|
一時期、南郡総地頭職を与えられた下河辺政義の系統は、常陸国府中を取り囲むように南郡各郷に分立し、
常陸国南郡小河郷にも、下河辺系益戸氏の一族が入部していった。が、戦国末期の古文書などには、益戸氏(小河氏)に代わり、園部氏が小河要害(園部城)の主となり、小河郷を中心に小領主化していたことがうかがわれる。
ここでは、古文書などの一次史料、および「永享記」などの信頼性の高い二次史料に表れる、
益戸氏、(小河氏)、園部氏へ至る変遷を時系列に並べてみる。
史料に見る常陸国南郡小河郷益戸氏(小河氏)から園部氏までの変遷
文保三年 (一三一九) 『小河・庵沢郷地頭 益戸七郎左衛門尉義広』 (常陸国総社宮文書)
建武三年(一三三六) 『益戸常陸介』は茂木知貞の『合懸之仁』 (茂木知貞軍忠状)
建武4年(一三三七) 『益戸常陸介広政』らも北朝方として防戦に参加 (野本鶴寿丸軍忠状)
永和三年(一三七六) 『益戸常陸入道行政号本主』 (関東管領上杉憲春奉書)
永和三年(一三七六) 『常陸国南郡内小河常陸前司(益戸行政)跡事』 (室町幕府管領斯波義将書状)
永徳二年(一三八二) 『常陸国南郡小河郷内益戸常陸介篤政法師法名観政、跡事』 (関東公方足利氏満寄進状)
永徳三年(一三八三) 『益戸常陸介跡』所領争いで、『益戸常陸三郎』が上裁に背いて下国
↑
|
この間、小河氏(益戸氏) から、,園部氏へと領主層の移動があった。理由は不明。
|
↓
文亀2年(1502) 『薗部右京亮藤原時定』ほか 扁額三十六歌仙絵裏書(常陸国總社宮所蔵)
■関連情報
建武三年(一三三六) 益戸弥四郎行政・同四郎兵衛尉秀名は
『新田義貞与同の仁」として日向国児湯郡新納院政所城を攻撃 |
覚書
[ リスト | 詳細 ]
|
『安得虎子六』に所収されている、以下の武田氏所蔵文書:
1号. 年未詳卯月廿七日付け 山田宮内太夫宛て足利義氏書状写
2号. 年未詳二月六日付け 山田右近将監宛て大掾清幹官途状写
について、「茨城県立歴史館史料叢書20 安得虎子−古文書・古記録編−」でやっと確認できました。
謄写本では見つけられなかったのは、実力不足です。悔しい限り。
さて、本題。
『安得虎子六』の謄写本で確認していないので、写しの花押は確認していない。
とりあえず、正文として考えておく。
1. 文書の内容
1号: 古河公方足利義氏から、山田氏からの年頭贈答に対する返礼
2号: 江戸氏との戦いに対する、大掾清幹からの官途状
2. 2号文書は、第一次府中合戦(天正14年)ないし行方高岡遠征(天正15年)のころか。
1号文書の官途については、すでに判明している通り。
3. 文書所有者が、行方郡在住の武田氏であるという点をどのように評価すべきか。
2号文書を見る限りでは、大掾氏と反目しているわけではない。
![]() ![]() |
|
常陸宍戸氏および一族に関するコンテンツへのリンクをまとめました。
なお、ここでは安芸宍戸氏については、研究対象外のため記述はない。
宍戸元家は常陸宍戸氏から養子との伝承があるが、
現在の研究では、家督継承へ正当化のための理由づけだろうとの理解が主流である。
常陸宍戸一族:
山尾系宍戸氏:
岩間系宍戸氏:
宍戸真家氏:
宍戸一木氏:
宍戸友部氏:
宍戸荘内の宍戸氏系城館跡:
|
|
下河辺政義が南郡総地頭職になったと吾妻鑑には記載あるが、
その実態は不明であり、実際の知行状況から推測すると、短期間であったといわれている。
常陸国府中域を取り囲む南郡諸地域には、益戸氏庶子が分出している。
一方で、田木谷郷では、鎌倉中期〜後期の婚姻を通じて野本氏や大胡氏の所領が存在した。
常陸益戸氏(下河辺政義系)
武州野本氏(下河辺政義系)
幸島下河辺氏(下河辺行平系)
行方下河辺氏
その他の下河辺氏
秋田藩士になった子孫たち
![]() ![]() |
|
茨城町の中心を東西に流れる涸沼川流域には、
茨城県内ではあまり見かけることの少ない神社が所在している。
神社名 読み 所在地
斎神社 いつきじんじゃ 東茨城郡茨城町南川又497番地
吉備津神社 きびつじんじゃ 東茨城郡茨城町南栗崎723番地 諏訪神社 すわじんじゃ 東茨城郡茨城町小鶴1860番地
石船神社 いしぶねじんじゃ 東茨城郡茨城町下雨谷370番地
石船神社 いしぶねじんじゃ 東茨城郡茨城町生井沢156番地 熱田神社 あつたじんじゃ 東茨城郡茨城町駒渡477番地
海士部神社 あまべじんじゃ 東茨城郡茨城町海老沢1262番地
なお、小字および現地情報は「茨城町史 地誌編」(平成 5 年 3 月、茨城町史編さん委員会)に依った。
![]() ![]() |





















