|
常陸石岡城(外城)跡の外延部をかすめて工事が進めれている。
田島遺跡(南光院地区・南光院下地区):茨城県教育財団文化財調査報告より: 1区が南光院下地区、2区が南光院地区、となる。 江戸期にはすでに廃寺となった南光院跡といわれる地区であり、 2区では、大型の堀が発見された。 黄色線・・・・・・常陸石岡城跡(外城)
水色帯・黄色帯・・・堀の推定ライン 1975年代の外城地区
|
常陸国府中関連
[ リスト | 詳細 ]
|
1590(天正18)年7月19日付で、
縦33・6センチ、横46・5センチ。
折紙。
![]() |
|
A288.2-1516 藤原姓小野氏分流之次第
宝永 5.閏 正 .7/小 野崎平蔵
〜親通一通曇―成通―義昌―弥 市―宣政―隆通―處通―平 蔵
2 小野崎 某 (備 前)*― 憲通※一通重―道正ー通好一通微―通弘一通賢
*命 シテ北義斯臣トス、是 ヨリ子孫北氏臣 トナル
※慶長七年北義廉二従テ常州 ヨリ来ル 〔仕官先 :北家臣〕
![]() |
|
常陸府中城跡(中央部その1)
近年、団塊世代の引退と景気後退に伴う工場移転・家屋の建て替えなどにより、
家屋や敷地・田畑の様相が予想よりも変化している。
堀跡であった田畑は気が付けば宅地造成が進み、容易に立ちいることができなくなった。
土地利用の痕跡を残す起伏は、建て替えにより平坦地になってしまった。
従来の府中城に関する考察も、石岡市史の完成により一定の成果を得たが、
その後研究の進展のないまま20年経過した。
ここで、現状の地形と過去の航空写真を利用し、中世期の府中城域を考察したい。
図1:国土地理院 航空写真(1961年撮影)
古代以降、常陸国の中心地として開発が進んでいた地域であり、
天正18年の常陸府中城の落城、そして、慶長7年の佐竹氏治政下での府中町立て、
江戸期を通じて取り高5000石の類を見ない町であったことから、
すでに石岡市市街地は府中城総構えの痕跡を失いつつある。
3D
|
|
一通 大枝三分二地頭代左衛門三郎請文
一通 小河・与澤両郷地頭益戸七郎左衛門尉■■
一通 竹原郷地頭弥七請文(藤原重政)
一通 川俣郷地頭次郎太郎請文(藤原家貞)
一通 上曽郷地頭上曽三郎請文
一通 佐都社地頭備中守請文
一通 ■■郷地頭孫四郎請文
一通 野寺郷一分地頭次郎三郎請文
一通 小幡四郎左衛門尉請文
一通 弓削・田木谷両郷地頭益戸四郎左衛門尉■■
一通 野寺郷一分地頭益戸四郎兵衛門尉■■(益戸忠行)
一通 志築郷・大枝郷地頭益戸和泉前守■■(益戸行助)
一通 筑波社三村郷地頭小田常陸前司■■(小田貞宗)
一通 玉余郷地頭常陸大掾請文
一通 大橋郷給主税所左衛門入道請文
一通 吉田社臼根三郎入道請文
一通 小幡・菅間両郷地頭藤原氏請文(藤原氏女)
一通 小井戸郷地頭等請文連署
一通 大橋郷地頭等請文連署
以上十九通
右目六如件
文保三年■月廿日
(1319)
|









