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常陸国総社宮の存在意義の変遷(平安末〜明治後期)を整理した。
常陸国総社宮(総社神社)が所蔵する常陸総社文書(茨城県立指定文化財)の内容の大半が、
常陸国国府ならびに留守所などの発給文書であることから、
常陸国国衙の一機関として、成立し機能していたことを伺わせる。
常陸総社文書を始め、在庁官人でもあった税所氏の伝来文書:税所文書などの、
常陸国衙および留守所発給文書が比較的残存しており、ある程度の復元が可能である。
成立とその背景:
確かな年代は不明だが、
国司が赴任地に赴任した際に、国内の主要神社を赴任挨拶として巡拝することが定着したのが、
平安末期ごろと言われている。
その後、国司の遙任制の進展と巡拝儀礼の簡略化に伴い、
常陸国内に鎮座する神社の祭神を、一神社に合祀・勧請し、集約的な祭祀を行う役割を担う宮として、
国衙および留守所周辺に、成立したと予想される。
常陸国における巡拝の簡略化の過程:
初期:
常陸国に着任した国司が、鹿島神宮などを、海路・陸路を使い巡拝。
中期:
遥任国司化の進展
↓
巡拝:目代などの代理人による拝礼
遥拝:府中近郊での遥拝の儀礼化
国府浜での遥拝所が、プレ高浜神社として常設化
↓
巡拝:廃止ないし形式化
遥拝:留守所内部の儀式から、鹿島神宮中心の拝礼儀式化
国府浜遥拝所が、高浜神社として儀礼・機関に取り込まれる。
↓
最盛期:
府中内の神事・留守所での神事が、鹿島神宮を頂点とした神事儀礼化
府中社家衆・供分衆の成立
鹿島社家衆・供分衆の成立
留守所内または付近にて、青屋神事として儀礼化
終了期:
大掾氏・鹿島氏らの鹿島神事支持権力層の滅亡(天正18〜19年)
府中社家衆・供分衆の崩壊
鹿島社家衆・供分衆の解体
近代:
近代社格制度では始めは郷社に列したが、
1900年(明治33年)9月、県社に昇格した事を契機に、現在、「常陸国総社宮大祭」なる祭礼の成立とそれを支える、旧府中平村内の16町による年番制度が確立されることとなり、
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常陸国府中関連
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