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続 き 八王子千人同心(千人隊)って知ってます!? 徳川家が関東移封された後、武田の旧臣を雇いいれたのが始まりです。 これに八王子城が廃城された後、北条の旧臣も加わったそうです。 この話は、歴史の本ではあまり紹介されてませんが、後ほど紹介する八王子城跡資料館のおじいちゃんが教えてくれました。 八王子千人隊の任務は甲州街道と武蔵国国境の警備です。 三代将軍・家光の時代には国内情勢が安定してきたため、街道・国境警備より日光東照宮警備に重きが置かれたそうです。また、幕末にはお台場での警備(外国船の監視)も付されたそうです。 千人組は八王子に集団で居住し、普段は農業に従事していました。半士半農の生活を送っており、任務に就くときのみ帯刀していたそうです。 千人を200名の隊に分け、この隊が交代で日光やお台場の警備についたそうです。 資料館のおじいちゃんは、北条旧臣、八王子千人隊の子孫の方で、本に載ってないことまで教えていただきました。 こうやって、歴史というものは伝えられているんだなと実感しました。 では、写真の紹介です。 千人町という地名が残っており、京王バスのバス停もあります。 どこかに石碑があるとのことですが、分かりませんでした。 次は石碑も見てみます。 甲州街道はきれいな並木路として整備されてます。 お決まりのwikiです。更に詳しく知りたい方は、wikiを見てください。 徳川家康の江戸入府に伴い、1600年(慶長五年)に発足した。当初は代官頭大久保長安が統括した。
千人同心は、甲斐武田家の滅亡後に徳川氏によって庇護された武田遺臣を中心に、近在の地侍・豪農などで組織された。甲州街道の宿場である八王子を拠点としたのは、武田家遺臣を中心に甲斐方面からの侵攻に備えたためである。甲斐が天領に編入され、太平が続いて国境警備としての役割が薄れると、1652年からは交代で家康を祀る日光東照宮を警備する日光勤番が主な仕事となった。 千人同心の配置された多摩郡はとかく徳川の庇護を受けていたので、武州多摩一帯は同心だけでなく農民層にまで徳川恩顧の精神が強かったとされる。 もとは武田、北条の身分ある家柄だったんでしょうが、徳川家では御家人ではあるが同心身分でした。 おじいさんは北条系であるため、「北条魂を持って徳川に殉じた」と話されておりました。
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↑これはどこか革ではないのですかねぇ?
2008/8/16(土) 午後 11:09
みーちゃん、この胴丸(鎧)は鉄製ですよん!
鎧が革で作られていたのは、鉄砲が登場するまでです。
それまでは鉄板を作る技術が低く、せいぜい厚さ3ミリしか製造できなかったので、革に膠や漆を塗った短冊状のものを紐で繋ぎ合わせた鎧を主用してました。 これを「縅(おどし)」っていいます。
縅は高価なので足軽等の下級武士は使えず、領主が用意した具足(鎧)を使用してたようです。 写真の具足は徳川将軍家が準備して、貸し出していたのでしょう。多分
2008/8/16(土) 午後 11:21
そっかぁ、鉄砲強しですもんねぇ。
時代背景を知ると、色々推測できますものねぇ。
あっ、鉄砲で思い出しましたけど、ごく稀に牛の革にも射抜かれた跡があるそうです。
まだ出会ったことはないのですが・・・(^^;
2008/8/17(日) 午前 1:50
みーちゃん、安土桃山時代の日本の鉄砲の保有量って、全欧州の鉄砲の量よりも多かったそうです。 長篠の戦みたいな戦術も日本が最初だとか。
ただ残念なのは、徳川300年が平和すぎて、そのかんに完全に技術、戦術が停滞してしまったこと。
牛の革に射抜かれた跡って、、、、銃で牛仕留めることないよねぇ。 どうゆうことなのかな!?
2008/8/17(日) 午前 2:28
はじめまして、今ちょっと時間がないので後でまた伺いますね(^^♪
トラバだけさせていただきます。
2008/8/17(日) 午前 5:24 [ - ]
ご訪問ありがとうございました。千人隊は国境警備隊みたいなものですね。
2008/8/17(日) 午前 6:25
バーバさん、コメント・トラックバックありがとうございます(^^♪
そろそろ、八王子城跡についてもアップしますので、また遊びに来てくださいね。
2008/8/17(日) 午後 3:40
KKCさん、コメントありがとうございます。
千人同心は、主を失った侍を放って置くと夜盗化し、お家再興を企み反抗してくるので、そういうことを防ぐ戦後処理という意味もあったのでしょうね。 多分
2008/8/17(日) 午後 3:43