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その旧玉里村には「滝平」という名字の方々がいる。
特に有名なのが、切り絵・版画作家の故滝平二郎氏だろう。
江戸期の地誌に、同地区の滝平氏由来が記載されている。
滝平の「たき」、多気氏を、「たいら」は平氏の平を示すという。
そう、江戸期の滝平氏を名乗る方々は多気氏の子孫との伝承をもっていたようだ。
もちろん、これだけでは根拠として心もとない話かもしれない。
■「土佐塚」
さて、小美玉市玉里地区には、「土佐塚」とよばれる塚がある。
「玉里村史」で見る限りでは、「土佐塚」と彫られた石碑の写真が掲載されている。
「土佐塚」の由来は、芹沢土佐守がそこに住んでいた事に由来するとのこと。
芹沢氏は、常陸平氏本宗家・多気義幹の子孫を称していた。
ここで、先程の二つの話は交差する。
■芹沢氏と滝平氏
芹沢氏は旧玉里村よりさらに西方の荒原郷(現:行方市芹沢)に、
芹沢良忠の時代に入植したといわれているが、
はたして、芹沢氏と滝平氏との関係はどのようなものなのか。
現時点では、なんお明確な根拠となる史料は無いので、推測にすぎない話なのだが、
色々と考察すると楽しい。
これも郷土に残る、大切な伝承・伝説。
いつか事実が明らかになればと思う。
滝平さん、芹沢さん
ご存知でしたらぜひお教え下さい。
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覚書
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「明光院記」抜粋 (『牛久市史料 中世II 古記録編』収録)
永禄七甲子正月廿二日陣寄,廿九日落城,十一月五日中辰日佐竹ヨリ打入,
十二月カケトラヨリ正月廿九日落城,癸西日也,
永禄八乙酉十二月十三日夜,土浦ヨリ打入,小田へ,
永禄九丙■二月十六日小田開城,カゲトラヨリ御意ヲモツテ,
永禄十二乙巳十一月廿三日,小田落城ナリ,東方テ卦合候之上,
永禄十三庚午二月十二日,信田殿ショウガイ,
元亀元庚午十一月拾日,豊田開城スルナリ,
天正三乙亥六月十七日,エノモトヤカタウチシニ,開城廿二日,
天正五丁五六月ヨリ飯沼天神宮新地取ナリ,
天正大成■七月廿五日乙亥日,木田里落城,九月ハキヤクス,
天正七己卯,上菅間見地ナリ,正月十八日見初ル,八月百姓ツクナリ,見
地片岡紀伊守所行ナリ,○同年七月廿四日ヨリ北条嶽山再興,○同七月廿
二日下妻館夜燈生,戌時也, 天正八度辰二月廿四日,谷田辺落城,甲午日ナリ,○同当十二月十七日開
也,天満宮,甲午日也, 天正十壬午六月小山殿死,乙亥十一日小山開ク,
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同じ呼び方でも、漢字が異なる名字の方がいる。
●「信太」さんと「信田」さん
例えば、”しだ”さん。常陸国信太郡の庄司の系統と言われる、信太氏が有名。
現在の美浦村信太にその名が残る。
中世期、”信太”氏として文書などの記録に残っているのは有名だが、
茨城県南部には”信田”さんが少数ながらいらっしゃる。
なお、”信太”さんは茨城県内にはさほど多くない。秋田県在住の”信太”さんも多くないようだ。
●「松延」さんと「松信」さん
”まつのぶ”さんとお呼びする名字は、「松延」さんだったり、「松信」さんだったり。
中世期、常陸国宍倉を拠点とした松延氏は、現在のかすみがうら市下志筑字松延が本名地かと思われるが、
同じ地域に「松延」さんも分布している。
●このような場合、両者は一族なのか、それとも他人なのか。
同族かもしれないし、赤の他人かもしれない。
各家に伝わる伝承なども考慮したいが、これといった決定的証拠が無い限り、決定打は無いように思う。
こんな話も聞いたことがある。
その方の家の伝承では、戦国末期、戦いに敗れた御先祖様が隠れるために、本来の名字の漢字を替えて使用するようになった、という。当人曰く、真偽のほどは不明とのこと。
正直、中世〜江戸期を通じて、名字の表記について、ひらがなだったり、当て字だったり、当人や当家が書き残した資料ですら、表記が一定していない。
名字というものが一般的に使用する必要が生じた明治以降、名字(および名前)の表記の固定化が始まったともいえる。要は戸籍と言うやつだ。
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上杉家文書に残された、小田氏の勢力範囲を示す史料として、
良く取り上げれる史料である。
①土浦、菅谷摂津守(政貞)
②木田余、信 太 伊 勢(守)
③戸崎、菅谷次郎左衛門
④宍倉 、菅谷右馬允
⑤⑥谷田部 同東輪寺、岡見弾正 (治資 )
⑦牛 久 、岡見山城(守)
⑧豊 田、左衛門尉(治親)
⑨土岐、大 膳太輔 (治英) 上杉氏方からみた、永禄6年時点での小田氏に味方していた領主勢、と理解したい。
①〜④について、小田氏勢力下として良く語られている。
⑥は、伝承では木原城城主と言われる近藤氏であろうか。
②木田余、信 太 伊 勢(守)
③戸崎、菅谷次郎左衛門
④宍倉 、菅谷右馬允
⑤⑥谷田部 同東輪寺、岡見弾正 (治資 ) 近藤治部
⑦牛 久 、岡見山城(守)
⑧豊 田、左衛門尉(治親)
⑨土岐、大 膳太輔 (治英)
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二印 関東衆幕紋書付
常陸之国
宍戸中務太輔 すハま
彼家中友部大和守 きつこう之内ニまつかわひし 小田中務少輔 すわま 筑波太夫 おなしく 柿岡刑部太輔 同 岡見山城守 同 信太兵部太輔 きつこう之内ノ根菊 同掃部助 おなしもん 田土部紀四郎 同 福田左京亮 同 菅谷左衛門尉 きつこう之内之きちかう 同次良右衛門尉 同 平塚刑部太輔 ひたりともえ 屋代彦四郎 丸之内の上文字 真壁安芸守 ハりひし 彼家中白井修理亮 ハりひし 坂本信濃守 ともへ二かしら 高久将監 一文字ニいしたたミ 多賀谷修理亮 一文字ニうり之文 彼家中勝徳寺 左ともえ三かしら 行田宮内少輔 はしり竜 水谷弥十郎 ともへに二引ひきりやう 一目で気づく点として、同族間の幕紋は同じだった傾向がある。
友部氏は宍戸氏家中とあるが、友部氏系図では小田氏支族となっている。
どちらが正しいのかは不明。
なお、秋田藩士古尾谷氏は自称小田氏族とし、すわま紋を使用した。
「屋代彦四郎」は信濃村上氏と同じ「丸之内の上文字」。
ということは、信太荘に入植した屋代氏といえるだろう。
同じ信太荘契約中である土岐原氏や大越氏は呼応しなかったということなのか。
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