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中世期の常陸府中南限として、
市川(かすみがうら市市川)・別所(石岡市別所)
を推測した。
根拠として、
1) 市川地区は、従来常陸国府の市場領域があったと推測されており、
江戸初期に、府中より市川村として分村した。
2) 市川地区の西隣に位置する、別所地区は、府中とは恋瀬川を挟んだ対岸にありながら、
現在まで石岡市域に残存した。
3) 別所地区は洪瀬川を挟んで府中城の対岸に位置し、市川地区同様に何らかの都市機能又港的機能を担ったいたことも予想している。
4) 府中城と別所地区の間を流れる恋瀬川の流域は、昭和40年代までは府中側に大きく彎曲していた。
別所および志筑地区(下志筑)は、舌状台地から低地が湿地帯側に広がりを見せていることから、
早くから耕作地および船舶での往来を容易だったと推測する。
5) 市川・別所両地区に接する、志筑地区には益戸氏が。
また野寺地区には、野寺孫三郎なる土豪がいたといわれていれている。
ことから、市川・別所両地区を府中の南限と推測する。
つづく。。。。。
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常陸国府中関連
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中世の常陸府中について、よく取り上げ荒れるのは江戸時代の地元編纂書に含まれる
「平村之事」の記事であろう。
では、物理的に地理上の条件のもとで、中世期の常陸府中の領域を補足できないか、
というのが当ページの目的である。
大まかに推測すると、東西南北は以下の通り。
推定地域 推測理由
北限: 石岡市行里川地区 北部を流れる園部川を北限と推測
南限: かすみがうら市市川 江戸初期に府中より分村。
石岡市別所
東限: 石岡市小川道 「平村之事」より。
西限: 石岡市村上 or 村上千軒の伝承、近世以前の竜神山信仰を推測させる地名
石岡市鹿の子 照光寺屋敷跡を根拠
石岡市中心市街地を中心とした、いわゆる石岡台地を中心に展開したと考える。
次回、各領域境について考えていきたい。
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常陸国府中、現在の茨城県石岡市は、中世は常陸大掾氏の本拠地として栄えた事は周知されているが、
その実情については、常陸大掾氏の滅亡とそれに伴う町場への戦災の影響により、
1) 中世の史料、および 2) 江戸時代以降の記録、 などに頼るのが実情である。
市村高夫氏が「常陸国内では、佐竹氏のいる常陸大田、多賀谷氏のいる下妻につぐ規模の大きさ」と評した。
一方で、常陸大掾氏の勢力と比較すると、身の丈に合わない規模であるとも評した。
特に、永禄〜天正年間の常陸大掾氏の動向を伺うと、常陸国内の他氏に押されて、佐竹氏の「洞」の一員と判断される程度が現状であろうか。
常陸大掾氏または室町期の常陸国府中に関する一次史料は、
茨城県史をはじめとした各市町村による史誌編纂により、有る程度紹介されたとみてよく、
これ以上の新出の一次史料による新事実解明は難しいだろう。
というわけで、
一次史料を中心として、地誌的情報や二次史料・三次史料の活用の他、
地理的情報を加味して、推敲していきたいと考えている。
つづく。。。。
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「平村之事」
今の町立は故の城中也。慶長二年に町に成る。 江戸中期から明治初期まで、常陸国府中平村で記された地誌類には、
戦国末期の常陸府中を中心とした町場形成について、上記のように記している。
また、上記の内容が流布していたため、「府中雑記」など近世地誌類にはほぼ同文のまま記載されている。
◆参考文献:
・石岡市史 下巻(通史編) 石岡市
・石岡の地誌 石岡市教育委員会
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