|
旧麻生町には、足利 持氏の乱(1439)で追われた関宿の城主下河辺義親が、
小高地頭を頼って当地に来て船子城を築いたという伝説が地元にあるという。
「享禄2年(1529年)8月、地頭下河辺治親他郷士・・・」とあるという。
(出典:行方市HP・井上神社の紹介)
最後の当主は、下河辺氏親(佐竹文書・2月日下河辺氏親書状)であり、下河辺義親の子であり、下河辺治親の弟といわれる。 氏親の「氏」は足利義氏などからの一字をもらっている可能性が考慮できる。 この下河辺氏は、「親」の字を通字としており、他の下河辺氏と一線を画している。
なお、行方下河辺氏の一族は、のちに麻生藩に郷士として仕えたとされる。
一部伝承では、佐竹氏に仕えたと言われるが、資料的には不確かである。
これらの情報から推測すると、15世紀中葉頃に、小高氏と麻生氏の領域の間に、
鎌倉府勢力下として下河辺氏が入植していたのではないかと推測する。
下河辺一族の岡部忠則の居館であったとの伝承があるとのこと。
船子城(行方市(旧麻生町)船子字要害)
船子城跡に所在する浅間神社に立つ解説版によると、
足利持氏の乱(1439)で追われた関宿城主下河辺義親が、
小高地頭を頼って当地に来て船子城を築いたという。
あくまで、伝承の域を脱しない地元伝承であるが、
幾つか推測が可能である。
行方城は、中城とも呼ばれ、平安時代末期ごろの行方氏居城と云われている。
その後、行方氏は小高氏、麻生氏、玉造氏、嶋崎氏のいわゆる行方四頭に分かれた。
行方氏惣領としての小高氏は小高城に移った。
15世紀後半〜16世紀前半ごろ、下河辺氏は近隣の船子城から中城に移し、2代のちの天正末期ごろ廃城となる。
古屋城(行方市行方字古屋)
曹源寺にある下河辺義親一族の供養塔と伝承がある宝篋印塔が残されている。
。
■関連情報 |
全体表示
[ リスト ]







