秋田藩士系図
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「佐竹一族の中世」の中でも取り上げられていた、佐竹西家(小場氏)家老職にあった羽生氏。
「佐竹一族の中世」第13章「秋田移封 -付き従った者たち-」(平岡章 著作)では、
宝暦年間の当主、羽生縫殿ノ允治友を取り上げ、過去の情報の伝達の難しさを示している。 前小屋氏、山田氏、高橋氏と並び、常陸国在国時すでに小場氏4宿老であったともいわれているが、
出羽入国以後、引き続き佐竹西家の家老職を担う家柄であった様子。 (茨城県史料III 小泉文書解説では「小屋氏、山田氏、高橋氏、羽生氏」とある。)
秋田移封から既に100年たった、羽生治友の時代には、
秋田移封の記憶や記録は薄れつつあった事を伺わせる
元禄9年 (1696)の系図・由緒などの文書提出命令の際、
羽生縫殿ノ允治友は、1)父・平右衛門の早世、2)自身が10歳の幼少 などにより、
お尋ねの「羽生将監」が先祖であるか返答できなかった。
羽生縫殿丞−−−○―○―平右衛門―縫殿ノ允治友
―女
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糸井氏 宝暦4年 (1707)、治友が提出した由緒書によると、
1)他の羽生家は当家の分家、
2)伯母が祖父より「先祖の羽生縫殿丞は移封前は「羽生将監」と名乗っていた」聞いた。
3)佐竹東家:義堅が将監を名乗ったため、遠慮して将監から縫殿丞に変えた。
と、文書改奉行に由緒改めを提出している。
のち、秋田藩が提出させた系図は以下の通り:
平姓羽生氏
文化12.8. 羽生左司馬治篤
西家家老
備考 1 -治継※―治近―治國―治枝―治友―治貞―治央―治時―治篤
備考 2 ※慶長七御遷封之時右兵衛尉義成二従テ羽州工下ル 上記系図中の羽生治継が、「羽生縫殿丞」であり「羽生将監」であったわけだ。
秋田藩では、大量の文書類や系図、書籍を残したわけだが、
それは、反を挙げての事業、文書改奉行の活動の成果ともいえる。
その一方で、偽文書や偽系図の作成が横行し、本家分家の争いを引き起こすなど、
文書改奉行の仕事を大幅に増やす結果となったことは無視してはならない。
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〔源姓八代氏〕
A:八代 光家※―光久―光貫―光営―光郎― 光羅―光敏―武兵衛武賓☆
※故有テ中村氏ヲ称 シテ天英公二仕フ
〜慶長七年天英公羽州遷封二層従ス〜角館二到 り翌年横手二移 り住ス
☆ (文化)1^二 年本氏八代二復氏
A1:八代 光定※―光道―光智―光重―光旦―光芳―光命―新三郎武任―
※御国替之御山県信濃支配御足軽ニテ罷下
(武兵衛分流)
A2:八代 光定※―光治―光行―光秀―光親―光利―武侶☆
☆文化十二年〜八代氏二改氏
(中 村久右工門光定第二子)
〔源姓八代氏〕
B:八代 長治―長重―重次一角介重治―角助長暢
B1:八代 某 (隼人)一 忠光―忠易―喜右衛門忠重―道経―庄吉道忠―
※八代角介重治先祖分流
B2:八代 忠親―光武―光成―光房―宗兵衛光政
(庄吉分流) 注:天英公とは佐竹義宣のこと。(法名・浄光院殿傑堂天英大居士から、尊称として浄光院様とも。)
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武田 信親 - 安親 - 守親
画工として勤仕える。
狩野武田氏との別記もあり、行方武田氏の系統ではないと再考した。
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