|
中台の一里塚
水戸街道中に設置された宿場について、江戸方面から順に、府中宿(現・石岡市中心部)の次が竹原宿(現・小美玉市竹原)、その次が片倉宿(現・小美玉市片倉)となっていたが、
元和年間ないし慶安年間に府中宿〜片倉宿の間のルートが変更され、現在の国道六号ルートのもとになったと言われている。
竹原宿を経由する以前は、中台地区(現・小美玉市中台)を経由していたとされ、
プレ水戸街道の名残が中台の一里塚である。
中台の一里塚(榎・江戸に向かって左側)に立つ文化財案内板 街道整備の発端
水戸街道の整備について、一次史料がある訳でなく、徳川家康が1601年(慶長6年)に東海道の整備の朱印状を発行したことから、慶長年間ごろに街道整備が始められたとするのが茨城県内の通説である。
だが、慶長年間初期は、佐竹氏など水戸街道沿線を掌握していた大名達らは街道整備に関する史料を残していない。
例えば、慶長7年(1602年)、佐竹義宣は7月27日付で秋田・仙北地方への転封を余儀なくされた。
前年の関ケ原の戦いでの不明瞭な立場に収次したことなどの理由とも言われているが、
常陸国中南部から陸奥國相馬領まで、自領および縁戚大名領としておりながら、街道整備に関する史料は見つかっていない。
また、土浦などの常陸国中南部そして下総国北部を領していた結城秀康は、『義演准后日記』慶長五年十一月九日条に「三河守家康息、是ハ越前拝領云々」とあり、父・徳川家康より越前への転赴を命ぜられている。
翌慶長六年七月二十八日北庄に入ったと伝えられている(「家譜」など)。
慶長7年(1602年)、徳川家康の五男松平(武田)信吉が水戸藩主となるが翌年死去。
慶長8年(1603年)、徳川家康の十男で当時2歳の長福丸(徳川頼宣)が水戸藩主となるが、
1609年(慶長14年)12月12日、頼将(頼宣)の駿河転封によって、徳川家康の十一男頼房が常陸水戸城25万石を領することで、水戸地方の地盤固めが始まったとみるべきで、
これを契機に、水戸〜江戸間の交通網整理の一端を広げたといえる。
万治2年(1659年)、江戸幕府が道中奉行を設置した時点で、五街道に付属していた脇街道(脇往還)の一つとして「水戸佐倉道」がその管理下に入った。それまでには、道中の整備は完成を見たと考えられよう。
中台の一里塚の現状(案内板の地図)
現在の中台集落を走る旧道の幅は4m程度だが、街道の左右に造成された塚の位置から想像するに、当初の街道幅は、後年の水戸街道と同等の規格を持っていたと推測できる。
街道ルートの付け替え以降、街道としての幅を必要としない事から、田畑や屋敷地に侵食されて現在の道路幅になったとも推測できようか。
街道ルートの整備と付け替え
水戸街道自体、鎌倉街道などの既存の旧道や往来の再利用というより、そもそも中世期に利用されていた街道自体が不明確であるのが実情だ。
中台の一里塚が残る中台集落は宿場の名残は無く、街道自体も幅が狭い。
江戸幕府による街道沿いの宿場制度や助郷制度の整備と並行し、悪路や迂回路を回避するために切通や新経路の設置などを経て、明治初年の陸前浜街道に至った。
付け替え理由
徳川家康が一番最初に街道整備を命じた東海道自体が、
1) 京都との迅速な連絡網の整備、とともに、
2) 大規模な軍隊の移動、迅速な軍事行動を可能とする、
3) 参勤交代など、大人数での移動を可能とする
街道幅・宿場施設・伝馬機能の充実であったことからも、明瞭である。
水戸に置かれた水戸藩との連絡網整備、そして陸奥国仙台へ続く脇街道の整備である。
中台宿から竹原宿への付け替え
片倉宿から中台宿へは谷津尾根沿いに移動できるが、
中台宿から府中宿へ至るには、複数の谷津を乗り越えていく、中世からの湾曲した経路だったようだ。
一般に街道の付け替えされたポイントは、竹原宿際の字「大曲」から府中宿へ南下させ、舌状台地が園部川で途切れる箇所に「竹原宿」として宿場町が設置された。
水戸街道は「竹原宿」内部を通過して、従来の街道に合流して府中宿へ至る。
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2018年04月23日
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]









