|
天寿国繍帳(天寿国曼陀羅繍帳)の考察 2006.5.7作成
天寿国繍帳(天寿国曼陀羅繍帳)の図像です。一部用紙の関係で全図を掲載することができませんでした。何れ、全図掲載を試みたいと思っています。図像は断片しか残っていませんが、銘文は『上宮聖徳法王帝説』などいくつかの文献で全文を知ることができます。全400文字 100匹の亀甲に4文字ずつ縫い込まれています。
kitunoの考察 「天寿国繍帳」は、その発見のエピソードから曰く付きとも言える感じがします。中宮寺を鎌倉時代に再興した尼僧信如によって法隆寺鋼封蔵から発見されました。「夢のお告げ」によってです。発見当時すでに痛みが激しく、建治元(1275)年、模本が作成されました。現存の「天寿国繍帳」は、残存した推古朝の原本と建治の模本を繋ぎ合わせた物を表装したものです。
天寿国繍帳の信憑性が疑われたのは、天寿国繍帳に記された間人母后の崩日干支がずれていたためで、持統朝に「天皇」の号が入った銘文を付したか、新たに製作されたのではないか、という疑問が投げかけられていました。 つまり、干支が当時行われていたはずの元嘉暦と合わず、持統四年以降元嘉暦と併用され文武朝から単独施行されたという儀鳳暦と一致することも指摘されているのです。
その疑問に対して、推古朝の物であると美術史家の立場から推論されたのが、美術史家の大橋一章氏です。『天寿国繍帳の研究』の中に書かれていることを要約すると ・天寿国繍帳図像は、服制や蓮華などから推古朝のものと考えられること ・図像と銘文は密接に関連していること ・銘文はごく断片しか現存していないが、中世につくられた復元銘文は正しく銘文を伝えていること となるようです。(註:kitunoは大橋氏『天寿国繍帳の研究』を読んだわけではなく、引用されている大津透氏『古代の天皇制』に書かれていたことです。) しかし、推古朝に観勒が伝えた暦は「元嘉暦」の可能性が強く、「朝廷では元嘉暦」が使われていたのではないかkitunoは思います。
2003年2月26日、飛鳥時代の迎賓館跡とされる奈良県明日香村の石神遺跡から、元嘉暦に基づく具注暦を記した木簡が発見され、検証の結果、これが持統天皇三年(689年)三月・四月のものであることが分かったと奈良文化財研究所が発表しています。つまり持統朝にはまだ「元嘉暦」だったわけです。
<暦の問題>
儀鳳暦は、中国唐の天文学者・李淳風が編纂した中国暦の暦法である麟徳暦が日本へ唐の儀鳳年間(676年/天武天皇5年〜679年/天武天皇8年)に伝わり儀鳳暦として使われていた太陰太陽暦の暦法で、中国で麟徳2年(665年)から開元16年(728年)までの73年間用いられたものなので、天寿国繍帳が儀鳳暦で書かれていたなら、天寿国繍帳は持統朝以後の可能性がある、というか決定的のようにも思います。 それにも関わらず、何故「天寿国繍帳は推古朝の物である」ということが通説として罷り通っているのか、これは先に述べた「大橋氏」の詳細な研究と、「戊寅暦」による論証が可能なためと思われます。 実は「辛巳」の年号が書かれているのは、「天寿国繍帳」だけではありません。「法興元31年」で始まる有名な法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘にも「法興元31年歳辛巳12月・・・」と書かれており、さらに釈迦三尊像の台座裏の落書きからも「辛巳」の文字が発見されています。また同じ台座には男性像が描かれていますが、これは天寿国繍帳に描かれている人物像とほぼ同じ服装をしており、台座の研究から「7世紀初めの人物のスケッチ」と結論が出されています。つまり、天寿国繍帳は法隆寺金堂釈迦三尊像とも関連性があることになります。 また暦を伝えた観勒は、寺伝によりますと(高田良信氏説)、法隆寺の初代別当であり、暦の専門家であった観勒が、中国では509年には使われなくなっていた元嘉暦ではなく、新たに「戊寅暦」を法隆寺内で使用していた可能性はあり、『日本書紀』は法隆寺史料を参考にしていないという見解もあることから、朝廷では「元嘉暦」が、法隆寺では「戊寅暦」が使用されていた可能性は否定できないと思います。 <仮名の問題>
上代特殊仮名遣いの最も古い物が推古朝と思われる法隆寺関係金石文なのではないでしょうか。金堂釈迦三尊像光背銘、そして問題の「天寿国繍帳」です。万葉仮名の甲類・乙類の区別が明確にされるようになったのがいつなのか、kitunoにはよくわからないのですが、とにかく推古朝の金石文に見られる固有名詞が上代特殊仮名遣いとして最も古い、と言われていたことだけは確かだと思います。 kituno作成のYahoo掲示板日本史のトピック「聖徳太子と織田信長に恋しています」の中で、ハンドルネームyamatogawakonanさんから次のような疑問が呈されました。 >天寿国繍帳銘文では「フト」の「ト」も「ミコト」の「ト」も「等」で表記しているのです。「等」は乙類のトの仮名ですから、「フト」の「ト」の仮名遣いを誤っていることになります。 >天寿国繍帳銘文についていえば「ト」表記している仮名が16ありますが、フトの「ト」以外は甲乙を正しく書き分けています。 >原銘文においてこのような仮名遣いの誤りが存在したのだとすれば、その銘文の撰文は推古朝どころではなく、奈良時代の、それも中頃までは下ると考えるのが妥当だと考えられます。 私が読んだところでは、「天寿国繍帳」の中で「と」が使われているのは人名で、「と」と発音すべきところは厩戸皇子の名以外は乙類の「等」で統一されています。 上宮聖徳法王帝説』ではこの「刀」ですが、「乃」と写本されている物(『信如祈請等事』)もあります。「等已乃彌彌乃彌己等」(トヨノミミノミコト)となっています。 それ以外(『日本書紀』『元興寺丈六像光背銘』『元興寺露盤銘』)では、『刀』を用いているので『刀』が正しいのでしょう。 聖徳太子の名前として ・「等已刀彌彌乃彌己等」(天寿国繍帳) ・「等与刀彌彌大王」(元興寺丈六像光背銘) ・「有麻移刀等刀弥々乃弥己等」(元興寺露盤銘) と「刀」と「等」を使い分けて、文字を当てていたのでしょう。 「天寿国繍帳」の仮名遣いを、「刀」の一文字だけで「間違い」と判断はできないのではないでしょうか。 yamatogawakonanさんが問題にされているのは、「ヌ(文字変換不能)奈久羅乃布等多麻斯岐乃弥己等(ヌナクラノフトタマシキノミコト)」(=敏達天皇)の部分かと思われますが、通説どおり天寿国繍帳が推古朝であるということであれば、『記紀』の「太」や『古事記』にみられる「賦斗」の方が後世ですから、「布等」の「等」が「斗」ではないということが、推古朝の上代特殊仮名遣いが間違っている証明になるという指摘には、無理があるのではないかと思います。。 天寿国繍帳が作成された頃は、糸も布も大変貴重なものであり、さらに刺繍の技術を持った者達(妥女ら)を仕える人物は限られていたに違いありません。私はこの銘文には当時の物としての矛盾が無く、この繍帳は推古天皇の孫娘である橘大郎女が発願し、推古時代(厩戸皇子の死後)から舒明天皇の頃に作成されたものであると考えています。「天寿国繍帳」は、橘大郎女の系図を明確に後世に残す目的と、聖徳太子が菩岐々美郎女と一緒に葬られたことでのジェラシーが、橘大郎女の正妃としてのプライドをかけて、太子と自分の関係の重要性を主張し、太子の死後「天寿国」での成仏を祈願して作らせた物ではないでしょうか。
太子には生前、橘大郎女の他に、菟道貝鮹皇女(推古の娘)・刀自古郎女(父・蘇我馬子)・菩岐々美郎女(膳部臣の女)の三人の后がいました。橘大郎女は菟道貝鮹皇女の弟・尾治王の子ですから、太子の后の中ではかなり年下であったと思われます。しかし、橘大郎女は太子に嫁いだ後、太子を心から愛したのではないでしょうか。私は女性ですから、歴史の考察に情を交えてしまいます。この銘文を読んでいると、切ないほどの太子への「けなげな思い」を感じるのです。孫娘に懇願され、太子とは僅かしか暮らせなかった孫娘の思いに、祖母である推古天皇は精一杯のことをしてあげようと思ったのではないでしょうか。天寿国繍帳は、橘大郎女の愛の証のように思えます。
もし奈良時代後半の物だと主張されるなら、
・誰が ・何故 時間と手間と労力と財をかけ、このような繍帳を作ったのか、誰もが納得いくような説明をしてほしいと思います。 ただ単に、天寿国繍帳の制作年代が疑われるというだけで、天寿国繍帳の銘文そのものを疑うようなことがあってはならないと考えます。 <参考文献> 「大和いかるが 中宮時の美」 編集 奈良国立博物館 「聖徳太子への鎮魂ー天寿国繍帳残照」 大橋一章・著 グラフ社 「古代の天皇制」 大津 透・著 岩波書店 「法隆寺の謎」 高田良信・著 小学館 *銘文及び読み下し文は、法隆寺発行「法隆寺ハンドブック」より引用掲載 http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8918/image2.jpg http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8918/sky_tp.gif |
全体表示
[ リスト ]



