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【まとめ】
■満幹ー慶松
永享元年、足利持氏により鎌倉・雪ノ下にて親子ともども殺害された。
これ以降、系図の記載と実際の継承の実際は異なってくる。
■憲国(佐竹氏より) → 戸村義倭
※佐竹義人三男、系図未掲載。
満幹殺害後、実家である関東管領・山内上杉氏および足利持氏の後ろ盾の元、
佐竹義人の三男が入嗣、憲国と称したといわれる。
鹿島神宮文書に平憲国発給文書が一点残されている。
大掾家家臣団の反発により、憲国は追い出され、実家である佐竹氏のもとに戻ったといわれるが、
早くとも、永享11年(1439年)・永享の乱で足利持氏が打たれた後の事であろう。
以後系図・伝承では、大掾氏家督の継承について詳細不明。
その多くが、頼幹または清幹に繋がることから、
ここでも、頼幹ー清幹と続くと仮定する。
■常陸大掾殿妙充ー子息
※系図上の該当者、不明。
本土寺過去帳に記載。
亨徳4(1455)年 8月15日、総州多胡・志摩両城にて討ち死。
■忠幹(高幹)ー(常幹)ー慶幹
永禄七年6月16日、佐竹 義昭が府中に入る。
永禄8年に佐竹義昭の弟佐竹乙義丸が府中に入る。
■昌幹(三郎) → 小野崎義昌
※系図未掲載。
佐竹乙義丸。
烟田旧記には「三郎殿」。
永禄8年11月3日、佐竹 義昭が府中で死去。
佐竹乙義丸が府中に入る。
烟田旧記には「貞国殿、三村より本意」とあり、貞国が府中へ戻るに当たり、
「三郎殿」は佐竹氏側に戻る。
のち、小野崎氏に入嗣し、小野崎義昌(義政)と称したとされる。
■貞国ー清幹
これまで市史や論文などで、貞国の仮名が三郎とされるものがあるが、
佐竹乙義丸の仮名が三郎であったことからの誤解であろう。
なお、貞国の弟と伝承される竹原四郎義国については、
これに伴った後世の命名なのか、史実なのかは判断しかねる。
永禄9年6月27日、上杉氏・佐竹氏の援助のもと、大田道正らによる片野城攻め。
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常陸大掾氏系図
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