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アクセスログを見ると、”秋田藩士 片野氏”、”横手市 片野氏 子孫”などのキーワードで検索して当ページにたどり着く方がいる様子。これは、秋田に片野氏の子孫がいらっしゃるんだろうなと調べた時に疑問も思ったものです。 横手市HPの説明文には、横手市武家屋敷は上級藩士の屋敷だろうと説明したHPがある一方で、 戊辰戦争時に、内町などの武家屋敷は消失し、明治以降の建物だと説明するHPもあった。 本当はどうそうだろうか? 横手市史などで調べていないので、事実かどうかはさておき、私見を述べる。 ネットで案内HPや画像を見ると、 ・片野邸を見て、広くて立派だから上級武士のお屋敷とつづる紀行HPが多い。 ・羽黒町の住宅の中で、片野邸がひときわ大きい。 一方、 ・築地塀などの土台には排水管が設置されていたり、と近代に設備された様子もある。 ・上級武士のお屋敷は、むしろ隣町の内町との情報もある。 ・通常、石取り高にあわせて 羽黒町の片野家が秋田藩向帯刀組下に所属していたとすれば、 片野氏本家筋でもおよそ50石取りであって、しいて言えば中級武士とでもいおうか。 結論から言うと、 ・横手城城下の武家屋敷は、戊辰戦争で焼失している。現在の屋敷はそれ以降の時代のもの。
・横手城城下の武家屋敷は、内町に置かれた。
※雄物川を境に、横手城側を内町、内町各所に配下の藩士の屋敷を設けた。
平野部側を外町と位置づけ、町人を配した。
・戸村組下の給人の屋敷は、本町・裏町・新町・御免町・上根岸・下根岸・嶋崎の各町に所在。
※佐竹一門戸村氏(横手城代)配下の屋敷地。
※戸村氏の家格は引渡一番座。向氏より上位。
・向組下の給人の屋敷は、現在の羽黒町(羽黒・羽黒新町・羽黒御免町)に所在。
※出羽移封後、須田氏とともに横手城預かりだった向氏配下。
※向氏の家格は廻座。戸村氏より下位。
・羽黒町武家屋敷通り・・・・平成13年までの「街なみ環境整備事業」により
黒塀や植栽などのデザインを統一整備された。
羽黒町には向組配下の武士が配置。(出典:横手市HP)
・片野邸が大きくて立派なのは、羽後交通社長などを歴任した地元財界人・片野重脩が、明治以降、屋敷地を拡張・増築したと考えるのが妥当か。 と考えている。 つまり、現在の、羽黒町の武家屋敷と言われている建群は、戊辰戦争時に消失したのち、 再建および屋敷地の拡充・減少などもあったうえで、現在の姿になったと思われる。
「武鑑」とは、大名や旗本の氏名や家系等を一目でわかるように記した、江戸時代の紳士録。 「秋田武鑑」の著者・則道の肉筆をそのまま復元し、解説を付した、秋田藩重臣各家を調査研究する上で必見の書。 魂でもいいから、そばにいて ─3・11後の霊体験を聞く─ 奥野 修司 : 〝霊体験″としか、表現できないこうした〝不思議でかけがえのない体験″によって、絶望にまみれた人びとの心は救われたのだった――。 著者は3年半以上も、そのひとつひとつを丹念に何度も何度も聞き続け、検証し、選び出し、記録してきた。横手市武家屋敷にある片野家は、向帯刀組下に所属していたとすれば、 片野氏本家筋でも45石取りであり、中級武士とでもいおうか。 秋田伊達氏の祖:伊達(国分)盛重、須田氏3代、戸村氏8代が横手城代として続く。 旭川以東の武家屋敷地区を内町、 以西の町屋地区を外町と呼んでいた。 内町は原則的に支配別・家格別に屋敷割りをされた。中期以降の居住形態を見ると、 戸村組下の給人は本町・裏町・新町・御免町・上根岸・下根岸・嶋崎、 向組下の給人は羽黒・羽黒新町・羽黒御免町となっている。 また戸村支配の足軽は侍屋敷の北端に、向支配の足軽は侍屋敷の南端に屋敷割りされた。 外町は、城下町建設当時は大町と四日町を町人町として背後に寺町を配したと見られている。 両町は江戸時代以前から商人町・市場町として形成されていて、その後、順次拡張していったようだ。 寛文9年(1669)の横手絵図によると、川原町・四日町・二日町・五日町(鍛治町)・柳町・裏町(馬口労町)・御鷹匠町・五左衛門南足軽町の八町、総戸数363戸があった。 戊辰の役で、庄内・仙台連合軍の攻撃を受けた横手城は防戦も空しく炎上した。そして横手城下の内町は過半が焼失してしまった。 今、この武家屋敷の雰囲気は、上内町と羽黒町によく残っている。建物は殆ど明治以降の建物 |
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