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常陸大掾詮国
常陸大掾高幹(道名:浄永)の子と伝わる。
また、常陸府中城を築城し、常陸石岡城から本拠地を移したとも伝えられている。
浄永より、新大掾殿宛ての書状があることから、高幹が入道した際に、大掾職を譲ったと考えられる。
永壽丸(大掾満幹)が元服前に死去していることから、嫡男は永壽丸(大掾満幹)と思われる。 |
常陸大掾氏累代
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常陸平氏族では、吉田清幹ー盛幹ー石川家幹と続く、吉田郡における有力氏族:石川氏の一族であるが、「馬場氏」として分出した名字地など詳しい事は不明。
俗に、常陸平氏本宗家・多気義幹の建久4年失脚の際、その伝来所領と常陸大掾職を受け継いだと言われたが、(吾妻鑑)
常陸大掾職に関しては、多気氏が代々所有する職ではなく、実際、多気義幹はその職には付いていないため、事実ではない。
また、所領についても、多気氏が関係していたと思われる、北条、北郡、小鶴荘などは、継承されてはいない。
後出史料によると、北条政子により常陸大掾職の代々の兼職が認められたとしている。
また、所領についても、馬場資幹が本来どこを本願地としたのか、そのような過程で、どの所領を獲得していったかは殆ど解明されていない。
所領について残存する史料から推測できるのは
1.陸奥国熊野神社との争論際、地頭資幹として登場。
2.馬場城(現水戸城)に住したといわれる。
3.南郡佐谷郷が資幹墓所であると子孫が書き残した。
よく見受けられる俗説の一つに、
『”馬場”は吉田神社の馬場』又は『吉田城の馬場』に由来する説があるが、
馬場資幹は吉田氏から派生した石川家幹の次子なので、
正しくはないだろう。
安貞五年(1227)十二月、資幹の子常陸大掾朝幹の書状では、大掾職を小田知重が競望していることを停止するよう依頼するとともに、佐谷郷が資幹墓所としていることから、
安貞五年(1227)十二月までには、馬場小次郎資幹は死去している事を示唆している。
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常陸大掾常春(三村常春)
法名: 萬隆院却外常春弾門
墓石: 城外に、墓石と伝えられる五輪塔がある。
菩提寺: 曹洞宗萬隆山常春寺(リンク:石岡市公式HP内案内ページ)
開山僧:密雙永周(1559年寂)開基:大掾常春 開山:元亀2年(1571) 実在するかは不明。 一次史料には確認されておらず。 伝承として石岡市三村にあった三村城城主として、大掾貞国の弟である常春(実名不明)がいたとされる。
実名不明。
他所で「つねはる」と誤解された記述があるが、常春は実名ではなく法名。
法名「萬隆院却外常春弾門」にあるように、「じょうしゅん」である。
菩提寺とされる曹洞宗萬隆山常春寺は大掾常春の開基といわれるが、
法名が寺名に使われており、寺名が変更されたとは伝わっていないことから、 開基などの伝承も確証はない。 史実: 永禄7年、小野崎三郎が府中より押し出された際、 貞国が「三村より本意」したと烟田旧記にある。 |
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亨徳4(1455)年8月15日、常陸大掾殿妙充、同子息が死去している。(本土寺過去帳)
享徳四乙亥八月(12日) 其外多古嶋城ニテ打死諸人成仏得道 とあり、
千葉介胤宣らとともに打ち死にした様子。
それでは、常陸大掾殿妙充、同子息とはだれであろうか?
妙充 - 子(実名不明)
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