|
福井市三宅町は、太田資武に宛がわれた所領との伝承がある場所。
福井市三宅町
画像右手のかんばんに注目。
「太田道灌と太田資正の墓」
と矢印が見える。
「なんで、ここで太田道灌が出てくるの?」との感想を持つ反面、
「ところで、太田資正って誰よ?」との言葉が続くようだ。
今回は、『郵便屋さんからの手紙』というブログサイトを運営されている管理人ほたるさんから、現地の様子の写真をお借りできたので、ご覧いただきたい。
太田道灌と太田資正 供養塔
この供養塔の存在は福井県でもあまり認知度が低いようで、ネットで調べても3人の方のブログでしか見当たらない。
越前福井藩の基礎を築いた結城秀康は、下総結城氏を継承したため、仕官した理由は違えど下総国および常陸国出身者の家臣が多かった。
太田資武について、結城秀康に使えるまでの半生はほぼ伝承や他の古文書からの推定によることが多いが、
次兄・梶原政景と同様に、結城秀康に臣従することになる理由があったことを推測させる。
梶原氏、太田氏とも幕末まで福井藩士として家名を保ったわけでもなく、福井の地に名を遺したわけでもないため、忘れ去られているのが実情だ。
今回は福井県に残る岩付太田氏(梶原政景系を含む)の軌跡を追った。
案内板がり、「太田道灌と太田資正の墓」と明記あるが、説明文にあるように供養のための塔と理解してよいだろう。
この案内板は、福井市内にある史跡・名跡や文化財の所在場所に、ある時期に集中的に設置された形式の案内板で、福井市の各所で散見する。
紅い矢印の下が、太田道灌と太田資正 それぞれの供養塔
破損した個所はあるが、ほぼ同型。向かって、
右が、太田道灌の供養塔。
左が。太田資正の供養塔。(道号:三楽斎)
ブログ『郵便屋さんからの手紙』によると、墓碑や花刺しなどは、近年子孫を名乗る方が整えたそうだ。
案内板に寛永年間の建立とあるのは、建立者である太田資武が寛永二十年(1643)に死去しているのでそれまでに建立されたとの推測だろう。
面白いことに、兄・梶原政景と違い、
太田資武の存命中に、父太田資政や実母の供養を
高野山清浄心院(結城家過去帳)に手配した形跡は無いのも、考察を加える一因ともなった。
太田道灌と太田資正 供養塔からの推定
宛行状は残存していないが、
「結城秀康給帳」(『福井市史』資料編4 近世二所収、1988、所蔵:松平文庫)および
「源忠直公御家中給帳」(所蔵:松平文庫)に
『太田安房守 3000石』とあり、この三宅町が知行地の中心であった可能性を感じた。
理由1: 初期の太田安房守家菩提寺・安穏寺跡
現在の三宅町墓地の成立や存在形態は不明であるが、
知行地に墓域を設定し先祖の供養塔を建立することは、供養を行う寺の存在を伺わせる。
『越前国遺蹟考』には、
太田氏菩提寺・安穏寺の開山・元翁がここで没した ともある。
理由2: 太田資武の最初の墓域の可能性
徳尾町の禅林寺に、太田資武の五輪塔があることは周知のとおりであるが、
父・太田資政の供養塔とともに家名を世に広めた祖先・太田道灌の供養塔を建立したのは、
越前福井の地に根を張り、岩付太田氏の家名を残すべく菩提寺・安穏寺を設けたからこそである。
福井市徳尾町の禅林寺との区別については別稿を用意している。
・2基の五輪塔解体工事の折、一基のみ骨壺に入れられていた点。
・2基の五輪塔がほぼ同型で、同時期に建立された可能性がある点。
・2基の五輪塔とも、太田安房守家系の法名が刻まれている事。
・梶原政景の養子・梶原源太の死去により、梶原氏の系統は絶えた点。
![]() |
岩付太田氏
[ リスト ]










