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享徳4年2月筑波別当大夫潤朝軍忠状写(『諸家文書纂』所収)の記載内容と、
『永享記』結城合戦時の捕首分の比較
(附: 真家氏・小倉氏・須釜氏・小河氏)
筑波氏は常陸小田氏の一族として、筑波山知足院中禅寺別当職として紹介されることが多いが、その実態および支配体制はほとんど不明である。
また、別当職についても、慶長5年、徳川家康が大和長谷寺梅心院より入山した宥俊が筑波山知足院中禅寺別当職に補任されたことにより、中世期の支配体制は一掃されることになった。
それでも、古文書などに散見する筑波氏は、小田氏一族として、鎌倉府奉公衆としての活動が見出すことができる。
今回は、原本は残っていないが、江戸期の収集家が書き写した写本:
『諸家文書纂』所収 「享徳4年2月筑波別当大夫潤朝軍忠状写」を取り上げ、
「永享記」と比較して、結城合戦前夜の筑波氏の状況を考察してみた。
結城合戦前後の常陸国武士の活動の一片を示す資料として、市町村史によく取り上げられる資料である。
今回は、「筑波町史 資料集第八編」から抜粋にて取り上げた。
『諸家文書纂』所収 「享徳4年2月筑波別当大夫潤朝軍忠状写」 (抜粋)
筑波大夫潤朝謹申亡父玄朝幷親類等軍忠之事
<前略>
一、 同(嘉吉元年)二月十六日、小栗寄之時、筑波山衆徒中了達坊栄尊法師、真家民部少輔、小倉新兵衛其外数輩、与佐竹、宍戸勢同道仕、栄尊打死
<後略>
享徳四年二月 日 筑波別当大夫潤朝 謹上
進上 御奉行所
文書中に登場する、筑波氏および家人を一覧化したものが、以下の通り。
筑波別当大夫潤朝
兄千寿丸 →嘉吉元年四月十六日生捕
亡父玄朝 →嘉吉元年四月十六日打死
伯父美濃守定朝 →嘉吉元年四月十六日打死
同伊勢守持重 →嘉吉元年四月十六日打死 叔父熊野別当朝範 →嘉吉元年四月十六日生捕
同名彦八(郎)
玄朝家人
又四郎
小倉新兵衛
同四郎左衛門尉 →嘉吉三年三月二十一日打死
肥田太郎次郎 →永享十三年四月十八日死去
伊藤勘解由 →嘉吉元年四月十六日打死
了達坊栄尊法師 →嘉吉元年二月十六日打死
真家民部少輔
伊勢守持重家人
天野与四郎
惣領中務大輔
結城合戦の状況を物語った戦記物の中から、
『続群書類従』所収 「永享記」と比較すると、以下のようになるか。
一上野一揆分捕首。
筑波伊勢守首、高田越前守取之。 ← 筑波伊勢守持重
筑波法眼首、赤堀左馬助取之。 ← 筑波法眼玄朝
小河常陸介首、和田備前守取之。 ← 南郡小河郷 益戸常陸介篤政法師の子孫か?
筑波首、一宮駿河守取之。 ← 熊野別当朝範か?
一千秋民部少輔分捕。
結城被官須釜首、千秋民部少輔取之。 一中条判官分捕。
上曾三郎首、中条判官大夫取之。
一羽河越中守虜人数。
筑波法眼息(童体)千寿丸、羽河越中守取之。 ← 筑波千寿丸
一人々分捕。
筑波法眼弟子首、根岸弾正忠首、彼二、森刑部少輔取之。 ← 了達坊栄尊法師か? |
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