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頭白上人伝承 と 飴買い幽霊民話 との違いとして、 一般に幽霊は飴を子供に与えたが、 頭白上人伝承では、団子になっている。 民話伝承にあるように、頭白上人伝承においても、話の内容にいくつかのバリエーションが存在する。 基本的なストーリは 1. 妊娠中に死去した母親から生まれる。 2. 幽霊から団子を与えられ、生き延びた。すでに白髪。 3.寺に入り、高僧になった。 民話伝承は、既に江戸時代前期には語られており、つくば市大穂地区の千光寺縁起に、 「頭白上人伝承」が別にあるとの記載がある。 下って、江戸後期の安政期には写本などで伝承がひろまったようだ。 「「石崎山大五輪并頭白上人之因録」」と 明治になり、「郷土研究」にて発表され、柳田国男などに取り上げらた。 この時取り上げられた内容では。 A.両親は下野国出身 B.出奔した父親を追って、母が鹿島へ向かう C.その途中、筑波山神社を参拝したのち、殺害者により母が小高で殺される。 1. 妊娠中に死去した母親から生まれる。 2. 幽霊から団子を与えられ、生き延びた。すでに白髪。 3.寺に入り、高僧になった。 D. 父親と殺害者が出会い、寺に入ることで罪を償う。 E. 高僧は頭白上人義宣と名乗った。 とのストーリーで掲載された。 |
覚書
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茨城県の飴買い幽霊民話と頭白上人伝承
旧千代田町(現かすみがら市)・旧新治村(現土浦市)・旧筑波町(現つくば市)の地名が関係して語られる。 内容に、既にいくつかのバリエーションが存在し、設定や内容が詳細なものもあるが。 共通する特徴として、 1。妊娠中の母の死後、生まれた 2。誕生時点で、すでに頭の髪が白い、などの特徴を有する。 3.寺に引き取られ、のちに高僧となった。 などの点があげられる。 このような、飴買い幽霊伝承と高僧伝承はセットで語られることが、全国各地で伝わっている。 この点を研究された方がいるので、ぜひご参照いただきたい。 ひょうご歴史ステーション「ひょうご伝説紀行」(兵庫県立歴史博物館)
高僧と幽霊 その中で、
『この伝説は、全国各地の曹洞宗系の寺院でも布教のために語られていたことが指摘されていて、 類話は全国的に存在する。その広がりが宗教と密接に結びついていたことがわかりやすい事例として、この伝説は興味深い。』 と解説されている。 必ずしも、この指摘がすべての伝承に当てはまるかは不明であるが、とても参考になる指摘である。 頭白上人五輪塔のある旧新治村小高地区石崎山の東側の山々には、 平安期より存在が確認されている真言宗東城寺や、日枝神社・真言宗清滝寺が存在し、 ある意味では宗教的な地域であった可能性もあろう。 群馬・千葉・栃木そして茨城にまたがる、頭白上人の痕跡 ---------------------------------------------------------------------------------------- 浄土宗 大厳 1791年〜1856年(寛政3年〜安政3年) 仏教学者、字は僧具(そうぐ)、名は硯州(けんしゅう) 益田市高津町、当時の庄屋宮内恒助氏の二男として生まれ、益田市高津町教西寺第10世住職 学信 1722−1789 江戸時代中期の僧。享保(きょうほう)7年生まれ。伊予(いよ)(愛媛県)円浄寺の真誉について出家し,江戸の浄土宗増上寺でまなぶ。のち京都長時院の信培に師事。 【飴女房】(210円)を製造販売している山根屋 日蓮宗 日審 堺市櫛屋町東にある櫛笥寺 「京名物幽霊子育飴」「みなとや幽霊子育飴本舗 京都生。江村久茂の子。字は文嘉、号は霊鷲院。8才で恵光寺日玄に師事し、のち松崎・六条両檀林及び下総飯高檀林に学ぶ。若狭長源寺十三世・六条檀林本圀寺化主・京都立本寺二十世を歴任。 時宗 国阿 - [1314〜1405]室町前期の僧。時宗(じしゅう)国阿派の祖。播磨(はりま)の人。出家して随心、のち真空と称し、託阿(たくあ)に師事して名を国阿と改めた。諸国を遊行(ゆぎょう)し、京都双林寺・霊山寺を再興。 ---------------------------------------------------------------------------------------- |
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観光名所としても人気の、角館・武家屋敷。
そのいくつかの家系をたどると、
江戸時代になってから士官した、他国出身者
青柳 某 (和泉)*― 某 (藤右衛門)※ ―正幸―正道☆―正次
*伝 テ葦名盛重二養ハルル時屈従ス ト云
※慶長七年天英公羽州遷封 ノ時盛重二従テ常州 ヨリ来(子孫世々仙北郡角館ニ住ス
☆葦名氏断絶 ノ後、命 シテ北義隣部下 トス
〔住所 :角館〕 岩橋家 ・・芦名氏系 〔橘姓〕 岩橋 常資*― 常元―常正※―常員☆
*世 々芦名氏二仕フ
※羽州仙北郡角館二来
☆芦名氏断絶 ノ後、北義隣部下 トス 松本家 今宮家組下 小田野家 今宮氏配下→北氏配下
〔源〕 小田野 某 (備 前守)― 廣家※☆―家利一家政
※慶長七年天英公羽州遷封 ノ時流離、後年秋田二来ル
☆仙乏郡角館二住セシム
小田野又八郎源正純先祖分流
小田野直武は、裏町に住む本家の人。
〔住所 :角館〕 小野崎家・・・北氏重臣
小野崎 某 (備 前)*― 憲通※一通重―道正ー通好一通微―通弘一通賢
*命 シテ北義斯臣 トス、是 ヨリ子孫北氏臣 トナル
※慶長七年北義廉二従テ常州 ヨリ来ル
〔仕官先 :北家臣〕 河原田家 ・・芦名氏系 〔藤原姓結城氏族〕
〔源〕 西宮 藤光―藤種※☆―藤忠一治右衛門政藤(以下、略)
※天英公羽州遷封 ノ時常州 ヨリ来
☆子孫世々仙北郡角館二住ス
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アクセスログを見ると、”秋田藩士 片野氏”、”横手市 片野氏 子孫”などのキーワードで検索して当ページにたどり着く方がいる様子。これは、秋田に片野氏の子孫がいらっしゃるんだろうなと調べた時に疑問も思ったものです。 横手市HPの説明文には、横手市武家屋敷は上級藩士の屋敷だろうと説明したHPがある一方で、 戊辰戦争時に、内町などの武家屋敷は消失し、明治以降の建物だと説明するHPもあった。 本当はどうそうだろうか? 横手市史などで調べていないので、事実かどうかはさておき、私見を述べる。 ネットで案内HPや画像を見ると、 ・片野邸を見て、広くて立派だから上級武士のお屋敷とつづる紀行HPが多い。 ・羽黒町の住宅の中で、片野邸がひときわ大きい。 一方、 ・築地塀などの土台には排水管が設置されていたり、と近代に設備された様子もある。 ・上級武士のお屋敷は、むしろ隣町の内町との情報もある。 ・通常、石取り高にあわせて 羽黒町の片野家が秋田藩向帯刀組下に所属していたとすれば、 片野氏本家筋でもおよそ50石取りであって、しいて言えば中級武士とでもいおうか。 結論から言うと、 ・横手城城下の武家屋敷は、戊辰戦争で焼失している。現在の屋敷はそれ以降の時代のもの。
・横手城城下の武家屋敷は、内町に置かれた。
※雄物川を境に、横手城側を内町、内町各所に配下の藩士の屋敷を設けた。
平野部側を外町と位置づけ、町人を配した。
・戸村組下の給人の屋敷は、本町・裏町・新町・御免町・上根岸・下根岸・嶋崎の各町に所在。
※佐竹一門戸村氏(横手城代)配下の屋敷地。
※戸村氏の家格は引渡一番座。向氏より上位。
・向組下の給人の屋敷は、現在の羽黒町(羽黒・羽黒新町・羽黒御免町)に所在。
※出羽移封後、須田氏とともに横手城預かりだった向氏配下。
※向氏の家格は廻座。戸村氏より下位。
・羽黒町武家屋敷通り・・・・平成13年までの「街なみ環境整備事業」により
黒塀や植栽などのデザインを統一整備された。
羽黒町には向組配下の武士が配置。(出典:横手市HP)
・片野邸が大きくて立派なのは、羽後交通社長などを歴任した地元財界人・片野重脩が、明治以降、屋敷地を拡張・増築したと考えるのが妥当か。 と考えている。 つまり、現在の、羽黒町の武家屋敷と言われている建群は、戊辰戦争時に消失したのち、 再建および屋敷地の拡充・減少などもあったうえで、現在の姿になったと思われる。
「武鑑」とは、大名や旗本の氏名や家系等を一目でわかるように記した、江戸時代の紳士録。 「秋田武鑑」の著者・則道の肉筆をそのまま復元し、解説を付した、秋田藩重臣各家を調査研究する上で必見の書。 魂でもいいから、そばにいて ─3・11後の霊体験を聞く─ 奥野 修司 : 〝霊体験″としか、表現できないこうした〝不思議でかけがえのない体験″によって、絶望にまみれた人びとの心は救われたのだった――。 著者は3年半以上も、そのひとつひとつを丹念に何度も何度も聞き続け、検証し、選び出し、記録してきた。横手市武家屋敷にある片野家は、向帯刀組下に所属していたとすれば、 片野氏本家筋でも45石取りであり、中級武士とでもいおうか。 秋田伊達氏の祖:伊達(国分)盛重、須田氏3代、戸村氏8代が横手城代として続く。 旭川以東の武家屋敷地区を内町、 以西の町屋地区を外町と呼んでいた。 内町は原則的に支配別・家格別に屋敷割りをされた。中期以降の居住形態を見ると、 戸村組下の給人は本町・裏町・新町・御免町・上根岸・下根岸・嶋崎、 向組下の給人は羽黒・羽黒新町・羽黒御免町となっている。 また戸村支配の足軽は侍屋敷の北端に、向支配の足軽は侍屋敷の南端に屋敷割りされた。 外町は、城下町建設当時は大町と四日町を町人町として背後に寺町を配したと見られている。 両町は江戸時代以前から商人町・市場町として形成されていて、その後、順次拡張していったようだ。 寛文9年(1669)の横手絵図によると、川原町・四日町・二日町・五日町(鍛治町)・柳町・裏町(馬口労町)・御鷹匠町・五左衛門南足軽町の八町、総戸数363戸があった。 戊辰の役で、庄内・仙台連合軍の攻撃を受けた横手城は防戦も空しく炎上した。そして横手城下の内町は過半が焼失してしまった。 今、この武家屋敷の雰囲気は、上内町と羽黒町によく残っている。建物は殆ど明治以降の建物 |














