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天寿国繍帳の考察

天寿国繍帳(天寿国曼陀羅繍帳)の考察                  2006.5.7作成
天寿国繍帳(天寿国曼陀羅繍帳)の図像です。一部用紙の関係で全図を掲載することができませんでした。何れ、全図掲載を試みたいと思っています。図像は断片しか残っていませんが、銘文は『上宮聖徳法王帝説』などいくつかの文献で全文を知ることができます。全400文字 100匹の亀甲に4文字ずつ縫い込まれています。

天寿国曼陀羅繍帳銘文
                                                                          
  斯帰斯麻  宮治天下  天皇名阿  米久爾意 

  斯波留支  比里爾波  乃弥己等  娶巷奇大 

  臣名伊奈  米足尼女  名吉多斯  比弥乃弥 

  己等為大  后生名多  至波奈等  己比乃弥 

  己等妹名  等巳弥居  加斯支移  比弥乃弥 

  己等復娶  大后弟名  乎阿尼乃  弥己等為 

  后生名孔  
部間人公  主斯帰斯  麻天皇之 

  子名ヌ奈  久羅之布  等多麻斯  支乃彌己 

  等娶庶妹  名等巳弥  居加斯支  移比弥乃 

  弥己等為  大后坐乎  沙多宮治  天下生名 

  尾治王多  至波奈等  巳比乃弥  己等娶庶 

  妹名孔部  間人公主  為大后坐  濱辺宮治 

  天下生名  等巳刀弥  弥乃弥己  等娶尾治 

  大王之女  名多至波  奈大女郎  為后歳在 

  辛巳十二  月廿一癸  酉日入孔  部間人母 

  王崩明年  二月廿二  日申戌夜  半太子崩 

  
于時多至  波奈大女  郎悲哀嘆  息白畏天 

  
皇前日啓  之雖恐懐  心難止使  我大王与 

  
母王如期  従遊痛酷  无比我大  王所告世 

  間虚仮唯  
仏是真玩  味其法謂  我大王応 

  生於天寿  国之中而  彼国之形  眼所*看 

  稀因図像  欲観大王  往生之状  天皇聞之 

  悽然告曰  有一我子  所啓誠以  為然勅諸 

  妥女等造  繍帷二張  画者東漢  末賢高麗 

  加西溢又  漢奴加己  
利令者椋  部秦久麻 

太字は現存の亀甲銘  *は変換不能文字・・・匚に口
<読み下し文>

斯帰斯麻(しきしま)宮に天の下治ろしめしし天皇 名は阿米久爾意斯波留支比里爾波乃弥己等(あめくにおしはるきひろにはのみこと) 巷奇(そが)の大臣 名は伊奈米(いなめ)の足尼(すくね)の女(むすめ) 名は吉多斯比弥乃弥己等(きたしひめのみこと)を娶して大后とし 生みませる名は多至波奈等己比乃弥己等(たちばなとよひのみこと) 妹の名は等巳弥居加斯支移比弥乃弥己等(とよみけかしきやひめのみこと) 復(また) 大后の弟 名は乎阿尼乃弥己等(おあねのみこと)を娶して后と為し 生みませる名は孔部間人公王(あなほべはしひとのひめみこと) 斯帰斯麻天皇の子 名はヌ奈久羅之布等多麻斯支乃彌己等(ぬなくらのふとたましきのみこと) 庶妹 名は等巳弥居加斯支移比弥乃弥己等(とよみけかしきやひめのみこと)を娶して 大后と為し 乎沙多(おさた)の宮に坐して 天の下治しめして 生みませる名は尾治王  多至波奈等己比乃弥己等(たちばなとよひのみこと) 庶妹 名は孔部間人公王(あなほべはしひとのひめみこと)を娶して 大后と為し 濱辺の宮に坐して 天の下治しめして 生みませる名は等巳刀弥弥乃弥己等(とよとみみのみこと) 尾治大王の女 名は多至波奈大女郎(たちばなおおいらつめ)を娶して后と為したまう 

歳は辛巳に在る十二月廿一日癸酉の日入に 孔部間人母王 崩りたまう 明年の二月廿二日申戌の夜半に 太子 崩りたまいぬ 時に多至波奈大女郎 悲哀(かな)しみ嘆息(なげ)きて 天皇の前に畏み白して曰さく
「之を啓(もう)すは恐れありと雖も心に懐いて止使(やみ)難し 我が大王と母王と 斯りし如く従遊まして 痛酷(むご)きこと比なし 我が大王の所告(のたま)いけらく『世間は虚仮にして 唯仏のみ是れ真なり』と其の法を玩味(あじわい)みるに 我が大王は 応(まさ)に天寿国の中に生まれましつらんとぞ謂(おも)う 而るに 彼の国の形は眼に看がたき所なり 稀(ねが)わくば図像に因りて大王の往生したまえる状(さま)を観(み)んと欲(おも)う」
と天皇 之を聞こしめして 凄然たまいて告曰(のりたま)わく
「一の我が子有り 啓す 所誠に以て然か為す」
と諸の妥女等に勅して 繍帷二張を造らしめたまう

画ける者は 東漢末賢(やまとのあやのまけん) 高麗加世溢(こまのかせい) 又 漢奴加己利(あやのぬかこり)
令せる者は 椋部秦久麻(くらべのはたのくま)なり

kitunoの考察
「天寿国繍帳」は、その発見のエピソードから曰く付きとも言える感じがします。中宮寺を鎌倉時代に再興した尼僧信如によって法隆寺鋼封蔵から発見されました。「夢のお告げ」によってです。発見当時すでに痛みが激しく、建治元(1275)年、模本が作成されました。現存の「天寿国繍帳」は、残存した推古朝の原本と建治の模本を繋ぎ合わせた物を表装したものです。
天寿国繍帳の信憑性が疑われたのは、天寿国繍帳に記された間人母后の崩日干支がずれていたためで、持統朝に「天皇」の号が入った銘文を付したか、新たに製作されたのではないか、という疑問が投げかけられていました。 つまり、干支が当時行われていたはずの元嘉暦と合わず、持統四年以降元嘉暦と併用され文武朝から単独施行されたという儀鳳暦と一致することも指摘されているのです。
その疑問に対して、推古朝の物であると美術史家の立場から推論されたのが、美術史家の大橋一章氏です。『天寿国繍帳の研究』の中に書かれていることを要約すると ・天寿国繍帳図像は、服制や蓮華などから推古朝のものと考えられること ・図像と銘文は密接に関連していること ・銘文はごく断片しか現存していないが、中世につくられた復元銘文は正しく銘文を伝えていること となるようです。(註:kitunoは大橋氏『天寿国繍帳の研究』を読んだわけではなく、引用されている大津透氏『古代の天皇制』に書かれていたことです。)
しかし、推古朝に観勒が伝えた暦は「元嘉暦」の可能性が強く、「朝廷では元嘉暦」が使われていたのではないかkitunoは思います。
2003年2月26日、飛鳥時代の迎賓館跡とされる奈良県明日香村の石神遺跡から、元嘉暦に基づく具注暦を記した木簡が発見され、検証の結果、これが持統天皇三年(689年)三月・四月のものであることが分かったと奈良文化財研究所が発表しています。つまり持統朝にはまだ「元嘉暦」だったわけです。
<暦の問題>
儀鳳暦は、中国唐の天文学者・李淳風が編纂した中国暦の暦法である麟徳暦が日本へ唐の儀鳳年間(676年/天武天皇5年〜679年/天武天皇8年)に伝わり儀鳳暦として使われていた太陰太陽暦の暦法で、中国で麟徳2年(665年)から開元16年(728年)までの73年間用いられたものなので、天寿国繍帳が儀鳳暦で書かれていたなら、天寿国繍帳は持統朝以後の可能性がある、というか決定的のようにも思います。 それにも関わらず、何故「天寿国繍帳は推古朝の物である」ということが通説として罷り通っているのか、これは先に述べた「大橋氏」の詳細な研究と、「戊寅暦」による論証が可能なためと思われます。

実は「辛巳」の年号が書かれているのは、「天寿国繍帳」だけではありません。「法興元31年」で始まる有名な法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘にも「法興元31年歳辛巳12月・・・」と書かれており、さらに釈迦三尊像の台座裏の落書きからも「辛巳」の文字が発見されています。また同じ台座には男性像が描かれていますが、これは天寿国繍帳に描かれている人物像とほぼ同じ服装をしており、台座の研究から「7世紀初めの人物のスケッチ」と結論が出されています。つまり、天寿国繍帳は法隆寺金堂釈迦三尊像とも関連性があることになります。 また暦を伝えた観勒は、寺伝によりますと(高田良信氏説)、法隆寺の初代別当であり、暦の専門家であった観勒が、中国では509年には使われなくなっていた元嘉暦ではなく、新たに「戊寅暦」を法隆寺内で使用していた可能性はあり、『日本書紀』は法隆寺史料を参考にしていないという見解もあることから、朝廷では「元嘉暦」が、法隆寺では「戊寅暦」が使用されていた可能性は否定できないと思います。
<仮名の問題>
上代特殊仮名遣いの最も古い物が推古朝と思われる法隆寺関係金石文なのではないでしょうか。金堂釈迦三尊像光背銘、そして問題の「天寿国繍帳」です。万葉仮名の甲類・乙類の区別が明確にされるようになったのがいつなのか、kitunoにはよくわからないのですが、とにかく推古朝の金石文に見られる固有名詞が上代特殊仮名遣いとして最も古い、と言われていたことだけは確かだと思います。

kituno作成のYahoo掲示板日本史のトピック「聖徳太子と織田信長に恋しています」の中で、ハンドルネームyamatogawakonanさんから次のような疑問が呈されました。

>天寿国繍帳銘文では「フト」の「ト」も「ミコト」の「ト」も「等」で表記しているのです。「等」は乙類のトの仮名ですから、「フト」の「ト」の仮名遣いを誤っていることになります。
>天寿国繍帳銘文についていえば「ト」表記している仮名が16ありますが、フトの「ト」以外は甲乙を正しく書き分けています。
>原銘文においてこのような仮名遣いの誤りが存在したのだとすれば、その銘文の撰文は推古朝どころではなく、奈良時代の、それも中頃までは下ると考えるのが妥当だと考えられます。

私が読んだところでは、「天寿国繍帳」の中で「と」が使われているのは人名で、「と」と発音すべきところは厩戸皇子の名以外は乙類の「等」で統一されています。
上宮聖徳法王帝説』ではこの「刀」ですが、「乃」と写本されている物(『信如祈請等事』)もあります。「等已乃彌彌乃彌己等」(トヨノミミノミコト)となっています。 それ以外(『日本書紀』『元興寺丈六像光背銘』『元興寺露盤銘』)では、『刀』を用いているので『刀』が正しいのでしょう。
聖徳太子の名前として
・「等已刀彌彌乃彌己等」(天寿国繍帳)
・「等与刀彌彌大王」(元興寺丈六像光背銘)
・「有麻移刀等刀弥々乃弥己等」(元興寺露盤銘) と「刀」と「等」を使い分けて、文字を当てていたのでしょう。

「天寿国繍帳」の仮名遣いを、「刀」の一文字だけで「間違い」と判断はできないのではないでしょうか。 yamatogawakonanさんが問題にされているのは、「ヌ(文字変換不能)奈久羅乃布等多麻斯岐乃弥己等(ヌナクラノフトタマシキノミコト)」(=敏達天皇)の部分かと思われますが、通説どおり天寿国繍帳が推古朝であるということであれば、『記紀』の「太」や『古事記』にみられる「賦斗」の方が後世ですから、「布等」の「等」が「斗」ではないということが、推古朝の上代特殊仮名遣いが間違っている証明になるという指摘には、無理があるのではないかと思います。。
天寿国繍帳が作成された頃は、糸も布も大変貴重なものであり、さらに刺繍の技術を持った者達(妥女ら)を仕える人物は限られていたに違いありません。私はこの銘文には当時の物としての矛盾が無く、この繍帳は推古天皇の孫娘である橘大郎女が発願し、推古時代(厩戸皇子の死後)から舒明天皇の頃に作成されたものであると考えています。「天寿国繍帳」は、橘大郎女の系図を明確に後世に残す目的と、聖徳太子が菩岐々美郎女と一緒に葬られたことでのジェラシーが、橘大郎女の正妃としてのプライドをかけて、太子と自分の関係の重要性を主張し、太子の死後「天寿国」での成仏を祈願して作らせた物ではないでしょうか。
太子には生前、橘大郎女の他に、菟道貝鮹皇女(推古の娘)・刀自古郎女(父・蘇我馬子)・菩岐々美郎女(膳部臣の女)の三人の后がいました。橘大郎女は菟道貝鮹皇女の弟・尾治王の子ですから、太子の后の中ではかなり年下であったと思われます。しかし、橘大郎女は太子に嫁いだ後、太子を心から愛したのではないでしょうか。私は女性ですから、歴史の考察に情を交えてしまいます。この銘文を読んでいると、切ないほどの太子への「けなげな思い」を感じるのです。孫娘に懇願され、太子とは僅かしか暮らせなかった孫娘の思いに、祖母である推古天皇は精一杯のことをしてあげようと思ったのではないでしょうか。天寿国繍帳は、橘大郎女の愛の証のように思えます。
もし奈良時代後半の物だと主張されるなら、
・誰が
・何故
時間と手間と労力と財をかけ、このような繍帳を作ったのか、誰もが納得いくような説明をしてほしいと思います。

ただ単に、天寿国繍帳の制作年代が疑われるというだけで、天寿国繍帳の銘文そのものを疑うようなことがあってはならないと考えます。



<参考文献>
「大和いかるが 中宮時の美」 編集 奈良国立博物館
「聖徳太子への鎮魂ー天寿国繍帳残照」 大橋一章・著 グラフ社
「古代の天皇制」  大津 透・著 岩波書店
「法隆寺の謎」  高田良信・著 小学館
*銘文及び読み下し文は、法隆寺発行「法隆寺ハンドブック」より引用掲載

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8918/image2.jpg

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8918/sky_tp.gif
今年の幕あげに、NHKで伊勢神宮と出雲大社について特集していました。
元旦と二日は、大みそかまでの忙しさと違って、泊まり客たちは初詣に行ったりゴルフに行ったりして、主婦は出かけた人たちが帰ってくるまでのんびりしていられます。
 
伊勢神宮と出雲大社・・・
昨年、三輪山や纏向遺跡・箸墓古墳付近をうろうろしてきたのですが、感じたことはやはり纏向には三輪山を信仰していたナガスネヒコ一族がいて、その後九州から太陽を信仰するヤマト族がやってきて、大和を禅譲したとしか思えないということでした。
 
【古事記に残る出雲の国譲りとは、実は出雲で起きたことではなく大和で起きたことであり、大和の地を圧倒的な武力で九州からやってきたヤマト族にその地を譲らざるを得なかった。
元々大和で暮らしてきた一族は、長(大物主)を神(大国主命)として祀るという条件で出雲に流され、高い社殿(出雲大社)に祀られた。】
 
纏向では2種類の建物の跡が発掘されました。
一つは伊勢神宮ともう一つは出雲大社の造りと同じだという。出雲大社と同じ造りの建物は、三輪山を神の住まうところとして信仰してきた一族の建物で、そしてその建物の目の前に伊勢神宮と同じ建物が建てられており、これは神同士の禅譲を意味するのではないでしょうか。
 
【ヤマト族の神は鏡をその姿とする天照大神で女性神、日の出る海辺「伊勢」に祀られた。】
最初は出雲の神たちとの共存も考えたのでしょう。
「元伊勢」と言われる「桧原神社」が三輪山にあります。
でも、三輪山は蛇を信仰する一族の山です。三輪山の形は「大蛇そのもの」です。
 
ヤマタノオロチ伝説も出雲の地で起きたことではなく大和の地、三輪山の麓で起きた戦いが伝説になったもので、おろちを神として信仰してきた一族は、刀を武器とするヤマト族に敗れてしまった。
そして、出雲に流されてしまったのです。
 
纏向遺跡の発掘状況は、どんどん梅原猛氏の『神々の流竄』に書かれていることが裏付けているような気がしてなりません。
 
私が纏向に行って感じたことも
「大和族と出雲族(出雲に流されてしまった一族)が一時三輪山の麓の纏向で共存していた」ということでした。大和を乗っ取ったヤマト族はその後様々な脅威(伝染病の流行など)に襲われます。それを【出雲に追いやってしまった神の祟り】と思ったヤマト族長は、元々大和にいた一族が信仰していた三輪山に「大神神社」を建て、蛇を祀り、大物主を祀って、出雲族の親族だった「オオタタネコ」に管理をさせたのです。
そして、さらにヤマト族長は、一時は三輪山に天照大御神を祀ったものの(桧原神社)、大物主の祟りを恐れ、天照大神を伊勢に祀ったのです。
 
元々大きな力を持っていた出雲大社は、60年に一度のの遷宮です。
大物主に対抗するためには、天照大神は20年に一度建て替えをして、神の力を再生しなければならなかったのです。
 
新年早々、大和で起きた「国譲り」に思いを馳せた私でした。

「十七条憲法 第3条」

「十七条憲法」について、ブログの中にも書き込んでいこうと決意してから更新もせず、あっという間に2年の月日が流れてしまいました。

公私共に激動の2年間で、トピックもブログも更新できない状態が続いていましたが、その間心の支えになっていたのが、『十七条憲法』の一文一文でした。

時間と心に余裕のあるとき、少しでも多くの人に聖徳太子が残した「今に通じる言葉のひとつひとつ」を伝えていきたいと思います。

第三条
「三に曰く、詔(みことのり)を承りては必ず謹め。君をば天とす。臣をば地とす。天は覆い、地は載す。四時(しいじ)に順(したが)い行いて、万気通うことを得(う)。地、天を覆わんとするときは、壊(やぶ)るることを致さん。ここをもって、君言(のたま)うときは臣承る。上(かみ)行うときは下(しも)靡(なび)く。ゆえに詔を承りては必ず謹め。謹まずば、おのずから敗れん。」


<現代語訳>

「三にいう天皇の詔を受けたら必ずつつしんで従え。君を天とすれば、臣は地である。天は上を覆い、地は万物を載せる。四季が正しく移り、万物を活動させる。もし地が天を覆うようなことがあれば、秩序は破壊されてしまう。それ故に君主の言を臣が良く承り、上が行えば下はそれに従うのだ、だから天皇の命をうけたら必ずそれに従え。従わなければ結局自滅するだろう。」

戦争中はこの第三条を「天皇権力を絶対としてまつりあげるため」に利用しました。 それによって多くの民の命が奪われたことは、決して太子の望むところではありませんでした。 太子は「戦わずして」隋との国交を開いたのですから。 「詔を承りては必ず謹め」と説いている相手は、天皇の“臣”であるべき「古代豪族」達であり、決して一般国民に対してではないのです。 そして、その前提に第二条の「性善説」があるのです。

第二条の「悪しきもの少なし。よく教うるをもて従う」

多くの臣下に対し、「人ははなはだしく悪いものは少ない。よくおしえれば必ず従わせられる。」と信頼を寄せています。「天」となるべき「天皇」自身の人間性・倫理性を前提としていること忘れてはなりません。聖徳太子は推古天皇に対して『勝鬘経』を説いています。、『勝鬘経』は勝鬘夫人の為に釈迦が説法したものであり、夫人は釈迦如来の分身とされ、法雲地という求道者の最高の地位を得ている人です。推古天皇自身が仏教によってその人間性を高める必要性を聖徳太子は痛感していたのだろうと思います。

『勝鬘経』は「人間にはすべて仏になる可能性を大きく認めている」のです。
このお経の経題について、太子は義疏の中で詳しく説明しています。

「勝鬘(幸福の花飾り)とは、この世の人々が七つの宝(七宝)で、肉体を美しく飾る
 ものである。この経の主人公である勝鬘夫人はまさにその名にふさわしい王妃であった
 が、今ここで釈尊に出会ってからは、真理を身体とする法身の姿を現し、あらゆる修行
 によって法身の自己を飾る者となった。それ故に夫人を呼んで勝鬘というのである。」  (後略)」

この部分を読んだだけでも、『日本書紀』の中で「姿色端麗、進止軌制」と記されている推古天皇の姿と勝鬘夫人の姿が合い重なっているように感じます。

「十七条憲法 第3条」

第三条

「三に曰く、詔(みことのり)を承りては必ず謹め。君をば天とす。臣をば地とす。天は覆い、地は載す。四時(しいじ)に順(したが)い行いて、万気通うことを得(う)。地、天を覆わんとするときは、壊(やぶ)るることを致さん。ここをもって、君言(のたま)うときは臣承る。上(かみ)行うときは下(しも)靡(なび)く。ゆえに詔を承りては必ず謹め。謹まずば、おのずから敗れん。」

【現代語訳】

「天皇の詔を受けたら必ず謹んで従え。君を天とすれば、臣は地である。天は覆い、地は載せる。四季は順に移り行くから、万物はそれぞれに活動することができるのである。もし、地が天を覆うようなことがあったら、それは破壊が起きるだけである。これをもって、君が言うことには臣は承る。そして上が行うときには下は従う。だから天皇の命には必ず従わなければならない。従わないときは自ら滅ぶことになるだろう。」

第三条を読むと、『十七条憲法』の対象が一般国民ではなく「官僚」であることが明確にわかると思います。
「詔を承りては必ず謹め」という言葉だけを取り上げて、『十七条憲法』は天皇の下での絶対権力の確立や民の天皇服従を表した憲法である、と解釈される説がありますが、これは明らかに間違いです。 「君をば天とす。臣をば地とす」とし、決して「民をば地とす」とは言っていないのです。

『17条憲法』は、あくまでも天皇に仕える「臣」の心得なのです。

第二次世界大戦中、この第三条は「天皇権力を絶対としてまつりあげるため」に利用されました。
それによって多くの民の命が奪われたことを、もし太子が天寿国で見ていたとしたら、太子は痛恨の思いを抱いたことでしょう。 『17条憲法』を読み進めていけばわかるのですが、太子は民衆のことを一番に思いやっているのですから。

繰り返しになりますが、「詔を承りては必ず謹め」と説いている相手は、天皇の“臣”であるべき「古代豪族」達であり、決して一般国民に対してではないのです。 そして、その前提に第二条の「性善説」があるのです。

私は何故日本古代史にこんなにも興味があるのだろうと、ふと思いました。

世界の古代史ではなく、何故日本の古代史に興味があるのだろう。

その答えを見つけました。
日本の古代は、現代の日本を見ても「今に生きているから」です。

例えば「神社」
無神論者とか唯物論者とか言っている人の中にも、初詣にはなんの抵抗もなく神社に出かける人がいたり。
神社に祀られている神様を調べてみると、必ず『記紀』に登場する神様。
伊勢神宮も出雲大社もずっと生きたまま現存しています。

世界の古代遺跡はどうでしょう?廃墟となっている所がほとんどではないでしょうか。

それから地名。
『記紀』の神話に登場する地名が、現代も生きています。伝承が地名になっているのです。

多くの学者に『記紀』の創作人物とされている「日本武尊」・・・
でも、活躍した場所に地名が残り、草薙の剣は今も「熱田神宮」に祀られています。

何故地名が残り、剣が伝えられているのか。
このことを明確に説明できない限り、『記紀』の創作とは断言できないのです。

腰痛の間、『古事記』を読みました。
何度読んでも面白い!

古代史を学ぶことは、「日本人」について知ることができるのです。

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