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竹原兵庫頭義国
官途: 兵庫頭
通称: 竹原四郎
伝承: 常陸国南郡竹原城主。大掾貞国の弟とも。
天正6年(1578年)、小川台合戦((下館市小川一帯))に、府中(大掾氏本家)、三村(?)とともに参戦。
(小川台状)
天正12年、沼尻合戦時、
府内2手200梃とともに
竹原2手70梃、として参戦。
文禄の役の際、竹原氏は佐竹氏に従い朝鮮出兵に参加。
当主が 戦地にて病死したため、
義宣より和田氏宛てに、竹原氏の所領没収と「老父」と「幼子」は水戸に移動させるよう指示された。(「秋田藩家蔵文書」) ここに現れる「老父」は竹原義国の可能性が考えられる。
<兄弟>
大掾貞国 府中城主
常春(法名) (伝承)三村城主
女(江戸通政室) 江戸重通母
女(佐竹義昭継室)
昌幹(養子) 佐竹義昭弟、小野崎三郎義昌
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2012年10月18日
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永禄6年(1563年 )2月、大掾貞国は、三村合戦にて小田政治に敗北したと云われる(常陸名家譜)
<常陸日月牌過去帳>
常州府中大掾殿立之
日牌 久昌院殿喜曳常慶大禅定門 霊位
天正五年丁丑十月二十五日 <兄弟>
兵庫頭 竹原四郎義国、竹原城主。
常春(法名) 七郎? 三村城主
江戸通政室 江戸重通母
女(佐竹義昭継室)
昌幹(養子) 佐竹義昭弟、小野崎三郎義昌 |
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常陸大掾慶幹
系図上では、常陸大掾常幹の子とされるが、大掾常幹の書状などが残存していないため、不明。
天文十五年(1546)、小高直幹の誘いにのった小田政治が大掾慶幹を攻撃してきたが、
慶幹は長者原において小田氏を撃退し、進んで小高城を奪取した、とされる。
これは、江戸期の編纂物や伝承による。
真壁文書によると、真壁久幹と大掾氏が上曽の地をめぐって競ったことが記されており、時期的に大掾慶幹の代と思われる。
一次史料として:
・楓軒文書纂所収市川文書(大掾慶幹書状)
がある。
死去年代:
江戸期の編纂物などには、天文年間に死去したとされているが、
六地蔵寺六角宝形経筒 銘文(茨城県指定文化財)の年紀:弘治2年の銘記から、弘治2年までの生存は確認できる。
最近の研究の方向として、
永禄年間に、佐竹義昭が大掾慶幹の娘を後妻に迎え、常陸府中に入城した経緯から、
慶幹は永禄年間に死去したとする向きもある。
<子息>:
貞国 常陸大掾氏当主
兵庫頭 竹原四郎義国、竹原城主。
常春(法名) 七郎? 三村城主。
江戸通政室 (江戸重通母)
女 (佐竹義昭継室)
昌幹(養子) 佐竹義昭弟、小野崎三郎義昌
■参考
⇒ 大掾慶幹
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