常陸国中世史備忘録(常陸大掾氏と常陸府中)

常陸大掾氏や常陸平氏を中心に取り上げています。文献屋なので論文を書く資料として、特に面白くも無い古文書や史料を掲載していきます。

石造物銘文

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伝鹿島清房五輪塔(常陸大宮市山方
旧山方町大字宿(現・常陸大宮市山方字宿)に所在する常安寺に置かれた大型の五輪塔。

佐竹氏の常陸国統一過程において、
当主佐竹義重の指示の下、常陸太田城下にて、招かれた鹿行地方の領主たちが一挙に殺害された。

その際、鹿島清秀父子は、常陸太田城から逃走後に山方城主山方能登守に捕らえられた、ないし
山方城主山方能登守に一時預けられたのちに、親子とも処刑されたとの通説が江戸時代より残っている。

館と宿の中世 : 常陸大宮の城跡とその周辺』記載の新説:
鹿島城主鹿島清秀は、鹿島郡領主となった東義久(山方城主)に一時預けられた後、
山方城下において殺害された。



イメージ 1


多くのHPなどでは、山方城跡に渡る嘆願橋のたもとに置かれていたものであり、
鹿島清房が山方城下の嘆願橋そばで処刑されたため、供養のため五輪塔を立てたと紹介している。
イメージ 3

嘆願橋(常陸大宮市山方)
イメージ 5

茨城県内の五輪塔の中で、移植の特徴を持つ五輪塔であり、
火輪の稜線が急であるという顕著な特徴を持つ。
県内では、同じ常安寺内の五輪塔群が同じ特徴を持つ。


当初の配置場所は、嘆願橋そばではなかった。
が、伝鹿島清房五輪塔の伝承の情報の元となった旧山方町の資料を見ると、
この五輪塔がおかれていたのは、嘆願橋そばではなく、
山方宿から嘆願橋へ下る五輪坂の傍らに建てられていたとのこと。
イメージ 4

大正11年(1922)に水郡線開通工事の影響で五輪塔が崩れるなどの影響があったため、
五輪坂を上った台地にある常安寺入口脇に移されたとのこと。
イメージ 6
水郡線と五輪坂(常陸大宮市山方)


現在も、常安寺入口脇に安置されているが、
旧安置場所は、後年県道29号バイパスが通過しているため、
五輪坂とともに環境が変わっているようだ。
イメージ 7
水郡線と五輪坂と嘆願橋(常陸大宮市山方)

嘆願橋の伝承と合一された誤情報がカット&ペーストされ、流布しているのが現状。


火輪の稜線が急であるという顕著な特徴

この大型の五輪塔のほかに、常安寺にある五輪塔群も同様の様式をもつ。

イメージ 2






山方城を築いたのは、上杉氏支族の美濃山方氏だとするのが一般的な通説だが、

当の岐阜県では、美濃山方氏ではなく美濃山県氏であること、
また、上杉氏支族でなく土岐源氏支族であることの矛盾はだれも言い出さないのは何故か?


また、佐竹氏は以下のやまがた氏は、山県氏と山方氏の二系統に分かれる。











安土桃山時代の六面地蔵石幢とのことだが、全体的に風化が進んでる。


イメージ 1



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1947年航空写真(アメリカ軍撮影)

緑の箇所が
粟田の石塔(かすみがうら市指定文化財)は、安土桃山時代の六面地蔵石幢

粟田の石塔がある墓地は、粟田集落に隣接し、(小字屋敷)
集落地と地続きの微高地である。

現在は廃寺となり墓地のみだが、石塔の所在により、中世にまで起源をさかのぼる寺院が存在したことがうかがえる。(小字「堂地」)

墓地から川流域に向かって、小字
「堂地」 → 「堂前」 → 「堀之内」
と続く。
赤枠線・・・小字堀之内




イメージ 2

水田地帯から一段高い地帯に、墓地が広がる。
二段高まった高みに、お堂がある。


イメージ 3

産総研レポートにあるように、筑波山系花崗岩であるが、
御堂の南面入り口に際していることから、気候の影響を直接受けたせいか。
御堂への階段の上り口の左側に位置するが、
にぎわがにも同様の部材が3点あることから、もともとは対だった可能性がある。


現在は、各家ごとに区分されているようだが、
中世末〜近世初期の五輪塔が4基あるほか、宝篋印塔の相輪部材など散見する。

墓地のある高地と道路を挟んでの対面の微高地


また、隣接地にある個人墓地には、2〜3基の五輪塔もあることから、
個人墓地と共同墓地との区分は近世以前からなされていたのだろう。






小美玉市中台地区にある、永禄4年銘刻の栗原掃部衛門碑 (小美玉市指定文化財)については、

文化財登録としては、「栗原掃部衛門碑」であるが、
その銘刻の内容から判断して「線刻阿弥陀三尊来迎碑」というべき内容であることを改めて紹介したい

線刻阿弥陀三尊来迎碑

周辺城館跡との位置関係


永禄4年銘刻の栗原掃部衛門碑(線刻阿弥陀三尊来迎碑)
イメージ 1



線刻文の内容の検討
栗原掃部衛門の父母供養ではなく、
『現世安穏』・『後生善処』・『七世父母(つまり【先祖】)』のためと称し、
3つの願掛けし、
『法花(経)(大乗)妙典一千部供養』を行ったことが記されている。

阿弥陀三尊来迎図が線刻
栗原掃部衛門の逆修供養として入道名が『西阿弥陀仏』。

題目板碑とは違うので、あくまで阿弥陀信仰によるものか。


栗原掃部衛門について
地元の伝承では、中世府大掾氏の支城竹原四天王の一人といわれているが、
それを示す第一史料は確認されていない。

そもそも、『○○四天王』という呼称が、
江戸時代〜近世にかけて好んで用いられた呼称なので、
竹原四天王なる存在は確かめようがない。

現存する第一史料からは、

中世期の竹原に在住したであろう、武士ないし有力層として、

1. 栗原氏
2. 蔵本氏
3. 梶取氏

が確認できる。


当初の説地場所:通称掃部衛門山(1946年06月26日アメリカ軍撮影)
イメージ 2
舌状台地の突端部に、建物が存在する箇所。
その周辺が、幕末〜明治初期までに廃寺となった松林山称明院長福寺跡のようだ。
つまり、墓地ないし寺院のあった箇所である。


栗原掃部衛門碑の移転については、

現地利用が以下のように変遷し、

     竹原中学校地化
        ↓
     美野里町農村センターとして用地拡充
        ↓
     希望ヶ丘公園造成に伴う周辺整備

栗原掃部衛門碑の破壊につながったようだ。


現在の設置個所(20118年小美玉市中台)
イメージ 3












所在:かすみがうら市高倉1387

かすみがうら市高倉の湯ヶ作山にあった阿弥陀院宝蔵寺の跡地にある。
付近には国分寺系瓦が採取されていることから、
奈良時代から平安時代に存在した山岳寺院:高倉廃寺跡があったといわれている。
かすみがうら市立博物館などによると、元享4年石造阿弥陀如来立像がある場所に阿弥陀院宝蔵寺があったとされ、その場所に近いところに、国分寺系瓦が散見されていたことからそこが古代寺院「高倉廃寺」跡と解釈されている。

現在、その場所は、ゴルフ場敷地として掘削・開発されている。



像高192.49センチ
台座19センチ

銘文:
背石「元享4年(1324)2月29日奉造立常陸国北郡高倉郷住僧隋智」


■関連文献
黒沢 彰哉 常陸の古代山岳寺院-高倉廃寺を中心にして-」(茨城県立歴史館報 19
・須田勉 「国分寺と山林寺院・村落寺院」(國士舘史學 第10号)






筑波大学人文地理学・地誌学研究会発行、地域調査報告 16に収録された論文:
茨城県八郷町真家地区における生活形態の変容」中に、八郷町真家地区(現:石岡市真家)内の石造物を調査した結果報告があり、その中に永禄年間に造立された板碑2件について記載が有りました。


そのうちの一つ、永禄3年造立の板碑には造立者として、

 真家因幡守
 同 木工尉
 同 新一

といった合計7名の記名があるとのこと。

早速、所用の帰り路に真家地区に立ち寄り、
報告書記載の地図を頼りに、所在箇所と思われる場所にはたどり着きましたが、
それらしい板碑ないし石造物は見当たらず。

付近で作業していた地元の方にお尋ねしましたが、
20年以上前の報告書作成時の頃と比べ、道路事情や生活環境の変化もあり、
石碑の存在の有無も、地元の方でも分からないようでした。

新出の文字資料発見か!と思いきや、ちょっと肩透かしの気分。残念。





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