常陸国中世史備忘録(常陸大掾氏と常陸府中)

常陸大掾氏や常陸平氏を中心に取り上げています。文献屋なので論文を書く資料として、特に面白くも無い古文書や史料を掲載していきます。

常陸大掾氏累代

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馬場小次郎資幹は石川家幹の次子と言われる。(常陸大掾系図)


常陸平氏族では、吉田清幹ー盛幹石川家幹と続く、吉田郡における有力氏族:石川氏の一族であるが、「馬場氏」として分出した名字地など詳しい事は不明。

史料での初出は、吾妻鏡の建久元年(1190)源頼朝上京の際の隋兵として名前があがる。( 吾妻鏡:建久元年(1190)十一月大七日丁巳 )

俗に、常陸平氏本宗家・多気義幹の建久4年失脚の際、その伝来所領と常陸大掾職を受け継いだと言われたが、(吾妻鑑)

常陸大掾職に関しては、多気氏が代々所有する職ではなく、実際、多気義幹はその職には付いていないため、事実ではない。

また、所領についても、多気氏が関係していたと思われる、北条、北郡、小鶴荘などは、継承されてはいない。

後出史料によると、北条政子により常陸大掾職の代々の兼職が認められたとしている。

また、所領についても、馬場資幹が本来どこを本願地としたのか、そのような過程で、どの所領を獲得していったかは殆ど解明されていない。

所領について残存する史料から推測できるのは
1.陸奥国熊野神社との争論際、地頭資幹として登場。
2.馬場城(現水戸城)に住したといわれる。
3.南郡佐谷郷が資幹墓所であると子孫が書き残した。

よく見受けられる俗説の一つに、
『”馬場”は吉田神社の馬場』又は『吉田城の馬場』に由来する説があるが、
馬場資幹は吉田氏から派生した石川家幹の次子なので、
正しくはないだろう。


安貞五年(1227)十二月、資幹の子常陸大掾朝幹の書状では、大掾職を小田知重が競望していることを停止するよう依頼するとともに、佐谷郷が資幹墓所としていることから、
安貞五年(1227)十二月までには、馬場小次郎資幹は死去している事を示唆している。





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