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天正20年付けの清浄心院充て小野崎備前守通宗書状
高野山清浄心院文書に、天正20年付けの清浄心院宛て小野崎備前守通宗書状が残っている。
(総本山金剛峯寺編『高野山文書』所収)
『高野山文書』 全七巻 (総本山金剛峯寺編)
書状の包状には、「小野崎備前守 従常陸府中」と記されており、
これまでの研究とは異なり、
大掾氏滅亡した2年後、すでに佐竹氏支配による、府中城ない府中宿町の再建が進められていたのでは推測している。
『府中普請』と常陸府中城・
天正18年12月、大掾氏は佐竹氏により滅亡され、居城の常陸府中城は落城したとされる。
その後、通説では、佐竹氏一門である佐竹南義種が入り、常陸府中城近郊は佐竹氏南家領地とされた。
文禄年間と思われる、正月十六日付け松平上総守宛て佐竹義宣書状写(秋田藩家蔵文書・『茨城県史料中世編Ⅴ』所収)では、「府中普請」が指示されている。
府中宿町の再建
常陸府中城並びに府中宿町は、天正18年の常陸府中城攻めに伴い、府中宿町は破壊されたと予想でき、
常陸府中城再建に伴い、城下の府中宿町の再建も、
近世に伝わる伝承では、慶長2年に近世の常陸府中宿となる府中平村の町立てが行われたとされている。
➡ 平村の事
それでは、小野崎備前守通宗は何者で、佐竹氏においてどのような地位にいたものだったのか。
続きは 『佐竹北氏による常陸府中城在城の可能性(2)』にて。
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