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といっても、私は100名城を巡るようになるまで松阪城の存在を知りませんでした(唖然) 松阪と言えば、、、、松阪牛しか知りませんでしたかからね^_^; 今回の松阪城を行くは、お伊勢詣でと一緒に行ったもの なので、ゴールデンウィークに行ったものです。 旬は過ぎてます(反省) 松阪城の説明板からの写しは↓↓↓です。 一言で現状を伝えれば、街中にある石垣だけが残っている小さなお城です。 松阪城は蒲生氏郷が天正16年(1588)に、三重県松阪市の四五百森に構築した平城である。 氏郷が会津若松へ移封後は、天正19年(1591)に服部一忠に、文禄4年(1595)に古田重勝にと城主が代わり、元和5年(1619)に紀州藩領となって、勢州18万石を統括する城代が置かれてきた。 城は北を大手、南を搦手とし、本丸・二の丸・三の丸・隠居丸・希代丸・出丸よりなり、本丸・二の丸には高い石垣を築き、外郭に深田堀・水堀をめぐらせていた。 三層の天守閣と金の間・月見・太鼓等の櫓がそびえ立っていたが、正保(1644年頃)の台風で天守閣は倒壊したと伝えられている。また、二の丸には寛政6年(1794)に建立された徳川陣屋があった。 明治14年(1881)に城址公園となる。 城に登るとすぐに見事な枡形が姿を現します。 本丸です。奥に見えるのが天守台です。 二の丸の石垣です。野面積の特徴が良く分かります。 町と城跡が共存してます。
こういう風景はいいですねぇ。 |
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お伊勢詣でといえば、「赤福」ですよね(^^♪ 結婚前に伊勢神宮に行くと幸せになれるという話を聞いてきたというのが理由だそうです。 んじゃ、ついでに日本100名城も回りたいとの私の提案も受け入れられ、 三重県に所在する「伊賀上野城」と「松阪城」も行くことに。 (お城の件は別に書きます) ところで、伊勢神宮とは? 日本人なら、、、これぐらいは当然知っているでしょうと思いたいのですが、、、 モモもモモ妹も、まったく由緒を知らなかった(-_-; うぅぅ〜ん、、、、日本の学校教育はどうなってんだと。。。。 早い話が天皇家の祖先(天照大神)をお祭りした日本で一番由緒正しき神社で、 (異論はあるかと思いますが)日本人すべての源といって過言でない神聖な場所です。 伊勢神宮は「お伊勢さん」とか「大神宮さん」とか呼ばれ親しまれて、日本人の心のふるさとになっています。 伊勢神宮は正式には「神宮」と呼ばれ、内宮(皇大神宮)と外宮(豊受大神宮)のほか、14の別宮、摂社・末社など125社で成り立っています。 これらの宮社は伊勢市内とその近郊(松阪市・鳥羽市・志摩市・度会郡など)に御鎮座しています。 内宮が現在の伊勢の地にお祀りされて2000年が過ぎました。 『日本書紀』には「天照大神、倭姫命におしえて曰く『この神風の伊勢の国は常世の浪の重浪(しきなみ)の帰(よ)する国なり、かた国のうまし国なり、この国に居(お)らむとおもう』とのたもう」とあり、また、『万葉集』には、「神風の伊勢の国は山も河も美しい御食(みけ)つ国」とあります。 この伊勢の地は神話の時より、気候風土に恵まれ、大自然に育まれたまさに『美し国(うましくに)・伊勢』なのです。 2000年という、長い長い年月の中で現在のような姿になりましたが、1300年前にはほぼ現在と同じ社殿が造られ、第1回の式年遷宮が行われています。伊勢醤油HP:http://www.isesyoyu.co.jp/jinguu/index.htm 天照大神にお供えする食べ物の神様で、農業を初めとする諸産業の神様といわれています。 この中が本殿です。 神聖な場所につき撮影はできません。 伊勢神宮は天皇家の祖先を祭ってある神社であるため、普通の人はお供えができません。 なので、お供えを仲介する「御師」と呼ばれる人々がいて、 彼らが全国各地を周り「お伊勢講」を組織化していったそうです。ツアコンの走りです。 最盛期には人口の6人に1人にあたる、500万人が参拝したとのことで、 今も立派な門前町が残っています。 これが、「おはらい町」です。 この中で、最近綺麗に整備されたのが「おかげ横丁」です。 以前訪れた川越みたいな感じです。 ご神体は「八咫鏡(やたのかがみ)」です。 ご存知のとおり、これは三種の神器の一つで、天皇即位するにあたり 八咫鏡(やたのかがみ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)と天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を所持することが、正当な皇位継承の条件であるとされています。 ちなみに、伊勢神宮の建築様式は、唯一神明造りと呼ばれています。 これは、神明造りの簡素直線式・切妻平入造りに加えて、次の特徴があります。 ・高床式で棟木の両端を支えている棟持柱がある事。 ・柱が丸柱で掘立式である事。 ・檜で造った素木造りである事。 ・屋根の両妻にある破風板が屋根を貫いて、千木となっている事。 ・屋根は茅葺きで、棟の上には鰹木が置かれている事。 ・両宮の御正殿には、高欄が巡らしてあり、五色の据え玉がある事。 これら神明造りは高倉形式から宮殿形式に発展したといわれており、日本の建築で最も古い形式とされています。 残念ながら五十鈴橋は架け替え中でした。 別宮の「風日祈宮に行ってみました。 元寇の時に神風を吹かして日本を守った神様だそうです。 護国安寧をお祈りしてきました。 お宮の横に同じ広さの敷地がありますが、これは式年遷宮のためです。 20年に1度、全ての建造物を同じ形で再建することにより、 二千年以上も古来の姿を伝えてきました。 いよいよ本殿です。 若い今風の兄ちゃん、姉ちゃんも脱帽し、作法に則り参拝してました。 門外不出 伊勢神宮本殿です。 この中に三種の神器があるのかと思うと、、、、感激でした。 日本文化、特に神道には自然に対する日本人の素朴な感情が表れていると思います。 森や川をみて神聖な気持ちになるのは、日本人に刻まれたDNAなのでしょう。 伊勢神宮には樹齢1000年を超えるんじゃと思われる大木が多数ありました。 五十鈴川の風景です。
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と言いても、1月のことです^_^; 写真は撮っていたのですが、中々アップできませんでした。 本妙寺とは? 本妙寺(ほんみょうじ)は、熊本県熊本市の熊本城の北西にある日蓮宗六条門流の寺で大本山本圀寺から「六条門流九州総導師」の特別寺格を与えられている。山号は発星山。本尊は十界曼荼羅。 日蓮宗の熱心な信者であり肥後熊本藩の初代藩主だった加藤清正を祀る浄池廟(じょうちびょう)があることで知られる。奥に長い石段があり、上ると加藤清正の銅像がある。 実家のお墓があることと、熊本市内中心部の小中学校の遠足コースであったため、 幼き頃から何度となく参拝しました。 実家の墓の直ぐ近くにある、本妙寺歴代高僧の墓です。 浄池廟から石段を、、、、と言いたいのですが、 これでは長い石段がまったく分かりません。 とにかく長い石段があります。。。 清正公が眠る「浄池廟」です。 ここに清正公がお眠りになっているのかと思うと感慨無量です。 浮かれているのはモモ(嫁、、、になりました)です。 清正公の銅像です。 格好イイ!! 熊本市内には3ヶ所(だったと思う)、清正公の銅像がありますが、これが一番いいです。 私、、、、この1/10銅像があれば、絶対買います。 世界一美味い!!と思っている「桂花ラーメン」本店です。 私はこれを食べて大きくなりました。 新宿、渋谷、横浜など首都圏にも店があります。時々、食べに行ってます どうでもいい、写真です。 更なる番外編です 熊本が誇るスザンヌの母・キャサンリンさんが経営するスナック「キャサリン」です。 桂花ラーメン本店の隣にあります。 |
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私、なんと熊本城の城主なんです!! と言っても、、、、何百人もいる城主のうちの一人なんですが^_^; 一坪地主ならぬ一口城主なんです。 天下の名城の城主になる機会なんて、そうそうないです。 興味ある方は、是非ご覧ください。 小学生のころは名札を見せれば無料で入ることができ、 観光バスのガイドさんの後ろを付いてまわり、ガイドの内容を聞いてました。 つ〜ことで、熊本城には軽く1000回以上登城しています。 今回はモモ(彼女)を伴っての帰省であり、 長時間お城ばかりを見ていられないため、『本丸御殿』に的を絞り見学することに。 実は、本丸御殿は平成20年4月から公開され始めたので、初めてのご対面なのです。 ところで、本丸御殿とはなんぞや!?という方のためにちょっと説明 一言で言うと、殿様の生活、職場です。 本丸御殿はどこの城にもありましたが、熊本城の特徴は、 加藤清正が、主君の豊臣家のいざの際、秀頼を迎えるために作ったと言われています。 熊本城HPからの引用です。 往時の本丸御殿には、藩主の居間、対面所(接客の場)や台所等の機能が備わっていたが、今回、大広間(対面所)、数寄屋(茶室)と大御台所(おおおんだいどころ)を復元した。 建築面積:約2,161平方メートル。建築費:約41億8千万円で復元。(発掘調査、設計等を含めた総事業費:約54億円) 見所は、障壁画の復元を行った「昭君之間(しょうくんのま)、若松之間(わかまつのま)」や全国的にも類例の無い地下通路「闇り通路(くらがりつうろ)」、巨大な小屋組みを見ることが出来る「大御台所」など。 本丸御殿の外観です。天守閣と同じ本丸にあります。 再建される前は、月見丸、西南の役で熊本鎮台を守った谷干城の銅像がありました。 モモちゃんは城の中を連れまわされ、足が痛いとご機嫌斜めです。 頬当門から入ると、まっすぐ本丸御殿に到達します。 ここから「闇り通路」を通らないと本丸には行けません。 これから闇り通路に入ります。 闇り通路とモモです。あいかわらず、ご機嫌斜め 電灯なんかなかった時代は、ホントに闇の中を歩く感じだったんでしょうね。 ここは昔の厨房です。 殿様が食べていた料理が再現されています。非常に質素です。 ここが大広間です。ここで清正、歴代藩主は接見してたんでしょうね。 これだけ襖が多い部屋をみると、映画「梟の城」のシーンを思い出します。 これから写真をお見せするのが招君之間です。 本丸御殿の最深部には、中国の故事に出てくる王昭君の絵画(襖絵とも屏風絵ともいわれる)のある「昭君之間(しょうくんのま)」と呼ばれる部屋があった。 この部屋には鶯張りの廊下や外へと通じる隠し通路があったといい、藩主の居間として使われていたようだが、一説によると、豊臣家の有事に際し秀吉の子秀頼を密かに匿うために造られた部屋であるといわれている。 “しょうくん”=“しょうぐん”(将軍)の意とする説がある(当時は濁点を打たないので、仮名で書けば同一になる)。表面上は天下人の徳川家康に恭順しながらも、秀吉への恩を忘れない清正の忠義を示しているのだという。 本丸御殿を訪れたなら、是非、復元の様子を説明するDVDをご覧ください。 400年も昔にこれだけ立派な建造物を立てた建築技術、これを現在も受け継ぐ職人の素晴らしさを実感できるはずです。 |
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昨日、川越城を行くをアップしましたが、その続きで小江戸 川越の町並みをご紹介します。 川越は、川越街道や新河岸川の舟運で江戸と結ばれた城下町で、穀物の中継、箪笥の生産などで商人たちは大いに富を蓄積し、城下町全体も「小江戸」と呼ばれるほどの繁栄を築きました。 江戸時代複数の藩に分かれていた埼玉県の第一の藩都だったそうです。(明治初期の入間県時代には県庁所在地だったそうです。) しかし、、、これから紹介する蔵作りの街は、江戸時代に形成されたものではありません。 蔵造り資料館の説明:http://www.kawagoe.com/kzs/kuradukuri.html 川越に蔵造りの町並みが形成される契機となったのは、明治26年の大火です。 この未曾有の大火災は、川越商人たちの防火対策への意識の変革をもたらしました。 川越商人は江戸時代以来、新河岸川の舟運などによる江戸との商いで富の蓄積があり、復興のための財力は十分にあったようですが、同じ惨事を繰り返さないよう、建物そのものを防火建築にすることを考えました。 大火の際に焼け残った建物が伝統的な工法による蔵造り建物であったことに着目し、商人たちは競って蔵造り建築による店舗(店蔵)を建てました。 黒漆喰の蔵造り蔵作りの街へ入ります。正式には「川越一番街」というらしいです。もう少し手前から時代を感じさせる町並みですが、ここからがメインストリートという感じです。 こんな感じの町並みが500mぐらい続いています。 甘味屋、刃物屋、土産屋等、観光客相手の店舗がたくさんあります。 こんな小道がたくさんあります。 屋根の形、鬼瓦の違いが面白いなぁと撮りました。 表通りから奥に入ると白漆喰の蔵もあります。 これも小道をちょっと入ったところです。 コーヒー、いや珈琲屋さんです。 暑かったのでお客さんがたくさん入ってました。 ちなみに手前に写っている女性は、韓国からの観光客です。 更に小道を奥に進むと突き当たりに大きなお寺がありました。(名前は失念) ナイルアングルでしょ(^^♪ |




