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常陸大掾慶幹
系図上では、常陸大掾常幹の子とされるが、大掾常幹の書状などが残存していないため、不明。
天文十五年(1546)、小高直幹の誘いにのった小田政治が大掾慶幹を攻撃してきたが、
慶幹は長者原において小田氏を撃退し、進んで小高城を奪取した、とされる。
これは、江戸期の編纂物や伝承による。
真壁文書によると、真壁久幹と大掾氏が上曽の地をめぐって競ったことが記されており、時期的に大掾慶幹の代と思われる。
一次史料として:
・楓軒文書纂所収市川文書(大掾慶幹書状)
がある。
死去年代:
江戸期の編纂物などには、天文年間に死去したとされているが、
六地蔵寺六角宝形経筒 銘文(茨城県指定文化財)の年紀:弘治2年の銘記から、弘治2年までの生存は確認できる。
最近の研究の方向として、
永禄年間に、佐竹義昭が大掾慶幹の娘を後妻に迎え、常陸府中に入城した経緯から、
慶幹は永禄年間に死去したとする向きもある。
<子息>:
貞国 常陸大掾氏当主
兵庫頭 竹原四郎義国、竹原城主。
常春(法名) 七郎? 三村城主。
江戸通政室 (江戸重通母)
女 (佐竹義昭継室)
昌幹(養子) 佐竹義昭弟、小野崎三郎義昌
■参考
⇒ 大掾慶幹
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常陸大掾氏累代
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