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【加筆11/21/2017】
※近世地誌には「伊志良」との表記も混在するが、現地の岐阜県旧伊自良村(現・山県市)の表記に従った。
江戸時代、常陸国内で編纂された小田氏一族に関する系図類の中には、
「伊志良とは常陸国伊自良郡である云々」と書き記すものがあり、
当時書物を書き記すことができる知識層においても、
常陸国以外の小田氏一族について正しくは知らなかったようだ。
現在でも、伊志良/伊自良と聞いて岐阜の地名とわかる県民はほとんどいないだろう。
そのくらい、茨城県(旧常陸国)とは縁遠い地なのである。
伊自良氏は東国御家人八田知家の子有知が美濃国の伊自良荘(岐阜県旧伊自良村)を本領とした。
城跡は、山県市立伊自良中学校の裏にある、伊自良城跡と言われている。
館跡は未詳。
美濃伊自良城跡(岐阜県山県市大門)
承久の乱における戦功として、
八田知家の子有知が美濃国伊自良荘の地頭職に任ぜられ、下向した説が有力。
最近HPなどで八田知家から伊自良荘の地頭職を伝承されたとする記述も見掛けるが、
知家自身が地頭職を保有した伝承が皆無なので、知家からの伝承ではなく、
承久の乱での戦功による獲得と考えるのが妥当か。
建治元年(一二七五)の六条八幡宮造営注文 『田中穣氏旧蔵典籍古文書』(歴博所蔵)
「美濃国 伊志良左衛門跡」
越前国小山荘への進出
正安元年(1299年)十月に知綱の祖父知円は越前国小山荘木本郷内の宝慶寺の敷地を寄進している
(福井県史資7 寳慶寺文書一号)。 福井県大野市(旧越前国小山荘木本郷)の宝慶寺周辺
小山荘は嘉暦三年(一三二八)には藤原(伊自良)知綱が地頭で、この年以前に下地中分が行なわれた
(資2 一乗院文書二・七号)。
大野郡小山荘のうち、舌・黒谷・深江・木本・穴間(穴馬)・秋宇・東小山・東西縁は平安期の開発領主藤原成通の子孫が伝領し、鎌倉後期には興福寺浄名院が領家として知行していた。
これらの地について地頭伊自良氏と紛争がおこり、永仁五年(1297年)に「和与中分」がなされ、今後は「地頭・領家各別に所務を致す」こととなった
また先に挙げた大野郡小山荘の地頭伊自良氏の左衛門太郎知綱は、嘉暦三年(一三二八)に穴間上下・秋宇・佐々俣・木本郷を年貢銭九五貫文で請所としており(資2 京大 一乗院文書七号)、鎌倉末期まで健在であった。
さらに吉田郡志比荘地頭は道元を招請した波多野氏であったが、嘉暦元年に同荘地頭波多野出雲次郎左衛門尉通貞は、六波羅下知状に従って東寺に本家役呉綿一〇〇〇両を直納することになっており(せ函武九)、
鎌倉末期の嘉暦3年3月10日「小山庄内舌・黒谷〈在深江〉・新宮地・飯雨」の預所職は地頭伊自良知綱の代官信昭が保証人となって,5か年の間大輔房重英に預けられている(京大一乗院文書)
「太平記」に登場する伊自良氏
『新田義貞落越前府城事』 ・・・・ 伊自良次郎左衛門尉、是に与して三百余騎にて馳加る間、
上記の太平記内記述の伊自良氏について、
福井県側では、小山庄の伊自良氏と認識し、
岐阜県側では、伊自良荘の伊自良氏の行動と把握するなど、
共通の認識には至っていない様子。
越前での伊自良氏の動向:古文書より
・・・知円(入道名)ー○ー左衛門太郎知綱・・・
越前国小山荘の宝慶寺の伝承:
※ 伝承
有知ー知俊(知円)ー知成(真空)ー○ー○ー知冬(円聴)・・・ 清水寺再建の『勧進帳』(〜1484)『清水寺史第三巻史料』 (法蔵館、2000年) ● 20貫文 越前国 伊自郎次郎左衛門尉景国
越前伊自良氏館跡(福井市指定文化財)
旧美山町上味見(現・福井市)中手字「タテ」
※ 福井市伊自良館(伊自良温泉)の川向いが伊自良氏館跡で、旧美山町により発掘調査されたらしい。
WEBでみることができる伊志良氏に関する情報リンク:
大野市有形文化財:正安元年(1299)10月18日 知円沙弥寄進状
伊藤秀真氏学位請求論文の審査報告書 - 愛知学院大学
国土交通省 中部地方整備局 木曽川下流河川事務所
宝慶寺だよりより:宝慶寺だより71
山県市立伊自良北小学校のWEBサイトより:伊自良の成り立ち
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2017年11月19日
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