常陸国中世史備忘録(常陸大掾氏と常陸府中)

常陸大掾氏や常陸平氏を中心に取り上げています。文献屋なので論文を書く資料として、特に面白くも無い古文書や史料を掲載していきます。

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鹿嶋市史 地誌編

■鹿嶋市史「地誌編」刊行
 
 本書は、地名の由来、教育と文化、文化財と名所・史跡、民俗的行事など多方面にわたった調査研究により編集されています。郷土を知る文献としてご活用ください。
[価格]1冊3,000円(税込)
[販売場所]教育総務課、中央図書館、まちづくり市民センター、どきどきセンターなど
*各まちづくりセンターで閲覧可能
問:教育総務課

鹿島市ホームページ


行方鳥名木氏

手賀氏から分流した一流と思われる。
永仁5(1297)年の「ちゃうあ譲状」 

ちゃうあ(人名)から手賀郷鳥名木の地が次子のすけ八郎に譲渡せられたが、それを悔くい返かへしてその子とらなうらいに譲渡しなおす旨の内容が記載されている。

近世には麻生藩新庄氏に仕えて、その血脈を伝えている。


■参考情報

【覚書】行方手賀氏

行方手賀氏
本拠地:行方市(旧玉造町)手賀
城館跡:手賀城跡

手賀氏自身の古文書や家譜などは無く、周辺の国人領主らの動向や伝承から考慮して、行方四頭の一つ:玉造氏の領域に隣接することからも玉造氏から分立したと考えられている。

茨城県指定文化財:鳥名木家文書を伝承した鳥名木氏は、古文書の内容および手賀郷内の鳥名木村に分立した手貸氏の庶子家と考えられる。

天正19年2月の、いわゆる南方33館の仕置の際には、

天正十九年二月九日
於佐竹大田ニ生害ノ衆
 
鹿島殿父子、カミ、島崎殿父子、
玉造殿父子、中居殿、釜田殿父子、
アウガ殿、小高殿父子、手賀殿兄弟
武田殿、
 
以上十六人

傳燈山和光院過去帳に記されているように、手賀氏総領家の兄弟(手賀景幹兄弟とも)が殺され、国人としての手賀氏はここで歴史を閉じた。

だが、近世期になると、いくつかの手賀氏の動向が判明する。
一つは、佐竹氏の出羽国移封に従い秋田藩士なった手賀氏、
もう一つは、新たに行方郡麻生藩に入封した新庄氏に仕えた手賀氏、
の2流が確認できる。


秋田藩士 手賀氏一族の系図
手賀 某 (式部少輔)一 某 (駿河守)※☆―重時一時品一時政
※☆手賀 某(駿河守)が出羽国へ臣従
⇒ 秋田藩士手賀氏


行方地方に残留した手賀氏一族
「麻生町史」によると、天正19年2月の南方三十三館仕置きののち一族離散。
手賀 某が行方地方に帰参し、佐竹氏北家に仕えたらしい。

その後、手賀 某は病死するが、後継ぎの手賀駿河守(某)は佐竹氏北家に従って秋田移住した。

次子与一四郎が現地に残り、やがて麻生に立藩した新庄氏に仕えた。
これが、麻生藩郡奉行をになった手賀氏ということだ。


「麻生町史」と「秋田藩諸士系図」から作成

手賀 某 (式部少輔)一 某 (駿河守)―(出羽国・秋田藩士) ・・・・・
            一 与一四郎  ―(行方残留・麻生藩仕官) ・・・・・

なお、手賀 某 (式部少輔)と天正19年2月に佐竹氏に殺害された手賀景幹兄弟との関係は、いまのところ不明。


喜連川文書に残る、戦国末期の手賀氏

手賀刑部太輔       謹言
 同  民部太輔      謹言

と、手賀氏2名への書札礼が残されていることから察すると、
手賀刑部太輔、手賀民部太輔が、伝承で言われている手賀景幹兄弟を示す可能性がある。

推測だが、生き残った手賀 某 (式部少輔)は、総領家兄弟と同等の官途を持つ人物として手賀氏総領家に近い庶子とも考えられる。


 

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