③月刊モト・ライダーより。 レース序盤のDr須田チーム三台の変態編隊走行、このあとクラッチトラブルが№155を襲います。
④同年11月、Dr須田が新店舗オープン!
⑤月刊モト・チャンプより。 レース終盤、№155がコースレコードを樹立しながらの激走で№125をパスし一周遅れを取り戻す。
⑥ゴール直後。№127に跨る堀ひろ子さんの姿も見えます。
⑦ピット裏のベースキャンプの一こま。

さて、決勝はというと・・・↓を参照してください
http://blogs.yahoo.co.jp/drsudanet/MYBLOG/yblog.html?m=lc&p=1 
あくまで須田社長のブログの補足版でありますので、余談を少々・・・
私が乗った№155(焼入れスペシャル)は3台中最上位で予選を通過したにも関わらず、2時間経過時点でトップの№125から一週遅れでした。
スタート直後から、私とペアを組んだ安達選手の激走により、トップグループに食い込む奮闘振りを見せていましたが、一回目のライダー交代で私が走り出して数週目、突然のクラッチトラブルに見舞われます。
数週はだましだまし走りましたが、症状が酷くなり予定外のピットイン。

原因はスタート前の些細なミスによるものでしたが、丁度ピット奥に引っ込んでいた小林君が三段跳びのような動きで脱兎のごとく私のもとに駆け寄り、症状を訴える私の言葉から一瞬で対処法を判断。
別のメカニックに「チェーンルーブ〜!」と叫び、それを受け取るとケース内側のクラッチレリーズ辺りに吹き付けました。
「これでいけるっ!」の小林君の言葉を信じて再スタート、結果的にはチェッカーの午後6時まで症状の再発はありませんでした。
後で考えればこの時の
小林君の判断は実に素晴らしく、別の対処法では恐らく数周で症状が再発していたと思われます。
このトラブルで№155の順位は35位近くに落ち、順調に周回を重ねる№125.№123に一周の差をつけられていましたが、そこから先はほぼ抜きっぱなしの展開で順位を回復、3時間を経過した辺りからは、熱ダレでパワーの落ちてきたTZ軍団を尻目に三台のドク須田GSXは快調を維持、ラスト10分辺りで№155が遂に№125をパスして同一周回に。
終わってみればチームDr須田がFⅢクラス1〜3位独占の結果となりました。
三台全てが完走するだけでもかなり難しいと思っていただけに、この結果は出来すぎではないかとさえ思えたほどです。
レース終了後にコース上で缶ビールを飲み干す須田社長の姿が実に印象的でした。
計画スタートからというもの、乏しい資金と設備にもかかわらず、寝る時間を削って正に不眠不休でマシンを作り上げた社長の苦労が一気に報われた瞬間でした。
社長以下20名以上の混成チームの気持ちと情熱が一つになったことによって掴み取った栄冠でした。

須田社長ブログ補足版

以前の記事で80年前後のレースのことを書きましたが、その中の「81年鈴鹿4時間耐久レース」で私が大変お世話になった横浜の「モーターサイクルドクターSUDAhttp://www.drsuda.co.jp/shop/」の須田社長がご自身でブログを立ち上げられました。http://blogs.yahoo.co.jp/drsudanet/16769724.html 
イメージ 2
長津田駅近くの、まるで夜逃げしたラーメン屋の跡のようなみすぼらしい 質素なことこの上ないバイク店が、乏しい資金や設備の中で、当時脚光を浴びつつあったFⅢマシンを開発、2度目の挑戦で表彰台を独占する快挙を成し遂げ、その後アメリカのボンネビル・ソルトレイクでの市販車による時速300km/hに挑戦するストーリーが中心となっています。
須田社長のブログに私がコメントを入れさせていただいたところ、数日後にお電話をいただき、当時の思い出話に花が咲いたのですが、やはり30年の時の流れ・・・ 更に御歳70歳・・・
さすがの切れ者社長もご記憶がやや曖昧というかあやふやになられておられまして・・・(^^ゞ
そして昨日は例のマフラー職人の小林君から電話が入り・・・ 「社長もけっこう記憶があやふやになってるよな〜 あんたは記憶力がいいから、あんたのブログで補足版を書いてあげたら」・・・とのこと。
ま、私の記憶と言ってもあくまでライダー側の記憶であり、社長のそれとは微妙に違いがあるかもしれませんが、あの時同じ空気を吸って同じ時間を共有したのは間違いの無いことなので、出来うる限り正確に当時のことを思い出してみました。

本番の4時間耐久の前哨戦となる鈴鹿200キロレース。須田社長は私と電話で話すまでこのレースのことを完璧に忘れておられました・・・\(◎o◎)/!
社長が不眠不休で作り上げた三台のFⅢマシンが初めて揃い踏みしたレースです。
ライダーはteam・Dr・SUDA生え抜きの後藤選手と、当時「プロダクション・オブ・ゴッドハンド」と呼ばれたチーム基本マスターズの石原選手、そして私。
土曜日の予選は雨模様、ところがタイヤメーカーの手違いでレインタイヤが届かず、手彫りのカットスリックで予選を走る羽目に・・・
びびる私に須田社長が「コーナーは無理しないで、バイクが真っ直ぐになってからアクセル開けりゃいいよ、後ろのほうでも予選さえ通過すりゃ明日にはレインタイヤが届くから」と声をかけてくれました。
アドバイス通りにコーナーは抑え気味で走り、ストレートでマシンのパワーにモノを言わせての走りでどうにか14位で、あとの二台も似たような順位で無事に予選通過で一息つきました。
3分の2以上が予選落ちするこのクラス、タイヤに不安を抱えながらもこの順位につけることができ、このマシンの素性の良さを感じることが出来ました。

イメージ 1

私のマシンは前年の4耐で伝説の女性ライダー堀ひろ子さんが乗り、第一コーナーで転倒炎上したものを修復した「焼き入れ一号車」でした。







翌日の決勝レース。 やはり天候は雨、それも前日より激しくなっています。
無事に届いたレインタイヤを装着されたマシンでスターティンググリッドに並びます。
当時は現在のクラッチスタートとは異なり「押し掛けスタート」
濡れた路面、圧縮比の高いこのマシンの押し掛けに体重の軽い私は失敗し、2回目のプッシュでようやくエンジンに火が入りましたが、第一コーナーへの進入はビリッケツ・・・
雨天のレースでのスタートミスは前走車の巻き上げる水煙で極めて視界が悪く致命的なミスです。
一週目ヘアピン進入は正に団子状態で、それでも徐々に順位をあげ、ラスト2周のバックストレッチで後藤選手をパス、同じエンジンでも体重の軽い私は最高速度で有利なのです。
そしてラストラップのヘアピン侵入でモリワキレーシングの福本選手をパス。
結果は石原選手が流石の2位、私が9位、鈴鹿初レースの後藤選手が11位でした。
石原選手は順当ですが、ホームグランドの筑波と比べて路面のミューが低く、それも雨の鈴鹿初体験で11位の後藤選手には驚きました。
私もスタートの遅れを取り戻し33台を抜いてなんとか入賞しましたが、それもこれもすべてマシンの性能に負うところが大きく、本番の4時間耐久へ向けての手ごたえを掴んだレースでありました。

補足版②に続く・・・





全3ページ

[1] [2] [3]

[ 前のページ | 次のページ ]

本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事