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茨城大学教授・高橋修氏の論稿「常陸平氏再考」について
初出:
再録: 高橋氏は、論稿の中で常陸平氏の土着化・婚姻を介した既存の地場領主との融合に成功し、地域勢力としての武士として分立し得たことを解説した。
常陸平氏とは、平将門の乱平定で力を得た平貞盛の常陸国内権力を継承した弟・惟盛の系統が、平安末期頃常陸国内に分立し、各支族が戦国末期まで存立していた氏族である。
現存する常陸平氏の支族のうち、烟田氏の古文書および石川氏系馬場氏族山本氏の系譜から婚姻を介しての所領継承事例を明らかにし、常陸国内の各郡および各郷ごとに分立しえた過程を論じた。
いずれも、村単位ないし在家単位での相続過程について説得力のある史料を用いており、相続過程が理解しやすい素材を用いたと言える。
一方で、吉田郡の名を掲げた吉田清幹や真壁郡を相続した真壁直幹など郡の名称を氏姓に掲げた者たちについては、上記の説明だけでは不十分と言える。
郡・荘園名を仮した常陸平氏諸家
常陸平氏宗家:多気重幹の子の吉田清幹から、吉田郡・鹿島郡・行方郡へ分出。
同じく、重幹の子の重家からは小栗氏(小栗御厨)、石毛氏(豊田郡)を分出。
多気義幹の兄弟として、東条氏(東条荘)、真壁氏(真壁郡)、下妻氏(下妻荘)など郡。荘園単位での分立が見れる。
これが、上記で述べた、既存の権力者との婚姻の成果なのか、それとも、郡・荘園での権限を所持したからこその結果として、常陸平氏諸家が分立しえたのかは、さらなる検証が必要だろう。
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覚書
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常磐大学名誉教授の糸賀茂男氏(日本中世史)の業績は、常磐大学での教育および研究成果、そして、各市町村における市町村史編纂、などすでに語られている通りである。
茨城県域の中世史研究において、小田氏、宍戸氏、大掾氏の中世領主の存在は歴史好きや郷土史家の心を掴み、各氏が本拠地を置いた各市町村では、各氏の存在がほぼ無批判に近い形で受け入れられている。
八田知家の孫から称した”小田氏”の小田はどこなのか?
宍戸家政が称した【宍戸氏】の宍戸はどこなのか?
小田氏族である『高野氏』の高野はどこなのか?
馬場小次郎資幹の『馬場』はどこなのか?
糸賀氏は、吾妻鑑などに記された記事や伝来の古文書を考察し、
小田氏・宍戸氏・馬場氏に関する、不明な初期活動状況や名字地などについて、
茨城県域外に、その地を求めた。
小田氏の本拠地として入植したのは、常陸国三村郷ではなく、小田郷は存在していなかった。
現在の茨城県内の八田ないし小田の地名が付く箇所には、小田氏在住伝承が伴う。
宍戸氏の本拠地は、常陸国小鶴荘山尾郷である。
高野氏の本拠地と言われている常陸国田中荘高野は、同族の田中氏支配下である。
六波羅探題奉行人として臣従した高野氏が、一郷単位の所領で存立シエルわけもない。
馬場小次郎資幹は、吉田氏から分立した石川氏の次男。『馬場』という苗字地も不明。
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関東地方で「成田」といえば、成田山新勝寺を思い出す人が多いだろう。
中世の常陸国行方郡には、「成田大道」という名称の街道が存在した。
常陸国成田荘とは
「成田大道」の通じる先には、常陸国行方郡にあった荘園「成田荘」があった。
名称の遺称地として、行方市成田として大字を残す。
正中2年3月の最勝光院寺領年貢進済注進状に「常陸国成田荘」と見えるのが所見。
正中3年3月19日に後醍醐天皇が東寺に最勝光院領を寄進するが、これを最後に古文書からは検出されないため、南北朝期には東寺の支配が喪失したものと思われる
常陸国成田荘の比定
「新編常陸国誌」には、
「今行方郡野友・串引・半原・高田ノ諸村,皆成田郷ト称ス,古ノ成田庄タルコト知ルベシ……成田・小貫・次木・穴瀬・金上・帆津倉等ハ武田郷ト称ス,然レドモ地勢ニヨレバコレ皆成田庄ノ内ト見ユ」
とあり、それらを現在の地名に比定した:
江戸時代の村名 現在の大字
行方郡成田村 ➡ 行方市大字成田
行方郡小貫村 ➡ 行方市大字小貫
行方郡次木村 ➡ 行方市大字次木
行方郡両宿村 ➡ 行方市大字両宿
行方郡内宿村 ➡ 行方市大字内宿
行方郡長野江村 ➡ 行方市大字長野江
行方郡穴瀬・金上・帆津倉 ➡ 行方市大字三和 行方郡高田村 ➡ 鉾田市大字高田
行方郡串挽村 ➡ 鉾田市大字串挽
行方郡野友村 ➡ 鉾田市大字野友
行方郡半原村 ➡ 鉾田市大字半原
行方郡借宿村 ➡ 鉾田市大字借宿
行方郡青柳村 ➡ 鉾田市大字青柳 烟田文書の中の「成田大道」
「成田大道」に関する記述は、これら文書に限られる。
烟田文書 建武3年(1336年)6月20日付け信崇譲状写:
烟田文書 延元元年(1337年)6月20日付け沙弥信崇譲状:
「一、常陸国行方郡小幡郷大和田村
限東高岡郷堺
限南大河
限西自薄町、堤橋本、北江成田大道江直仁切付
限北武井郷堺
一、同郡小幡村
限東舟子郷堺
限南入海
限西井上郷境
限北下大道 」
行方郡小幡郷(現・行方市小幡)内の大和田村の西限沿いに、成田大道が通過していた事が分かる。
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Googleストリートビューで、破壊前の常陸鶴田城跡(鶴田館跡)の北面土塁を確認してみた。
なお、北面土塁に沿って走る道路は、2010年代に新設された、茨城空港方面へのアクセス道路である。
常陸鶴田館跡北東角
(北東角ストリートビュー
- 2012年11月)
常陸鶴田館跡北東角
(北東角2ストリートビュー
- 2012年11月)
北面土塁と東面土塁が見て取れる。
常陸鶴田館跡北部土塁:この辺が車両通行用に完全破壊された。
(北部土塁残ストリートビュー
- 2012年11月)
常陸鶴田館跡北西角
(北西角ストリートビュー
- 2012年11月)
写真奥、鉄塔フェンス際が、
鶴田城跡の北西角にあたる。
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常陸鶴田館跡の破壊、2017年進行中。
名称: 常陸鶴田城跡(鶴田館跡)
所在地:茨城県小美玉市鶴田字要害900-1外
現地は見ていないが、
googlemapでは常陸鶴田城跡(鶴田館跡)の破壊が進んでいることが見て取れる。
常陸鶴田城跡(2017年破壊状況)
蛍光黄色で示した箇所が、破壊された土塁
常陸鶴田城跡
(2017年破壊状況)
拡大図
蛍光黄色で示した箇所が、
破壊された土塁
常陸鶴田城跡(2010年代)
国道6号線から茨城空港方面へのアクセス道路の新設で、形状を変えた。
常陸鶴田城跡(1975年航空写真)
常陸鶴田城跡の全容が
把握できる。
常陸鶴田城跡(明治迅速図)
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