常陸国中世史備忘録(常陸大掾氏と常陸府中)

常陸大掾氏や常陸平氏を中心に取り上げています。文献屋なので論文を書く資料として、特に面白くも無い古文書や史料を掲載していきます。

覚書

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※H28.2.8 追記

【概要】
鎌倉時代に宍戸氏が地頭請所としていたと推側される九条家領小鶴荘。

元は、多気義幹の失脚後、小田氏ないし宍戸氏に移管されたともいわれる。
鎌倉後期には、小鶴北荘・小鶴南荘に支配分割されたようで、
中央(京都)での資料では小鶴北荘との表記が用いられていた。

【推定範囲】
 北限:友部町市原
 東:茨城町飯沼
 西:愛宕山周辺
 南:石岡市東成井・山崎

【名称遺称地】   茨城町小鶴(こづる)
【荘園政所推定地】 茨城町奥谷(奥谷遺跡)

【宍戸荘の名称初見】
正和5年 鹿島郡安福寺鐘銘に「大工宍戸鳴井善性」(新編常陸)
⇒ 現在の石岡市東成井地区

宍戸荘の名称について
なお、茨城県内では「宍戸荘」と呼称されることが多いが、
とりわけ、荘園内で有力な存在として宍戸氏が、荘園内に本拠地を置き、
庶子を増やしていった事が呼称の裏付けとなったのであろうか。

「岩間町史」では、中央では「小鶴(北・南)荘」、地元常陸国では「宍戸荘」と呼ばれていたと推測するが、小鶴および「宍戸荘」の呼称の発祥について説明が不明確である。

また、宍戸の呼称も後年宍戸氏の在地化に伴い生まれたものであり、
宍戸氏の発祥とともに、未だ十分な解明はされていないのが現状。

おおざっぱであるが、涸沼川を境界として、小鶴北荘・小鶴南荘と区分できる。


鎌倉後期〜南北朝期、宍戸氏は4系統に分かれ、個々に中央・鎌倉府へ関わっていく。

小山義政の乱を発端とし、岩間町愛宕山での戦い前後を期に、
岩間系宍戸氏が力を失うに合わせて、小鶴南荘地域が鎌倉府により解体分配されていった。
山尾系宍戸氏が力をつけ本宗家化するが、
小鶴南荘地域の解体分配の結果が「常陸国冨有仁注文写」に見られる、各郷の支配領主層である。

山尾系宍戸氏から一木氏、真家氏など分立していく過程も上記の流れの一部である。

戦国末期、宍戸氏の当主を始め動向がそれまで以上に不鮮明になり、後世に書かれた系図類は
内容がいずれも混同していることから、
宍戸氏の本流が常に流動的で有ったことが予想される。

戦国末期〜出羽移封迄の間、宍戸 義利 ー 義長 と続くといわれるが、

宍戸 義利は佐竹氏側の宍戸氏一族として、佐竹氏配下として活動していた。
かわって、宍戸氏本宗家の宍戸 義綱は常陸江戸氏からの養子ともいわれ、佐竹氏と対立
また、その子、宍戸 義長は鹿島郡に逃亡後に、宍戸 義利の死後、その後継者として海老ケ島城に入るなど本宗家自体不明確である。 


以下、雑記メモ:


応永2(1395)年、小田・宍戸氏の一族として飯沼山城守(「米良文書」)。


常陸国冨有仁注文写

小鶴荘内各郷は,
岩間・阿子郷・竜崎弾正少弼,
住吉郷・・・・・・某左近大夫将監,
志多利柳郷・・里見四郎,
下土師郷・・筑波大夫法眼(玄朝)
小鶴郷・・・・竜崎右京亮,
山尾郷・・・・宍戸中務丞(朝里の曽孫持里)

がそれぞれ知行。
      ⇒ 一本村()
山尾郷  ⇒ 手越村
市原郷 ⇒ 
真子村(安居カ?)⇒








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