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嘉元三年潤十二月十二日 関東裁許状(朽木文書)
『佐々木出羽入道々頼後家尼心妙(今者死去)子息五郎左衛門尉義綱代良心与甲斐六郎為行代清幹相論
陸奥国一迫板崎郷与苅敷郷堺、(後略) 』 然則、於悪所者、為板崎郷内、義行之知行不可有相違、
嘉元三年潤十二月十二日 陸奥国一迫板崎郷 (宮城県栗原市志波姫花崎西・志波姫花崎東・志波姫沼崎周辺カ)
陸奥国一迫苅敷郷 (宮城県栗原市志波姫刈敷周辺カ)
陸奥国一迫板崎郷与苅敷郷
暦応二年五月日付 板崎為重軍忠状 (朽木文書)
『(前略)、一迫太掌一族相共、為大手合戦致忠節処、(後略) 』
年未詳二月十三日付 僧日道書状(大石寺文書)
『(前略)、仰御使交名事、・・(中略)・・、一迫ニハ、大掌甲斐守、大掌周防九郎左衛門為広、・・(中略)・・、この人々そよく候べく候、(後略) 』
文和三年十二月二十日付 斯波家兼預状(東京大学所蔵白川文書)
『陸奥国宮城郡内南目村 大掾沢田平次跡 事、所預置也、 』
文和三年四月二十七日付 奥州管領府奉行人奉書(留守家文書)
東福地刑部左衛門尉殿
文和三年四月二十七日付 奥州管領府奉行人奉書(留守家文書)
大掾下総守殿
延文元年十月二十二日付 斯波直持施行状(留守家文書)
大掾下総守殿
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陸奥大掾氏(仮)関連
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飯高左衛門次郎胤員与那須肥前次郎左衛門尉資長
相論陸奥国八幡庄内萩園、蒲生両郷境事、 右、対決之處、両方申言葉枝葉雖多、所詮、萩薗者、 本主景衡貞永元年譲渡右衛門大夫長経、長経又寛元二年譲与胤員之處、 不知其堺之間、被差下御使、任景衡譲状、被可糾明之由、胤員依令申、 被差遣山内中務三郎経通、高泉太郎信幹之處、如経通等取進進士次郎重宗、 文応元年六月二日起請文者、雖載子細、彼重宗者、依所従相論、 為資長敵人之間、不足証人、此外無指証不及沙汰、次打越事、資長雖申子細、 胤員本自不差申際目之間、不及付打越者、依鎌倉殿仰、下知如件、 文永九年四月五日 相 模 守 平 朝臣(花押:北条時宗) 左京権大夫 平 朝臣(花押:北条政村) ここで、鎌倉幕府御使として山内氏と高泉氏の両名が派遣されている。
『桃生・山内氏と板碑』
八幡庄(仙台市・多賀城市)の境相論に実検使
高清水(栗原郡)に居城した
栗原市高清水地区(地図上部赤枠)と
大崎市古川宮沢(地図下部赤枠)との位置関係
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文和3年(1354年)8月29日付 国分淡路守宛て奥州管領府奉行人連書奉書(白川文書) 陸奥国宮城郡南目村の「大掾沢田平次跡」を、国分淡路守および高部屋氏が両使として、石川兼光の代官に渡すよう命じた遵行状において、
1. 「大掾沢田平次」なる人物が「陸奥国宮城郡南目村」を所領としていた事。
2. 「大掾沢田平次跡」との表記から、奥州探題の支配下においては
文和3年段階、「南目村」の所領は「大掾沢田平次」から取り上げられていた。
3. しかし、「大掾沢田平次」を「陸奥国宮城郡南目村」を実行支配したままであった。
ことがくみ取ることができる。
宮城郡南目村跡・南目館跡(宮城県仙台市宮城野区南目館付近)
宮城郡南目村の範囲は把握できなかったため、村内にあった南目館跡(宮城県仙台市宮城野区南目館付近)の場所が上の地図である。宮城郡南目村のおおよその場所は把握可能。
現在、陸上自衛隊仙台駐屯地が大半を占めるため、旧来の姿はとどめてはいないだろう。
大崎市古川沢田ー仙台市宮城野区南目館、間の距離
「大掾沢田平次」なる人物を
「平資幹の系統」かつ「大崎市古川沢田」を苗字地とした、陸奥大掾氏の一族と仮定した場合、
「大崎市古川沢田」(苗字地)と「仙台市宮城野区南目館」(所領)がこのように離れている事がわかる。
「大掾沢田」氏の所領の一部だったのかは不明である。
沢田館跡(遍照院・大崎市古川沢田)2018
「大掾沢田平次」なる人物を
「古川宮崎周辺の平氏一族」かつ「平資幹の系統」と仮定するならば、
「大崎市古川沢田」を苗字地とした可能性も高い。 大崎市古川沢田には「沢田館跡」があるが、「大掾沢田平次」との関連は不明。
南北朝期に奥州探題の主導権争いで畠山氏と吉良氏対立した際、畠山氏が在城したとの話である。
「大手」「搦」などの小字に対して、「古舘前」などより古い小字が「残ると判断したため、掲載した。
大崎市古川宮沢・古川小林・古川沢田の位置関係2018
・大崎市古川宮沢(宮沢城跡、掛仏)
・大崎市古川小野羽黒(板碑)
・大崎市古川小林(吾妻鑑)
・大崎市古川沢田(大掾沢田平次跡)
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福現寺阿弥陀種子石塔婆(弘安三年):
旧在・大崎市古川小野羽黒(堂)
所在地:栗原市福現寺境内
陸奥大掾氏の残滓:栗原市福現寺・阿弥陀種子石塔婆( 弘安三年)
「右奉為、先孝幽霊、成仏得道」、
「弘安三秊、歳次庚辰、季春(三月)上旬」、
「平行幹、敬白」、
弘安三秊(1280)
石塔婆は、元々は大崎市古川小野 羽黒にあったものを江戸時代前期に移動したものだそうで、
その経緯は、石塔婆の裏面に記録されているとのこと。(2018/1/28現在情報未確認) ここでも、常陸平氏の特徴である通字『幹』を名乗った人物がいたことが確認できる。
福現寺阿弥陀種子石塔婆(弘安三年):旧在・大崎市古川小野羽黒(堂)
福現寺阿弥陀種子石塔婆(弘安三年)が旧在していたのが、大崎市古川小野羽黒(堂)。 その地名からは、熊野信仰系の寺社ないし修験者の存在をうかがわせる。
何故遠く離れた栗原市福現寺にまで運ばれたのか、理由も確認したい。
そして、以下の地図の通り、
大崎市古川小野羽黒(堂)地区は、平資幹および常陸平氏の伝承・傍証の点在する、
大崎市古川宮沢・古川小林・古川沢田の各地区にも近在し、
現地の地頭職を獲得した平資幹以降、何らかの形で平資幹の系統が現地に残存した可能性を伺わせる。
大崎市古川小野羽黒・古川宮沢・古川小林・古川沢田との位置関係
・大崎市古川宮沢(宮沢城跡、掛仏)
・大崎市古川小野羽黒(板碑)
・大崎市古川小林(吾妻鑑)
・大崎市古川沢田(大掾沢田平次跡) ![]() ![]() |
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陸奥大掾氏の残滓:
名称: 宮沢城跡
所在地: 大崎市古川宮沢字舘ノ内
室町時代、大崎氏の支城として史料に登場し、
1590年、葛西・大崎一揆の際には、大崎氏の旧臣:岩崎讃岐義久が宮沢城に籠り、伊達氏に反抗した事が有名のようだ。
江戸時代は、仙台藩二十一要害の一つ:宮沢要害として、有力家臣らが割り当てられ、領地を管理していた。
地元の伝承では、藤原秀郷による築城伝承のほかに、地頭平資幹の居城伝承が残る。
陸奥国宮沢城跡(大崎市古川宮沢字舘ノ内)
葛西・大崎一揆での破却、近世城下町としての整備により、
中世期の宮沢城の姿は不明瞭であるようだ。
宮沢城跡と平資幹ないし陸奥大掾氏との関係は確固とした史料がある訳では無いが、
傍証として:
1. 宮沢城跡の、平資幹による在城伝承
2. 宮沢要害城主長沼氏が鹿島神社に奉納した、
銅造十一面観音像懸仏(宮城県指定有形文化財)の『平盛幹』銘
3. 宮沢城跡城下の熊野神社が、吾妻鑑に記される、『地頭平資幹』と争った『新熊野神社』である可能性。
4. 大字「宮沢」の隣接地・大字「沢田」は『大掾沢田平次』の名字地の可能性。
以下は、平資幹ないし陸奥大掾氏に関係すると思われる傍証および史料の点在地図である。
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