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皆さんご存知の通り、Yahoo! ブログの閉鎖に伴い、
Yahoo! ブログ『常陸国中世史備忘録(常陸大掾氏と常陸府中)』の更新は今日9/1で最後になります。
2006年12月に、仕事の都合上解説して以来、紆余曲折ありましたが、
現在の形で更新できたのは、ひとえにブログを見てくださった方々のおかげです。
ありがとうございました。
今後については、ひとまず
今後も、格別のご高配を賜りますようお願い申し上げます。
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常陸大掾氏系図
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【6/29講演】「古代の仏像の不思議—環境への心性史の立場から—」
講演:三宅和朗氏(慶應義塾大学名誉教授)
於 成城大学民俗学研究所
古代や中世の史料には、仏像が血や涙、汗、乳を流したり、動いたり声を出したりしたというさまざまな不思議の記述があります。それらの記録を残した当時の人々の心性と、仏像を博物館などで鑑賞する現代のわれわれの感覚との間には、どのような認識の変化があったのでしょうか。仏像認識の歴史的変化をテーマにお話しいただきます。
演 題:「古代の仏像の不思議—環境への心性史の立場から—」
講演者:三宅和朗氏(慶應義塾大学名誉教授)
日 時:令和元年6月29日(土) 午後1:30 〜 3:00
会 場:成城大学3号館2階321教室 |
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武家屋敷 小野崎家(角館公民館・角館武道場)
角館武家屋敷の入口のあたり、駐車場スペース区画と隣接する。
角館武家屋敷の中で、小野崎氏の屋敷について、観光ガイドブックなどに記載なく、あまり情報もなかったので少し調べてみました。
実際、角館城代 佐竹北家の上級家臣として小野崎氏がいたのは明治中期まで。
小野崎氏が東京へ転出したのち、その広大な敷地は旧制秋田県立角館中学校に転用。
昭和24年航空写真
その後、新生秋田県立角館高等学校が引っ越す1970年代まで学校用地として利用されていたとのこと。
そのため、小野崎氏が使用していた家屋などは一切残っていないのが現状。
空き地には角館公民館や武道場などが建設され利用されたが、
それらの施設の老朽化に伴い、武家屋敷風の外見を取り入れた、角館公民館や角館武道場が建設されたとの事。
角館公民館は、県外に住む小野崎氏子孫の方が所蔵していた屋敷間取り図をもとに、平成12年にその一部を復元建築している。
また、角館武道場についても、外見は日本建築様式を取り入れ武家屋敷街に沿う外見となっている。
なお、秋田県立角館高等学校旧敷地の西半分は、角館町 平福記念美術館となっている。
(美術館前庭の太い樹木は小野崎家屋敷由来との事)
旧秋田県立角館高等学校グランドは、現在武家屋敷入口駐車場として活用されている。
この地も、元来は武家屋敷跡地だったのだろうか。
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医師・医学史家である深瀬泰旦 氏の論文『史料との出合い - 歩兵屯所医師取締手塚良仙とその一族 - 』 (所収:日本医史学雑誌第36巻第4号 平成2年10月)に詳しい。
手塚治虫家の略系図
手塚良意 - 娘
|| - - - 光照(二代目良仙) - 良仙光亨(良庵・三代目) - 手塚太郎 - 粲 - 手塚治虫
冨田与八郎四男 | (1826〜1877)
(初代・手塚良仙)|
| - 女子 - 手塚良運(府中藩侍医)(?〜1873)
||
- 手塚良元(府中藩侍医)
手塚良運は、廃藩置県で小石川から石岡市鹿の子に新設された常陸府中藩武家屋敷に移住。
そのご、1873年に45歳死去。
手塚氏の血縁が清涼寺の僧になった縁で同寺に埋葬されたと推測されている。
手塚良仙光亨(良庵・三代目) と手塚良斎の関係
インタネット上の一部ブログで、手塚良庵(三代目良仙光亨)と手塚良斎が同一人物である旨の記述を見かけるが、まったくの事実誤認である。
手塚良庵と手塚良斎は異なる人物で、義兄弟の間柄である。
深獺泰旦 『歩兵屯所医師取締手塚良斎政富』(所収:日本医史学雑誌第31巻第4号 昭和60年10月)
江戸から来て居る手塚と云う書生があって、この男は或る徳川家の藩医の子であるから、親の拝領した葵の紋付を着て、頭は塾中流行の半髪で太刀作の刀を挟してると云う風だから、如何にも見栄があって立派な男であるが、如何も身持ちが善くない。 |













