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現地は見ていないが、 googlemapでは常陸鶴田城跡(鶴田館跡)の破壊が進んでいることが見て取れる。
常陸鶴田城跡(2017年破壊状況) 蛍光黄色で示した箇所が、破壊された土塁 ? 本編ブログはこちら |
常陸大掾氏系図
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常陸小田氏一族の系譜に伊志良氏が書き記されている。 現在の岐阜県山県市(旧美濃国伊自良荘)と福井県大野市(旧越前国小山荘木本郷)の宝慶寺周辺に、伊自良氏の活動の一端を垣間見ることができる。 福井県大野市(旧越前国小山荘木本郷)の宝慶寺周辺江戸時代の常陸国(現在の茨城県)にて、当時の有識者により編纂された小田氏一族に関する系図類の中には、 「伊志良とは常陸国伊自良郡のこと」とか「常陸国上曽周辺の旧称である」 云々と書き記す系譜類が存在する。 つまり、江戸時代の常陸国(現在の茨城県)内の人にとって、その程度の知識しかなかったし、伝承もなかったほど、遠い過去のことだったということか。 ? 本編ブロクはこちら |
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『新編常陸国誌』に、
≪
中世大掾氏石川ノ一族、此処に住シテ、石崎とナル。
其同族菖蒲井、中山、方波見三氏も亦此の地二出タリト云ウ
≫
常陸大掾系図では、三代目にあたる朝幹の兄弟として、
横倉次郎
菖蒲井三郎
中山四郎
とのみ記載がある。
常陸大掾氏庶子:中山氏・方波見氏の推定本願地
黄緑色線------字中山
水色線------字片喰
![]() なお、小字および現地情報は「茨城町史 地誌編」(平成 5 年 3 月、茨城町史編さん委員会)に依った。
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【まとめ】
■満幹ー慶松
永享元年、足利持氏により鎌倉・雪ノ下にて親子ともども殺害された。
これ以降、系図の記載と実際の継承の実際は異なってくる。
■憲国(佐竹氏より) → 戸村義倭
※佐竹義人三男、系図未掲載。
満幹殺害後、実家である関東管領・山内上杉氏および足利持氏の後ろ盾の元、
佐竹義人の三男が入嗣、憲国と称したといわれる。
鹿島神宮文書に平憲国発給文書が一点残されている。
大掾家家臣団の反発により、憲国は追い出され、実家である佐竹氏のもとに戻ったといわれるが、
早くとも、永享11年(1439年)・永享の乱で足利持氏が打たれた後の事であろう。
以後系図・伝承では、大掾氏家督の継承について詳細不明。
その多くが、頼幹または清幹に繋がることから、
ここでも、頼幹ー清幹と続くと仮定する。
■常陸大掾殿妙充ー子息
※系図上の該当者、不明。
本土寺過去帳に記載。
亨徳4(1455)年 8月15日、総州多胡・志摩両城にて討ち死。
■忠幹(高幹)ー(常幹)ー慶幹
永禄七年6月16日、佐竹 義昭が府中に入る。
永禄8年に佐竹義昭の弟佐竹乙義丸が府中に入る。
■昌幹(三郎) → 小野崎義昌
※系図未掲載。
佐竹乙義丸。
烟田旧記には「三郎殿」。
永禄8年11月3日、佐竹 義昭が府中で死去。
佐竹乙義丸が府中に入る。
烟田旧記には「貞国殿、三村より本意」とあり、貞国が府中へ戻るに当たり、
「三郎殿」は佐竹氏側に戻る。
のち、小野崎氏に入嗣し、小野崎義昌(義政)と称したとされる。
■貞国ー清幹
これまで市史や論文などで、貞国の仮名が三郎とされるものがあるが、
佐竹乙義丸の仮名が三郎であったことからの誤解であろう。
なお、貞国の弟と伝承される竹原四郎義国については、
これに伴った後世の命名なのか、史実なのかは判断しかねる。
永禄9年6月27日、上杉氏・佐竹氏の援助のもと、大田道正らによる片野城攻め。
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