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1430年1月7日(永享元年12月13日)、鎌倉雪の下にて大掾満幹と慶松が殺される。
応永23年禅秀の乱まで、上杉禅秀の子・教朝が大掾満幹の養子となっていたが、
応永23年(1416年)10月の禅秀の乱において、実父上杉禅秀の敗死により、京都へ逃れ僧籍に入ったといわれる。
これ以後、上杉教朝と大掾氏との養子関係は解消されたらしく、一次資料にも大掾氏の動向が不明瞭になる。
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常陸大掾氏累代
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応永15年(1408年) - 寛正2年(1461年)
大掾満幹の養子となっていたが、父が上杉禅秀の乱を起こし一族の多くと共に敗死・自刃すると、兄の憲秋、持房らと共に京都に逃亡し僧になった。
のち、武蔵国に戻り、上杉勢力の復活に尽力する。
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大掾詮国の息。京都扶持衆。
<室>
佐竹 女
<子息>
慶松(童名) 1430年1月7日(永享元年12月13日)、鎌倉雪の下にて実父の大掾満幹と共に殺される。
<養子>
上杉教朝 上杉禅秀の子。応永23年(1416年)10月、上杉禅秀の乱で、実父の上杉氏憲(禅秀)が敗死した際、 他の兄弟とともに京都に敗走。のち、堀越公方・関東管領。
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竹原兵庫頭義国
官途: 兵庫頭
通称: 竹原四郎
伝承: 常陸国南郡竹原城主。大掾貞国の弟とも。
天正6年(1578年)、小川台合戦((下館市小川一帯))に、府中(大掾氏本家)、三村(?)とともに参戦。
(小川台状)
天正12年、沼尻合戦時、
府内2手200梃とともに
竹原2手70梃、として参戦。
文禄の役の際、竹原氏は佐竹氏に従い朝鮮出兵に参加。
当主が 戦地にて病死したため、
義宣より和田氏宛てに、竹原氏の所領没収と「老父」と「幼子」は水戸に移動させるよう指示された。(「秋田藩家蔵文書」) ここに現れる「老父」は竹原義国の可能性が考えられる。
<兄弟>
大掾貞国 府中城主
常春(法名) (伝承)三村城主
女(江戸通政室) 江戸重通母
女(佐竹義昭継室)
昌幹(養子) 佐竹義昭弟、小野崎三郎義昌
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永禄6年(1563年 )2月、大掾貞国は、三村合戦にて小田政治に敗北したと云われる(常陸名家譜)
<常陸日月牌過去帳>
常州府中大掾殿立之
日牌 久昌院殿喜曳常慶大禅定門 霊位
天正五年丁丑十月二十五日 <兄弟>
兵庫頭 竹原四郎義国、竹原城主。
常春(法名) 七郎? 三村城主
江戸通政室 江戸重通母
女(佐竹義昭継室)
昌幹(養子) 佐竹義昭弟、小野崎三郎義昌 |








