|
小美玉市中台地区にある、永禄4年銘刻の栗原掃部衛門碑 (小美玉市指定文化財)については、
以前、栗原掃部衛門碑:永禄4年 (小美玉市中台地区・小美玉市指定文化財)にて紹介した。
文化財登録としては、「栗原掃部衛門碑」であるが、
その銘刻の内容から判断して「線刻阿弥陀三尊来迎碑」というべき内容であることを改めて紹介したい
線刻阿弥陀三尊来迎碑
周辺城館跡との位置関係
永禄4年銘刻の栗原掃部衛門碑(線刻阿弥陀三尊来迎碑)
線刻文の内容の検討
栗原掃部衛門の父母供養ではなく、
『現世安穏』・『後生善処』・『七世父母(つまり【先祖】)』のためと称し、
3つの願掛けし、
『法花(経)(大乗)妙典一千部供養』を行ったことが記されている。
阿弥陀三尊来迎図が線刻
栗原掃部衛門の逆修供養として入道名が『西阿弥陀仏』。
題目板碑とは違うので、あくまで阿弥陀信仰によるものか。
栗原掃部衛門について
地元の伝承では、中世府大掾氏の支城竹原四天王の一人といわれているが、
それを示す第一史料は確認されていない。
そもそも、『○○四天王』という呼称が、
江戸時代〜近世にかけて好んで用いられた呼称なので、
竹原四天王なる存在は確かめようがない。
現存する第一史料からは、
中世期の竹原に在住したであろう、武士ないし有力層として、
1. 栗原氏
2. 蔵本氏
3. 梶取氏
が確認できる。
当初の説地場所:通称掃部衛門山(1946年06月26日アメリカ軍撮影)
舌状台地の突端部に、建物が存在する箇所。
その周辺が、幕末〜明治初期までに廃寺となった松林山称明院長福寺跡のようだ。
つまり、墓地ないし寺院のあった箇所である。
栗原掃部衛門碑の移転については、
現地利用が以下のように変遷し、
竹原中学校地化
↓
美野里町農村センターとして用地拡充
↓
希望ヶ丘公園造成に伴う周辺整備
栗原掃部衛門碑の破壊につながったようだ。
現在の設置個所(20118年小美玉市中台)
|
石造物銘文
[ リスト ]








